阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(4)

螢火は螢の下を先づてらす

 阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。

 ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(3)

手の甲を見れば時間がかかるなり

 阿部青鞋『ひとるたま』より。暇つぶしならば、時間は「経つ」はずだ。けれど青鞋は、時間が「かかる」と書く。どうもこれは、単なる暇つぶしではない。むしろ何かに「取り組んでいる」のだ。しかし、たかが手の甲を見るくらいのことに人は「取り組む」だろうか。おそらく最初は、何の気なしに始まったのではないか。たとえばてのひらを見るように。しかし、いざ始めてみると、てのひらのようにはいかなかった。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手の甲について何か考えようとして手の甲を動かす。しかし変化といえば、手の甲に浮き出した骨が、指とともにその浮き方をわずかに変えるくらいで、なかなか手の甲は正体を現さない。気がつくと、本格的に「取り組んでいる」。手の甲をどうにかしてやりたい。指に隷属する動きではなく、手の甲自体に手の甲の意志を浮き立たせるような積極的な表現を持たせてやりたい。そんな親心をよそに、手の甲はただわたしの年齢並みの皺やらがさつきやらを纏っているばかりだ。たぶん、わたしの顔も、いま、手の甲のようになっている。

『カーネーション』再見 #53

 山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
 「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
 「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
 ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。

 実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(2)

 要するに爪がいちばんよくのびる

 阿部青鞋『ひとるたま』より。「要するに」でまずぎょっとする。要するに、とは急ぎのことばであり、要されてしまった以上この句は最後まで一気に速く読まねばならない。速く読み終えてから、なんだったのだろうともう一度読み直す。爪がいちばんよくのびる。何も難しいことは書かれていない。いないのだが、「いちばん」というのが気になる。いちばん、という結論を出すための比較や思考が要するに要約されているからだ。何と比べられ、爪が残ったのか。爪がナンバーワンだとして、ナンバーワンにならなかったものはなにか。髪か、睫毛か、産毛か、鼻毛か、はたまた陰毛か。ああ毛しか思い浮かばない。わたしたちは毛しかのばすことができないのか。いや、人体から離れよう。植物ならいくらでものびるし、みるみる育つ。わたしは最近、スーパーで豆苗を買ったのだが、こいつはスポンジに植わった豆ごと売っており、ハサミでじょきじょきと苗の部分だけ切ったあと豆に水をやると二週間ほどでまた食えるほどの大きさになる。じつによくのびるではないか。勤務先では今日も草刈りが行われたが、その刈られた草の隙間からさっそくミントの小さな芽が新しい陽当たりを得て顔をのぞかせていた。かように、のびるものはいくらでも思いつく。思いついてから、じっと手を見る。手のひらではない。手の甲だ。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手のひらは皺を寄せたりのばしたり、実に表情が豊かなのに、なぜ手の甲は無愛想なのか。動かしても動かしても、骨がひくひくと移動するだけだ。ふと爪が目に入る。そうか。爪はもっと無愛想だ。動かしても動かしても形が変わらない。やはり爪だ。爪は甲より自由にならぬ。そして爪は毛よりのびる。要するに爪がいちばんよくのびる。

 かくしてこの文章はようやく要するだけの長さを得た。得たのだが、これでもまるでこの句に書かれなかったことを言い当てた気がしない。この句には、宇宙マイナス爪の虚が広がっている。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(1)

 最近、佐藤文香さんから阿部青鞋(あべせいあい)を教えてもらい、句集を何の気なしに開いたら、一句一句、ただならぬおもしろさで、しかもこれほど視点の自由な句を作る人が大正三年の生まれと知り、驚いてしまった。阿倍青鞋の句集『ひとるたま』(現代俳句協会/昭和五七年)はなかなか手に入らないそうなのだが、一冊譲っていただいたので、この機会に少々思いついたことを書いておこうと思う。

 

 笹鳴のふんが一回湯気をたて

 

