「そっか」を開く:「ひよっこ」の作劇

5/13(土)の『ひよっこ』は、有村架純(谷田部みね子)と宮本信子(牧野鈴子)の共演という点でも感慨深いものがあったが、ドラマとしておおいに見ごたえがあった。

この回がよくできてるなと思ったのは、みね子とすずふり亭の面々が会うのが「休み時間」とされていたことだ。

どのテーブルにもクロスが敷かれ、紙ナプキンと調味料が置かれ、花が飾られている。店はいつでも、客を迎えることができる状態にある。そのテーブルの一つに、みね子と店のオーナーである鈴子、そして省吾が座っている。帽子こそしていないが、着ているのはコック長の服だ。みね子は、二人のプライヴェートな客なのだが、回りの環境からすると、まるでレストランの客のようでもある。

この、プライヴェートと営業、どちらともとれる、どっちつかずの環境を使って、会話は進む。

みね子:あ
鈴子:えっ?
みね子:あの、いまお店って、休み時間ですよね
鈴子:うん、ふふ
みね子:そっか…レストランはそういう仕組みになってんのがぁ、そうか。

みね子は「そっか」と独り合点するのだが、省吾は「休み時間ですよね」ということばからすばやく察してこう言う。

省吾:ん? あ、なにがいい? 何でも作ってやるよ
鈴子:うん。何でもいってごらん。

省悟と鈴子の「何でも」ということばには、レストランの客相手ではない、プライヴェートな相手に対してならではの気前のよさが表れている。そして、みね子は、彼らのその親切なことばから、自分がプライヴェートな客のままご馳走になるかもしれないことに気づいて「あ、ちがうんです」と言う。

みね子:あ、ちがうんです。あの、初めてもらったお給料で、こちらにきて、自分のお給料で食べんだって決めてで、楽しみにしてたんです。
鈴子:そっか…

みね子の説明を、鈴子は感心したように受けるのだが、一方の省吾の決断はとても速い。この二人の絶妙の間合いを見せるように、ショットは三人が入るように切り替わる。

鈴子:そっか…
省吾:特別にみねこちゃんのために、(ぽん)店を開けよう。
みね子:え?

店を開ける、というそれなりに特別な決断をするとき、常人なら「そうか…」と一度タメを作ってから「そうだ(ぽん)特別にみね子ちゃんのために、店を開けよう」と来るところだ。ところが、この場面で省吾は、まるで鈴子の「そっか…」を、自分が感心する時間であるかのように少し上体を起こしてから、さっと上体を前に戻してからいきなり「特別に」と切り出す。そのため、鈴子と省吾のせりふは、一人の発した一続きのことばのようで、二人は息のあった親子なのだなと思わせる。

そして、省吾がテーブルをぽんと打つしぐさは、ことばの冒頭ではなく、「店を開けよう」の直前に置かれている。そのおかげで、こつんと鳴るテーブルは、思いつきを発表する合図ではなく、まさに「店を開ける」合図となる。この絶妙のタイミングのおかげで、みね子が「え?」と驚いた次の瞬間には、もう店は特別に開いており、みね子はメニューを見て思案している。

では、このやりとりによってみね子はもうすっかり「レストランの客」となったのかと言えばまだそうはいかない。みね子の手持ちの金は限られている。

みね子:あの、ライスって、ごはんだけですよね?ヘヘヘヘ
鈴子:そうだよ
みね子:そうですよね

省吾がここで、ちょっと口を挟みかける。

省吾:値段気にしないでもさ
鈴子:い・い・か・ら
省吾:そうだね

ここで、省吾はみね子をいったん「値段を気にしなくてもいい客」、つまり「ひよっこ」扱いしようとするのだが、鈴子の「いいから」という制止によって、みね子は再び「レストランの客」扱いされる。

その人が何者であるかは、その人自身によってのみ決まるのではなく、その人が他人とどうやりとりをするかによって決まる。このドラマは、みね子が何者でなっていくかを、他人とのやりとりによって明らかにしようとしている。それも、0か1かではなく、とても微妙なやり方で。

高子:(小声で)予算いくら?
みね子:50円くらいしか使えなくて
高子:わかった。じゃあ…(ビーフコロッケ60円を指し)いいと思う。
みね子:あ、じゃ、これにします。

みね子は、安い単品を一つだけ注文する客となる。おそらく通常の客なら、まずそんな注文の仕方はしないだろう。けれど、ウェイトレスの高子もコック長の省吾も、そして厨房の元治と秀俊も、そのたった一皿の注文を「ひよっこ」ではなく「一人前」として扱う。

高子:三番さん、ビーコロワンです。
省吾:あいよ、ビーコロワン!
元治:ビーコロワン!
秀俊:ビーコロワン!

リレーのバトンを渡すように律儀に注文が伝達されて、厨房の面々はビーフコロッケづくりにとりかかる。一人前の衣、一人前の付け合わせ、一人前のドビソース。そしていよいよ、目の前に現れたビーフコロッケをみね子は箸で二つに割り、そのかたわれを一口で頬張る。

みね子:なんだこれ!うめえなあ!
鈴子:そっか!

