『カーネーション』を久しぶりに

 これからドラマについて考える仕事があって、久しぶりに「カーネーション」をちょっとだけ観た。とってあった録画は最初がちょっと抜けてて残念だったけれど、アッパッパを縫う第6回を15分だけ観て、すっかり報われた。

 糸子は根っからお裁縫が好きなんやけど、それは糸子が一人で勝手に大きなって勝手に好きになったんちがう、隣近所のおばちゃんたちがげらげら笑いながらちゃんと子供の相手して、子供が見たいいうもん見せてあげて、借りたいいうもんは貸したって、おばあちゃんはちょっとしたやりとりで、きれのおもしろさを教えてやるし、おとうちゃんのハサミ遣いはいつのまにか娘に伝わってるし、夜なべしてたらおかあちゃんが声かけてくれるし、最後は妹たちがふすま開けてみんなの前で歌うたってお披露目して、ああこんなんを自分は毎朝観てたんやなて思い出した。たった15分のあいだにちっちゃい糸子の未来のためにいろんな場面が用意されてて、どんだけ糸子が人からいろんなもんもうてるか、どんだけ裁縫好きか、1カット1カットそれこそちくちく縫うみたいに作ってあって、糸子の独白は1行1行ちっちゃな詩みたいで、そうやった、こういうのを毎朝観て、その感じを思い出しながら自転車こいで仕事にでかけてたんやったて思い出した。

 また毎日ちょっとずつ観よ。

わろてんかがわからない

 もう「わろてんか」について真面目に考えないほうがいいとは思っているのだが、つい筋のつじつまを追い始めてしまったので、書き留めておく。

 先週末の話。亡くなった兄の論文は、これからは「この日本でしかできない新しい薬を作る」という主旨であり、栞はその「本当の新しい挑戦」に感銘して出資を申し出たのではなかったか。だから藤岡家は、てっきり新薬開発の研究所でも作り始めるのかと思っていた。ところが今日見たら、薬種問屋は洋薬の専門店となっており、父がニコニコ笑っている。

 それ、兄の夢やのうて父の夢や!

 先週末の話に戻るが、どうやらこの店は薬種問屋だというのに、明治37,8年に大量の戦没者や病死者を出した日露戦争など関係なかったみたいだし、征露丸だの毒滅だの仁丹だのの話も出てこない。兄は「人間は…戦争もする、アホないきものや。人生いうんは思い通りにならん、辛いことだらけや」とてんに言うのだが、これでは「戦争」が何のことかもわからないし、病弱な兄の屈託も、そのことばの重みも伝わらない。せめて少しでも日露戦争の描写をしておけばよかった。

 その兄は「家族の笑顔に包まれ」亡くなったとナレーションで告げられたのだが、いくら「つらいときこそ笑うんや」と兄妹が約束したからといって、跡取り息子を若くしてなくすというそのときに家族が笑顔になるなどということがあり得るだろうか。まさかてんが今際の際に「あーっはっははは」と笑いだしたわけでもないだろうから、その笑顔が生まれる過程をきちんと描いてくれたらよかった。

 栞と会った日に出資の話がまとまり、その日に藤吉と逢い、その翌日にてんがぼーっとしているときには、もう店は洋薬の店になっており、しかもまだ藤吉はじめ一座は京都にいるらしいのだが、いったい今は何年何月何日なのだろう。

 まあ、このドラマに関しては、以上のようなことをいちいち考える態度がそもそも間違っているので、毎日毎週新しい話が始まるのだと思って(それは連続テレビ小説ではないと思うのだが)、気楽に見るのがよいのかもしれない。

 