 『ひとるたま』の最初の句。もうこれだけで、わたしはやられてしまった。

 警戒心の強いうぐいすを、作者は野外で目撃したのだろうか、あるいは飼っていたのだろうか。うぐいす、というだけでも小さいが、ホーホケキョではなく「笹鳴」ということばがなんともささやかで、いっそうその主体は小さく細く感じられる。その、チャッチャとささやかな笹鳴をする生き物からさらにささやかなふんが出る。冬の冷たい空気にさらされて湯気がさっと立ち、消えてしまう。まるでその笹鳴にも小さな体温があることを示すように。

 鋭い観察眼、というだけでは済まない。作者はこの一瞬を見逃さなかったばかりでなく、その間、うぐいすに気取られなかった。よほど気配を消していたに違いない。自身の気配が消滅した空間に、針のような湯気がさっと立つ。その態度が読み手を澄ませ、読み手に小さな温度を灯す。しかも、この繊細な温度をもたらしたのは、体外に排泄された「ふん」なのだ。うぐいすからもその鳴き声からも分かたれたただの「ふん」のこと、ある日ひり出されてすぐに温度を大気に預けてしまい、ほどなくその形もありかもわからなくなってしまっただろうほんのささやかな「ふん」のことを、読み手は忘れることができない。

『カーネーション』再見 #52

 金糸入りの服は売れに売れているけれど、直子はあいかわらず猛獣。またあの子守の子が出てきた!なんとなくうれしい。

 手に余る直子を、勝は弟のもとに預けることを提案する。糸子はしぶしぶ承知する。

 勝の弟のところへいく道すがら、山道を登っていく糸子と勝。糸子は「こんな遠くやったか?前きたときは、もっとちかなかったか?」勝は「前きたときは手ぶらやったさかい。」と応じる。
 このやりとりをきっかけにことばの堰が切れたかのように、糸子は勝をちらちらと見ながら、ひとりごとともつかぬことを言う。

 前きたころは、結婚したばっかしで、気楽なもんやったな。
 戦争も始まってへんかったし、勘助もおった。
 うちはこどももいんで、もっと若かったし、もっとべっぴんやった。
 色かてもっと白かった、あしかてもーっと長かった。

 これらと引き替えに、糸子はいま直子の重みを背中に負っている。勝と糸子が山道を登っていく、その足取りの時間と、これまでの二人の来し方の時間とが重なる、美しいシークエンス。その終わりぎわに、糸子は背中の直子に振り向く。「な」。

 この短いひとことによって、これまでのシークエンス、糸子と勝の来歴は、まるごときかん気の直子へ捧げられたかのように感じられる。

『カーネーション』再見#51

 昨日から一日一話ずつ、『カーネーション』を見直すことにした。
 一気に観てしまってもいいのだが、そうすると一週間の呼吸を感じ取りにくくなる。
 実際、50話まではこの二週間くらいかけて間欠的に観て来たのだが、あまりの楽しさに一息に見たので、「朝の連続テレビ小説」の気分を受け取り損ねているような気もした。
 それで、51話からは、放映時の季節と合わせて、毎朝15分だけ観て、仕事への道すがら、その15分を揺らしながら考えようと決めた。

 ここには、そのメモを書き留めておく。こういうことは「あまちゃん」のときもやったのだが、あれはちょっと頑張り過ぎたので、もう少しメモらしく断片的な形で。

 昭和15年。昭和9年の勝との祝言以降、ドラマは一回ごとに時間をアップテンポで進めていくのだが、その変化は画面に巧みに表されている。たとえば今日は、菓子屋だった。小さい頃から食いしん坊の糸子が通ってきた菓子屋の棚やガラス箱ががらんどうで、木箱の片隅に大福が置いてあるだけ。この場面ひとつで、昭和15年の雰囲気が出る。「国民から栗饅頭をとりあげるようなみみっちいことで、ニッポンはほんとうに戦争なんか勝てるんか?」糸子はいぶかしがる。

 この菓子屋に足りないのは、菓子だけではない。勘助がいないのだ。店番をしていた勘助の不在が、がらんどうの棚から立ち上がってくる。

 勘助は前々回の昭和12年、盧溝橋事件の年に兵隊にとられた。この年号はいろいろ暗示的だ。

 この回ではこうした時局の変化と並行して、幼い直子の暴れっぷりがあちこちで表現されている。まず子守を頼まれた吉田のおばちゃんは前掛けをどろどろにして戻って来て、「どこの猛獣連れてきたんやちゅうほど、家ん中ぐっちゃぐちゃなってしもたわ」と言う。夜中には鉢植えを倒してあちこち這いずり回っている。