「そっか!」というひとことを言うとき、鈴子は「そっ」とすずふり亭の面々の方を振り返ってからすぐに「か」でみね子の方に向き直る。

みね子のひとりごとであった「そっか…」を真似るように、鈴子は「そっか」とみね子の決意に感じ入り、みね子とすずふり亭の面々を橋渡しするように「そっか」と言う。「そっか」が他人とのやりとりに開かれていき、食事の前と後を比べると、みね子はずいぶんと大人になったように見える。鈴子が続けて言うことばは、ちょっとだけ、『あまちゃん』の夏ばっぱを思わせる。「おいしいよねえ、自分で働いて、稼いだお金で食べるのはさ」。

映画「風の波紋」のこと

 年配の女性が一人、屋根の上で雪かきをしている。最近の人がよく使うスノーダンプではなく、彼女の体躯に見合ったスコップで。しかし、そのスコップにどっかり盛られた、けして軽くはないはずの雪を彼女が振り返りざまにあざやかに放るとき、そして放られる雪をカメラが間近で捉えてその重さを表すとき、彼女の足腰のキレのよさはただならぬことがわかる。雪に割り入れられるスコップの音、投げられる雪塊のどさりという音が捉えられ、目だけでなく耳もまた、その所作に驚かされる。
 彼女は軒先の方を見て「あのハナサキまで」と雪堀りの範囲を言う。そうか、ここは雪深いだけでなく、突端を「ハナサキ」と呼ぶ土地なのだ。

 このように映画は、生活を説明することばを費やすかわりに、暮らしの中にいる人の所作をとらえ、その人のことばによってそこがどんな土地かを浮かび上がらせる。

 カメラの向こう側の人たちは、もしたった一人だったならことばを発しなかったかもしれない。ことばは、カメラのこちら側に人がいるからこそ発せられたのかもしれない。しかし、ことばはカメラのこちら側に聞こえがよしに放られているわけでもない。体を動かしながら、その動きに合わせてぱっと息を吐くように、そばにいる人に届くだけの声を出す。その声がマイクでとらえられ、ドキュメンタリーのモノローグになっている。

 茅葺き屋根を作る場面で、声が、そして音がする。茅の中から一本の針が音と共にずぶりと現れる。突き刺されたその針の勢いにはっとすることで、観る者はここに突き刺す側と突き刺される側があり、突き刺された側は「もうちょっと下(しも)」と大声で答えることによって突き刺した側に針のありうべき位置を知らせるのだと知る。そして、茅葺き屋根を葺く作業には針を用いて茅を縛る作業があり、そのためには屋根の裏表に人が立ってこのような協働作業を行うことが必要だと知る。そこで起こっていることを映像の手がかりと、観るこちら側に立ち上がる民俗学的関心とによって、一挙に理解する。これは、映像による民俗学的記述ではないだろうか。

 束がくるりと一回転して刈った稲が結わえられる。ぎっちり縛った結び目に余りを割り入れる所作から、束ねられた茅の意外な固さを知る。茅の束を打ち込む槌音の高さから、茅葺き屋根の固さがわかる。

 まず所作のあざやかさに目と耳が惹かれ、そこから行われる作業の意味に気づく。交わされていることばから、そこで用いられる語を知る。「風の波紋」の民俗学は、そんな順序を踏む。

 権兵衛さんという人がはじめて画面に現れたときにも、そこで起こっていることが何かを察するより早く、まずこの人の所作に魅了された。権兵衛さんは、雪かきをしているボランティアの羽鳥さんに声をかける。そのとき、権兵衛さんは、スノーダンプから雪をおろす手つきの違い、水平の場合、垂直の場合の違いを あざやかに対比してみせたのだ。こうすっと持っていかれっから、身を。こうだよ。「身を持って行かれる」という言い方があるんだ。そして、この人はなんて豊かな動作を持っているんだろう。

 そう思ったら、続く場面で、権兵衛さんは、「田植え職人」の所作とそうでない人の所作とを、これまたあざやかにやってみせた。見えない苗を口に一束、二束くわえて、目にも止まらぬ速さで植えてから口から次の苗をとるしぐさ。それから今度はそれと対照的な、一束一束を植えていく非職人のゆっくりとした動き。

 じつはことばとしては語られないけれど、その非職人のゆっくりとした植え方こそは、この映画の主たる語り手でもある木暮さんの植え方なのだ。
 その木暮さんのゆっくりとした、しかし確かな植え方もまた、映画は何度もとらえている。終盤近く、木暮さんは自身の田植えを「しょせんニセモノだからね」と自嘲しながら、それでも「私のキャンバスのようなもんだから」と苗を植え続ける。権兵衛さんによって実演される速さも木暮さんの遅さも、この土地の田植えのあり方なのだ。