「わろてんか」をなぜ明日も見るか

ちりとてちん、ドイツ人、土下座、チョコレート、何本もの酒、倉庫、チンピラ、手紙…ほんの10回ほどの間に何ら深みを与えられることなく使い捨てられ燃やされてきたヒトやモノやエピソードたち、倉庫の火事がただの家族騒動にしか見えないのは、火事が深刻だからではなく、このドラマがこれまで番頭や女中頭をはじめ問屋の面々についてろくな描写をしてこなかったからであり、物語の屋台骨を欠いた問屋で父親が孤立し兄が倒れるのも無理はなく、この調子ではいま思い入れしそうになったヒトやモノやエピソードも早晩使い捨てられるに違いない、次は何が粗末にされるのだろうと、もはやヤケクソ気味に覚悟しているのだが、その中にあって、ほとんど後ろ盾のない曖昧な役どころを濱田岳と徳永えりがあまりにも好演している、これは焼け野原の上に演技一本で現実感を立ち上げる劇なのかもしれない、明日も見逃せない気になっている。

 

長島有里枝展 自撮りにおじゃまする感触

 東京に行った空き時間に東京都写真美術館で行われている「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」に行ってきた。

 実は長島有里枝の写真をきちんと見るのは初めてで、初期の家族写真も最近作の縫うことをテーマにした作品もとてもよかったのだけれど、けっこうあとからじわじわ思い出されたのが、スライドショー仕立てで映写されていたセルフポートレート集だった。

 一般に自撮りの写真では、多くの場合、腕が写っていたり、姿勢が少し半身に寄っている。だから自撮り写真を拡大すると、その人の腕に半ば抱かれるような感じになる。

 実を言うとわたしは、そういう位置から撮影者の表情を見るのは、あまり得意ではない。というのも、自撮りをする人はたいてい、スマホや携帯で自分の顔をモニタしながら撮影しているからだ。そうした表情の多くは、自分の表情筋とモニタとの相互作用の果てにその人が納得した結果としての表情であり、そこには他人の入り込む隙間がない。なのにその人の腕は撮影の都合上こちらに伸びており、見ているこちらは、ちょっと抱かれている。その人は抱くつもりもないのに。

 長島有里枝の自撮り写真を見て、そういう違和感がないのに驚いた。彼女はセルフポートレートで、ときおり腕を伸ばしてカメラで自分を撮影している。にもかかわらずその表情に、モニタで自分の表情を隙を見せぬようチェックするような、自己完結したものが感じられない。開けっぴろげで、見る者を抱くように撮影されている。もしかしたら彼女はスマホなどではなく、カメラで、モニタを見ずに撮影しているのかもしれない。ともかく、ポートレート用に手持ちの表情を用いるのでもなく、かといって自分の表情をモニタするのでもなく、闊達に投げ出していて、ひどく風通しがいいと思った。

 自撮りに限らず、セルフタイマーで撮影されたとおぼしきものや、誰かの手でシャッターが押されたとおぼしきものからも同じ感触があった。カメラをセットして、カメラから離れてレンズの向こう側に移動し、シャッターを待つ。その時間にこちらもお邪魔できそうな気がする。長島有里枝の写真は見る者をセルフに招き入れる。不思議な親密さだ。ただ親密なだけでなく、彼女とわたしの親密な距離のなかで、わたしに向けられているのではない彼女の親密な表情のことを考えさせる。

 帰りに「背中の記憶」(講談社文庫)を買って帰ったのだが、これがまたしみじみとよいエッセイ集だった。とりわけ、叔父の「マーニー」について綴った文章にはやられた。自分の感情を表すのが苦手で、ついその場にそぐわないことを言ったり怒ったりする人のそばにいて、その人が投げ出す表情にある、人らしさをさっと掬い上げてみせる。ああ、こんな風にこの人は写真を撮ってるのだな。


 もしかしたら、スマホのモニタを見ずに自分を撮ったら、少しはマシな写真が撮れるのではないか、と思いつき、何枚か撮ってみたら、なんだかわたしは眠たげだった。しかし、モニタを見ながら構えて撮ったときより、なんだか気ままそうで、悪くないなと思った。