 中でも印象的なのは、生地屋の大将に言われて直子のおもりをした子だ。

 この、名前のわからない子は、戸口に立って「大将にいわれて、おもりしやったんやけど直子ちゃんがなんぼ言うてもうちのおさげひっぱってくるし、ひっかいてくる…」と訴える。彼女が登場するのはこのワンシーンだけなのだが、その個性的な顔立ちが妙に印象に残る。それは演出のせいだ。カメラは台詞の間、糸子の後ろから彼女の悲しげな表情をきちんととらえるように撮っている。さらに次のカットではせりふに出てくる「おさげ」や直子にひっぱられたらしい袖の破れ、泥で汚れた衣服の様子も映している。つまり、「猛獣直子の犠牲者」としてこの子の姿がくっきりと視聴者の目に止まるよう、演出が行き届いているのだ。こんな風に、通常のドラマでは端役として簡略に扱われかねない人物も印象に残るように描いているのが、『カーネーション』のぐっとくるところだ。

ブンガワン・ソロ、小舟のゆくえ/崎山理『ある言語学者の回顧録』

 崎山理先生から『ある言語学者の回顧録』(風詠社)をお送りいただいた。崎山先生とは五年ほど勤務先でおつきあいしたのだが、論考をまとめて読ませていただき、言語人類学の広大な世界の楽しさに改めて気づかされた。マダガスカルの歴史的経緯と言語学が交錯する湯浅浩史先生との対談、言語の十字路と行き止まりを考察する片山先生との対談も楽しい。

 島の文化や言語には十字路型(回廊型)と行き止まり型がある、とするのは片山論なのだが、崎山先生はそれを受けて、イギリス英語を、古フランス語の影響を受けたゲルマン語、すなわち行き止まりにおける言語要素のたまりとして論じる。われわれがいまやリンガ・フランカとしている言語も、もともとは「行き止まり」の産物なのかもしれない。

 はたまた、オーストロネシア語(南島語族)の時間感覚については、「基本はアスペクト」、すなわち、その状態が続いているかどうかを中心に考える言語であるという。つまり「人間生活が中心にあり、そこでどういうふうに時が経過し、進行し、終了するかという意識に基づいて」おり、そこが客観的物理的な基準で判断する時制の言語とは異なっている。オーストロネシア語では時、分ということばが借用語となっているのがその証拠。
 ただし、自然界からの情報として、星や星座を利用する「星座歴」が用いられる。「真上を南中する星の、朝大洋の昇る直前に東の空で輝く、それを目印にしているのです。ミクロネシアでは、最近までその知識が残っていました」。

 この話を受けて片山先生は「月よりも星を大事にする社会というのは、島社会なんでしょうね。星というのは、水平線を出て、水平線に沈まないと意味がないわけで、中途半端な山の上から出てきて山の上に沈んでもあんまり意味がないですからね」と応じる。楽しい対談。

 あとがきに、ブンガワン・ソロの原文に基づく歌詞訳が載っていた。この曲は「グサン作詞・作曲」としてよく知られているのだが、美空ひばりの歌うバージョンをはじめ、日本で流布しているさまざまな「ブンガワン・ソロ」の歌詞は実際のグサンの詞とは異なることが多い。崎山先生の訳はこうだ。

 ソロ川よ、君の生い立ちは以前から人々の関心事だ。乾期は水がさほどでもないが、雨季には水が溢れて遠くまで達する。千の山々に囲まれたソロの源泉から水が流れ出て遠くまで達し、遂に海へ。あの舟はソロ川の生い立ちを物語る。商人がいつも舟に乗っている。(崎山理訳)

 「最後に海と合流した川はその存在が消えてしまうのでなく、小舟に変身し(men-jelma) 商い人が日々利用すると見た」ところにこの歌の「ジャワ的思考」があると崎山先生は指摘する。