吉野、釜ヶ崎、西行

 今日は上田假奈代さんと誠光社で釜ヶ崎の話をした。

 最初に声の話をしておいたのがよかった。假奈代さんが十代の頃、吉野山で木に向かって古典を朗読してたら「声が見えた」と言うので、それはふと西行の「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」を思い出して、それって西行が木の梢や雲を見るうちに身も心もあくがれ出でる話に似てるなあという話をしたのだが、あとで、釜ヶ崎でビールの缶ハサミで切っていろんなカラクリを作るからくり博士のおっちゃんの話になり、そのからくり博士が、通天閣が自動的にビールを飲むカラクリを作ったという話をきいて、「その人、西行!」って思わず言ってしまったのが今日のヒット。通天閣は釜ヶ崎の梢。

 声は我が身を放つ。その放たれる我が身は、誰に聞きとどけられるように放たれるのか。

 わたしたちはつい、一人語りのおもしろさや巧みさを「表現」と呼ぶけれど、語りは一人では始まらない。それがいわゆる語り芸になる前に、誰かに声で語る気になること、語りを聞きとどけることは、それはすでに表現のたねではないのか。釜ヶ崎で誰にも過去を語らなかった人が、誰かに電話をかけ、声で語り出すときがある。語り手だけに属するのでも聞き手だけに属するのでもない声。そういう話になった。

 普段は釜ヶ崎の話と表現の話は別々になってしまうんだけど今日はそれがくっついたのでよかった、とあとで假奈代さん。


 土地の記憶について。

 いまの釜ヶ崎近辺は明治前期は田んぼだったのだが、明治36年(1903年)に内国勧業博覧会を行うため、名護町(いまの日本橋界隈)に住んでいた人たちを立ち退かせたことで、釜ヶ崎に木賃宿が形成されたという(加藤政洋「大阪のスラムと盛り場」を白波瀬達也「貧困と地域」から孫引き)。そのあと、1970年の大阪万博で日雇い労働者の流入によって釜ヶ崎はまた変容する。假奈代さんをはじめ、内国勧業博覧会の跡地にできたフェスティバル・ゲートで活動していた面々がやがて西成でさまざまなプロジェクトを始めることまで含めると、この地は博覧会によってさまざまな影響を被ってきたのだとも言える。

 天王寺から天下茶屋まではかつて南海電車天王寺線が斜めに走っていたのが、いまはあたかもこの地域の縫い目のようにフェンスで囲われた地帯となって、街のあちこちに破調をもたらしている。たとえば動物園前一番商店街の真ん中を斜めに横切っているフェンス地帯がその典型だ。ココルームの裏には意外に広い庭があるのだが、それは実はこの鉄道跡に接しており、変わった形になっている。また萩ノ茶屋の三角公園もこの鉄道に沿った形で「三角」になっている。そういう話もイントロでちょっとやった。

祭りと脱線

 アネモメトリの最新号で、福永信さんが探訪記を書いておられる。最初から脱線しておられて、実に共感をもって読んだ。芸術祭に行くのはどこか、見知らぬ土地に紛れ込むのに似ていて、わたしもずいぶん脱線を楽しんだからだ。何がどう脱線かは、福永さんの文章をどうぞ。

まちと芸術祭

 それで、わたしもあれこれ脱線したのだけれど、それについては、10/7発売の新潮に「風の一撃:札幌国際芸術祭から」と題して短文を記したのでよかったら読んでみて下さい。吉増剛造、砂澤ビッキ、そして毛利悠子の作品を取り上げています。

“Deacon Blues” by Steely Dan

「ディーコン・ブルース」の成立の背景については、「Deacon Bluesについて(M. Myers “Anatomy of a Song” より)」を参照のこと。

 

“ディーコン・ブルース”

ついにやってきた意識拡張者の日
あれはおれの影
かつてはあそこに立っていた
つい昨日みたいだ
ガラス越しに見ていた
ごろつき、ギャンブラーたちを
いまはみんな過去

馬鹿だと言うかい
そんな考え方は狂ってるとも
でもこれは本物
もう夢を買ってしまったのだから
問うても無駄
キスしてサヨナラ
今度こそやってやる
越える覚悟はできているあの一線