 川の記憶を保ちながら大洋に出て、星に導かれ、南赤道海流にのって遠くマダガスカルまでぷかぷか進んでいく小舟。読みながら、そんな幻想も浮かんだ。

落語の中のあこがれ:笹野高史の「時うどん」と『わろてんか』の物語

 それにしても土曜日の「わろてんか」第四二回、笹野高史演じる文鳥師匠の「時うどん」には惚れ惚れとしてしまった。

 もちろん、それは笹野高史の演技のすばらしさによるものだったのだが、もう一つ注目したいのは、この「時うどん」の場面がドラマの中でいかに演出されていたかという点だ。以下では笹野高史の演技だけでなく、『わろてんか』という物語において「時うどん」というネタはいかに位置づけられていたか、そしてそれはどのように演出されていたかに注目して、いくつか異なるアングルから振り返ってみたい。


 上方の「時うどん」では、江戸落語の「時そば」と違い、最初の夜、兄貴分と弟分が二人で一つのうどんを食べる。これは、落語の好きな人にはよく知られたことだが、大事なのは、この二人で一つのうどんを食べることが、後半の物語に重要な違いをもたらすということである。

 次の夜、一人でうどん屋に来た弟分は、兄貴分の真似をして足りない銭でうどんを食べようとする。このとき、ただ最後の銭の数え方を真似するだけでなく、兄貴が自分と二人で食べたときにやったやりとりを全て真似しようとする。前の夜、兄貴分は、うどんの残りを気にする弟分が袂を引くのをうっとうしがって「ひっぱりな!」と言っていたのだが、弟分は、このやりとりまで、一人で真似てしまうのである。そのため、弟分の所作は、そこに居もしない誰かに向かって「ひっぱりな!」と叫ぶという、奇妙奇天烈なものになる。

 こう書くと「時うどん」の弟分は単なるマヌケに読めるかもしれないけれど、実は「時うどん」の楽しさは、この弟分が単にマヌケであることではなく、兄貴分の所作を演じる喜びを全身で表現している点にある。弟分は、単にうどんを食いたくてうどん屋に来たではない。兄貴分のような大人びた振る舞いをしに来たのであり、兄貴分と同じ台詞、同じ所作が言えることが、うれしくてしょうがないのだ。

 そして、この弟分の兄貴分に対するひそかなあこがれ、兄貴分の振る舞いをなぞる高揚を表すことこそが、「時うどん」の見せ所となる。観客は、この噺をききながら、兄に重なろうとする弟に物語の中の弟に重なろうとする噺家を見出し、弟分の演じる喜びと噺家の演じる喜びとを二つながらに受け取るのである。

 このように「時うどん」は、演じるということにおいて二重の構造を持った噺であり、その意味で、俳優が演じるのにまさにうってつけのネタだと言えるだろう。

 そしてそれは実際、すばらしい効果をあげていた。笹野高史は、次の夜の始まりに、弟分の声で「ゆんべとちっともかわらんようにやって、一文ごまかしたんねん」と言うのだが、ここでいかにもその場にいる見えない誰かに自慢するように、客席に周到に視線を配る。この観客席に対する見渡しによって、これから行われる弟分による演技は、単にうどん屋相手というよりは、そこにいる観客相手であるかのように感じられてくる。

 弟分が、垂れ下がった袂を手で叩いて、「ひっぱりなー!」という件もそうだ。笹野高史は後ろをちらと見ることはなく、あくまで正面の客席を見続け、満面の笑みを浮かべる。この、正面を向いたままの演技によって、弟分の得意げな心情がしっかりと伝わってくる。声もよい。兄貴分は語尾をもっと切り詰めて「ひっぱりな!」と短く言っていたのだが、弟分は演じることがうれしくてしょうがないので、思わず語尾が延びて「ひっぱりなー!」となってしまう。笹野高史はそういうところも細かく演じ分けて、弟分にとって(そして俳優にとって)演じることがいかに高揚に満ちた愉悦であるかを表す。


 さて、この笹野高史の演技は、どのように演出されていただろうか。

 通常、落語の高座をは、よけいな演出を排して正面から引きとアップを撮影する。そのことで噺家の芸をより直接に見せようとする。しかし、『わろてんか』のこの場面では、噺家を画面に収めるカメラだけでも、正面、上座下座のかぶりつき、そして噺家の後ろと、四台が用いられている。この場面が何回に分けて収録されたのかは知らないが、これに客席を撮影するカメラが入るから五台以上は用いられているだろう。

 このうち、特に注目したいのは高座のすぐ下からあおるように撮影している上座下座の下からのアングルだ。それはちょうど、最前列に陣取った子供の目線でもある。この、通常の落語の収録では用いられないアングルからの撮影によって、「時うどん」の物語は思わぬ効果をあげていた。

 その一つが、兄貴分が銭を払う場面、「時うどん」の鍵となる場面だ。兄貴分が小銭を八つまで出して「うどん屋、いまなんどきや」と尋ねる。うどん屋が「へえ、九つでんな」と答えると、ここでアングルは上座の下から兄貴分の所作をとらえる。兄貴分の腕は、下に向かって、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六と景気よく銭を繰り出す。見えない銭はちょうど真下から観ている子供(そしてカメラ)に向かって落ちてくる。実は銭勘定をごまかしている場面なのに、まるでこちらに向かって贈り物を降らせているように見える。思わず兄貴分にうっとりしてしまう。うっとりしてしまう気持ちが、弟分の気持ちに重なる。

 そしてもう一つの場面が、次の夜、弟分がいよいよ銭を払うところだ。弟分はこの見せ場が来たことの嬉しさが抑えきれなくなり「えへへへえ、いよいよや、いよいよや〜」というのだが、カメラはこの「いよいよや〜」で切り替わり、客席を見渡す笹野高史の顔の動きを、下から捉えている。このとき、あちこちから笑いが起こるのだが、その笑いは、観る者にとって、まるで後ろから聞こえるように感じられる。それはカメラが、子供の視線を借りているからだ。おそらく子供は、この物語のおもしろさを、正面にいる噺家からだけでなく、自分の頭上を越えて後ろを見渡す噺家の視線の先から視覚的に感じ、最前列にいる自分の背中に響く笑いから聴覚的に感じているのである。これらカメラ位置の生む笑いのサラウンド効果によって、銭勘定を待ちかねて嬉しさを漏らす弟の感情は、寄席全体を包むだけでなく、テレビの前の観客すらも包んでしまうのだ。

 こうした演出によって、この噺の弟分の視点は、噺をきく子供の視点と重なり、兄貴分に対する弟分のあこがれは、噺に対する子供のあこがれと重なり、さらにはこのような場を生みだしている寄席に対する子供のあこがれと重なった。それは、物語の主人公である藤吉が寄席に対して抱くあこがれでもある。これらの幾重ものあこがれが、この場面に落語の高座とは異なるドラマとしての高揚をもたしていたと言えるだろう。


 『時うどん』にこめられたあこがれは、明らかに、『わろてんか』の主人公であるてんと藤吉のそれぞれの幼少時代のあこがれと重ねられるべく作られたものだろう。それは、文鳥師匠に高座を頼んだときの藤吉の語りにも現れている。藤吉は自分が子供の頃いかに文鳥師匠の落語を愛していたかを語ろうとして「時うどん」の所作を真似る。この真似が、よく知られている銭勘定の件ではなく、「ひっぱりなー!」の所作を真似たのはよかった。この所作では、袂を右手ではたくときの、ぱん、というほがらかな音が実に楽しく、いかにも子供が真似たくなるものなのだ。それに、「ひっぱりなー!」の場面は先に述べたように、弟分の兄貴分へのあこがれを示すものであり、それは藤吉の文鳥師匠へのあこがれを表す場面としてふさわしい。

 惜しむらくは、この場面にいたるまでのこのドラマの筋運びにその落語へのあこがれが不足していることだ。もし、この文鳥師匠に対する藤吉のあこがれが、もっと早い段階から丁寧に描かれ、日頃の彼の所作や作業の中に落語からの影響が表現されていたなら、藤吉の噺に反応する表情にはもっと奥行きが出たことだろう。残念ながら、藤吉の落語熱は、この数回、文鳥師匠の登場に合わせるかのように急に語られ出したので、初回から観ている者にとっては、いままで落語にさしたる執着を見せていなかった藤吉の豹変ぶりは、いささか違和感を感じさせるものだった。文鳥師匠の「時うどん」に合わせて唇を動かす藤吉のカットも、どこかとってつけたようだ。てんの幼少期の落語の思い出も、落語を楽しむ人を見て笑いに目覚めたというよりも、むちゃくちゃになった高座を見て笑う人を目の当たりにしたというもので、この場面にはそぐわない。このドラマでは登場人物の振る舞いがしかるべき来歴を持っていないことが多いのだが、それについては、すでに何度も書いたのでこれ以上は書かない。