[Chorus]
覚えてみようサクソフォン
ただただ気ままに吹くんだ
スコッチ・ウィスキーを一晩中
そしてハンドルを握ったまま死ぬ
この世の勝者に名前があるなら
敗者にも名前をくれ
アラバマ大が「クリムゾン・タイド」なら
おれはディーコン・ブルース

もうあとがない
これじゃお笑いものだ
渡すものか
本物のロマンスのエッセンス
おれたちが知り、愛したものを分ちあおう
おれみたいなやつらと

啓示
自身を揺さぶる

ヘビみたいに這い回るのは
郊外の通り
女どもと乳繰り合うのは
けだるく苦く甘い
日暮れとともに起き上がり
街のことならまかせとけ
この世界はおれのもの
この世界をおれのホーム・スイート・ホームにしてやる

[Chorus]

ついにやってきた意識拡張者の夜
最後の一発をキメて
そろそろ行き止まりってところか
泣いてしまった、この歌を書き終えたとき
教えてくれ、プレイが長すぎたら
おれさまは自由
やりたいようにやるさ

[Chorus]

by D. Fagen and W. Becker (試訳:細馬)

『わろてんか』チョコレート考

『わろてんか』の第一週、幼少期の主役である新井美羽をはじめ俳優の演技を楽しんだ。ことに鈴木福の驚きのバリエーションが豊かで、いい役者さんになってはるなあと思う。竹下景子、鈴木保奈美、遠藤憲一も関西の人ではないけれど、それぞれよい味を出している。オープニングのアニメーションの、驚き盤を模したような風合いもよい。

その一方で、脚本と演出は、ちょっと物足りない。

たとえばてんが逃げ回るうちに高座にあがってしまい、その顛末が観客に笑われる場面。おそらくは、のちに「しし」として舞台に現れて笑いがとれなかった藤吉との対比を出そうという狙いだと思うのだが、この場面はこれから何度か回想されるのだろうから、何かあとでてんが思い出して心温まるような大人とのやりとりがあればよかった。怒られると思った噺家から声をかけられるとか、コツンとやさしく小突かれるとか。観客から「ええぞ!」の一言がかかるとか。あるいは高座の後ろの幕からこっそり覗いて、噺家の浴びる笑いをそのまま感じるとか。いまのままだと、てんはたまたま噺をぶちこわして笑われただけだから、将来この場面を思い出したとしても、ちょっと思い出が殺風景なのだ。そういえば、やはり繰り返し用いられるドイツ人とのやりとりだが、わざわざてんが謝りに行った結果はどうなったのだろう。

「チョコレートの世界史 武田尚子」の画像検索結果もっとも違和感を持ったのはチョコレートの扱いだった。わたしは明治30年代のチョコレート事情には通じていないが、武田尚子『チョコレートの世界史』(中公新書)などを読むと、この頃はまだ純正国産のチョコレートもなかったようだし、あんな金のノベボーみたいなチョコレートを、気楽に食べることはできなかっただろう(ちなみに森永が原料用のビターチョコレートとミルクチョコレートの製造を始めるのは1918年のことだという)。薬種問屋らしく、これは滋養強壮にきくんやとか、お菓子やない、薬どすえ、というような注意はなかったか。また、いまのように知られていないその不思議な味を、人は即座においしいと思っただろうか。そもそもこの時代のチョコレートは現在のミルクチョコレートのように食べやすいものではなく、もっとココア臭のきついものだったかもしれない。

だからこそ、まずはてんが食べたときの反応をどこかで見たかったし、珍しい食べ物なのだから、藤吉が一口食べて「けったいな味やな」とか、あるいはてんが「そない急いで食べたらあかん…」というやりとりもあり得ただろう。はたまた藤吉の口の周りについたチョコレートに対して風太が「なんやこいつ、口に『茶色い』のつけて」などと突っ込むとか、それを舌でひとなめして藤吉が「甘い」とうっとりするとか。すでに妄想が過ぎる気がするのでこの辺で止めておくが、ともあれ、この場面は、てんと藤吉、風太の初めての出会いなのだから、何か三人の心に刺さってあとで思い出されるような魔法が埋め込まれているとよかった。