 ともあれ、笹野高史による「時うどん」の場面は、噺の選び方といい、見せ場の切り取り方といい、演出といい、これまでの「わろてんか」の中でも最も心動かされるものであり、落語がドラマの中でいかなる力を発揮しうるかを改めて考えさせられた。


追記:翌第8週ではこのエピソードは特に活かされることもなく、落語についても、文鳥師匠の問うた「寄席の色」についても、何ら語られることはなかった。実にもったいない。第9週以後、私は視聴をやめてしまった。(2017.11.28)

ト書きの時間、「待つ」宣言:新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演

 

新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演(演出:宮沢章夫/訳:岡室美奈子)(早稲田小劇場どらま館)11/11(土)14:00-
出演:上村聡、善積元、大村わたる、渕野修平、小幡玲央、井神沙恵


 「リーディング公演」と銘打たれているので、つい、全員が椅子に座って脚本を読み合わせる姿を思い浮かべていた。そして確かに、舞台中央にナレーター(会場アナウンス係を兼ねていた)が座り、ついで全員が入場して椅子に座るところから始まったのだが、そこからは少し違っていた。

 脚本を持ったまま、ウラジミールもエストラゴンもあちこち動く。もちろんポッツォもラッキーも少年も動く。おもしろいのは、ドタバタ動くところで、ところどころ、脚本を置いたり他の者に手渡すことで、まるで脚本という「モノ」を使って、球技に似た新しいスポーツを編み出しているように見えた。

 もう一つおもしろかったのはト書きの扱いだ。この劇に特徴的な「沈黙」も含めて、すべてのト書きは中央にいる(この劇には不似合いなほど)赤い華やかな衣装を着たナレーターによって読まれる。その結果、沈黙は「沈黙」ということばを発する時間になり、通常なら舞台にいる俳優たちによって作られるであろう間が、ト書きを読む時間に変貌する。ト書きと台詞の間も実に入念に調整されている。「台本通りに進む」という言い方があるが、この劇は「台本通りに進み過ぎている」。この「進み過ぎている」感じによって、「待つ」ことはより酷薄になっていく。

 特にあっと思ったのは、この劇の見せ場でもあるラッキーの長台詞の場面で、原文では番号で指定されている各人の所作を、ナレーターはラッキーの台詞にかぶせて読み上げる。その結果、各人の所作を示すことばとラッキーのことばとが干渉しあって、この場面の騒乱が、ラッキーに対する他の登場人物のじたばたというだけでなく、音声と音声の衝突となり、それぞれのことばの聞き取りにくさがそのまま騒乱の激しさとして感じられたのである。

 劇中、何度も繰り返される「ゴドーを待つ」というウラジミールの台詞は、少し遅めに、まるで宣言のように発せられる(「待つ」の抑揚には、岡室さんのコメントにもあったさまーずの三村の発声を想起した)。それに対するエストラゴンの反応は原作では「(Despairingly) Ah!」なのだが、このリーディングではそこに「うああああ」という特徴的な抑揚をもった合いの手がほどこされており、まるでコントの区切りのように響いた。おもしろいことに、そこまで行われたことはオチのあるコントでないにもかかわらず、「ゴドーを待つ」「うああああ」が来たとたんに、何かコントらしきことが起こったような感触がレトロスペクティヴに立ち上がる。かといっていわゆるお笑いのやりとりを観たような感触とは違う。コントの骨のような時間が立ち上がる、とでも言おうか。

 じつは『ゴドーを待ちながら』が翻訳通りフルに演じられるのを観たのは今回が初めてだったのだが、夜の来たときのやるせなさ、その夜のあいだもずっと会話が続くことの寄る辺なさは、脚本を読んだだけのときにははっきりと感じなかったもので、こういう感情は劇の時間によって初めて体験されるのだということも、つくづく思い知った。