もう一点、チョコレートを「チョコ」と呼ぶのはこの当時それほど一般的だっただろうか。もしチョコレート、ということばを「チョコ」と略して使うのであれば、その不思議な響きに対する違和とおもしろさを二人でかみしめるところも欲しかった。そういえば、あとでキースがそのチョコレートのことを「とろける」ということばで思い出すのだが、彼に「とろける」ということばを使わせるやりとりは、どこかに埋まっていただろうか(藤吉の口にべたべたついた茶色いものを見て、自分が食べもしないのに「とろける」とは言わないだろう)*。

思い出は物語ではなく、物語のタネであり、タネは定型におさまらない細部に宿っている。幼少期のエピソードには、そういう細部があるといいのになと思う。やはり明治30年代生まれで船場や神戸に暮らした稲垣足穂の書くチョコレットやココアの魔力を思うと、『わろてんか』にも、もう少しチョコレート・マジックが欲しいのだ。いや、私が単に食べ物に意地汚いだけかもしれないのだが。

(*注:10.7分を見て追記した。)

10.12 追記:その後、ドイツ人の扱い、酒の扱いほか、さまざまなエピソードを見たところ、これはどうやら、時代背景を掘り起こしたり各エピソードから細部を積み重ねていくドラマではなく、その場その場で笑いを取りに行くドラマのようだ。チョコレート云々などと細かい話を望むべくもなく、この文章もまるでアサッテのことを妄言したものと考えたい。

“What a Shame About Me” by Steely Dan

 2000年の”Two against Nature” から。個人的にはスティーリー・ダンのなかでいちばん好きなアルバム。この”What a Shame About Me”は大学時代の同級生との再会を歌っているのだが、もしかしたら”Peg”で歌われているスターとなった女性とのその後かもしれない。少なくとも「昔の学校の頃に戻って」というところをきいて、「もう二度と戻るもんか、昔の学校の頃には」という”My Old School”の歌詞を思い出さないファンはいないだろう。2000年の歌ということもあって「新世紀に滑り込み」という部分がいかにも情けない。最後のShame!という女性コーラスの切れ味があまりにすばらしいので訳に加えてしまった。


“What a Shame About Me”

一日仕事に精を出していた
ストランド書店で古本を並べてると
ふらりと入ってきたのはフラニー、ニューヨーク大学以来だ
あの頃はちょっと深い仲だったが
今の彼女の映画やショウやCDのことを話した
他に話すこともなかったから
彼女は言う、そうね、ハリウッドは暮らしやすいわ
ところでどう、あなたの方は

あいかわらず小説を書いてるけど
そろそろ潮時かもしれない
だって将来のことも考えなくちゃいけないし
このままかもだし
まったくこんなことになるなんてね
消え入りたいよ

彼女は言う、ねえ、誰かに会った?
昔の仲間に
ボビー・ダカインはブンセン賞をもらって
今度新作を出すんだって
アランはスティーマー・ヘヴンズの支店を持ってて
バリーはソフトウェア王でしょ
誰かが80年代のはじめに言ってたけど
今度はあなたが大物になる番だって

いや、それはただの噂だよ
まあ元気にやってるけどね
リハブから戻って3週間
その日暮しで
新世紀におめおめ滑り込み
消え入りたいよ

消え入りたいよ
大学のジェーン・ストリートに日が昇って
君は非常階段で女神みたいだったっけ

立ち話も話題が尽き
もうどん詰まりというところだった
じゃ、元気でねと言おうとしたとき
彼女はぼくの手をとってこう言った
「ねえ、いいこと思いついたんだけど
すごくすてきじゃないかな
タクシー拾ってわたしのホテルに行って
二人で昔の学校の頃に戻ってみるの」

そうだね、君はとてもそそるし
こうやってすごく近くにいるし
でもここはロウアー・ブロードウェイで
君が話してる相手は幽霊なんだ
よく見てごらん、すぐ目が覚めるから
消え入りたいよ
消え入りたいよ

恥!恥!

by D. Fagen and W. Becker (試訳:細馬)