 一つ、とりわけ印象に残っている場面がある。雪深い山をかんじきを履いて歩いて行く茸狩りのシーンだ。
 深く積もって凍った雪は、地上からは届かない、縦横無尽の渡りの空間を広げる。地上の人の手が及ぶことのないその高さに、ヒラタケがあちこちシグナルのように生えており、一行は凍ったそれをぽきぽきともいでゆく。
 カメラはふと一行から離れ、彼らの雪渡りを上から俯瞰する場所に留まっている。突然、画面をウサギが横切る。その、広々とした雪上を渡っていくウサギの軌跡、そしてウサギめがけてすばやく放られる鎌が虚しく雪にささるさくりという音の遠さといったら!
 この映画の冒頭では、宮沢賢治の「雪渡り」の寸劇が演じられる。わたしは長いこと、「雪渡り」のことを幻燈会の童話だと思っていたけれど、そこで記されている「すきな方へどこ迄でも行ける」というのがほんとうはどういうことなのか、じつはこの映画を観るまで知らなかった。広々とした雪原に点在するヒラタケと駆け抜けるウサギと放物線を描く鎌。この場面によって、賢治の「雪渡り」のイメージはすっかり新しくなった。

 ここに記してきたことは、まだまだ、この映画の魅力のごく一端に過ぎない。震災をはさむ、五年に及ぶ長い撮影期間のあいだに起こったいくつもの何気ない奇跡の瞬間が、この映画には詰まっている。とても書き尽くすことはできない。

 ただし、どの一瞬にも、これ見よがしに迫ってくるような押しつけがましさはまったくない。はじめに記した年配の女性は、雪堀り(雪かき)が一段落すると屋根の上でせわしなくタバコをふかしはじめる。その所作によって、先ほどまで感じられていた雪の重みがふいに煙の軽さになったようで、そして彼女はまるでタバコをふかす場所をこしらえるためにあんなに力強くスコップを振るっていたかのようで、会場のあちこちから笑いが起こった。

 迫力のある映像、しかめつらしい深刻さを連ねる代わりに、見る側にスコップの雪のようなユーモアを放り、その雪の一撃でこちらの感度を研ぎ澄まさせる。そこに、人それぞれの暮らしの陰影が自然と浮かび上がる。『風の波紋』のユーモアは、そのような機知に満ちている。

 これは現代の「北越雪譜」ではないだろうか。

(細馬宏通: 2016.4.16に記したものを再掲)

おみくじラッキーさん

ハナミズキ
こんなに さくなんて
すこしここにいて
へやいっぱいにして

ハナミズキ
そのかげを おくれよ
そらを もやせ
きみ わたしのおみくじ

ハナミズキ
いかないで いて
いかないで
いかないで

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

きみとわたし
みわたせばふたり
たかくたかく
つまさきもとどかない
こだちよりたかく

みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

 

(“You’re my fortune cookie prize”
                                    by Beat Happening)

ナボコフ的作家としてのクリス・ウェア

 現代のコミック界の中でナボコフ的な現象を扱っている作家として、クリス・ウェアを挙げてみよう。ウェアは、一つ一つのコマに対して小さな手がかりを描き加えながら、その場面の時代や環境を変化させていくことを得意としている作家であり、あとで述べるようにコマの順序や配列についても自覚的な作家だが、彼はナボコフの「ロリータ」について、インタビュー(Ware 1997)で次のように述べている。

 「ロリータに次のような一節があります。ハンバート・ハンバートは前庭で起こった事故に出会い、彼の目に映る次から次へと起こるできごとの積み重なり accumulation が生みだす効果を記そうとします。それには3,4段落を費やさねばならないのですが、彼はそこで自身の扱うことばが、そもそも同時性を欠くメディアであることについて弁明しています。もちろんこれこそは、コミック・ストリップでも起こりうることです。もっともナボコフほどおもしろくはならないでしょうけれど。」

 この一節とは、ハンバート・ハンバートがシャーロットの事故を目撃した第23章で行われる次の弁明のことだろう。

 一瞬の視覚的できごとの衝撃をことばの連鎖に置き換えねばならない。しかしページ上にその事実の積み重ねていくことは、実際のひらめき、印象のくっきりとした統一性を損なってしまう。 I have to put the impact of an instantaneous vision into a sequence of words; their physical accumulation in the page impairs the actual flash, the sharp unity of impression(”Lolita” Ch. 23)

 ここでおもしろいのは、クリス・ウェアが、ことばの(そしてコミックのコマの)連鎖がもたらす「統一性の損ない」を、欠点としてではなく、むしろ彼のコミック・ストリップの根本的な特徴としているところである。
 ウェアのコミックのコミックの大部分は室内劇であり、しかも登場人物の動きは少ない。物語を動かすのは、室内のロングショットとクローズショットの連鎖であり、クローズショットはしばしば登場人物や語り手の注意や想念と連動している。コマに捉えられるのは、ごくありふれた調度や小物であり、ときには壁にかかった絵のごく一部や、窓にとまっている小さな虫の行方をコマは追う。そのため、読者の注意もまた、室内のごく一部へと絞り込まれるのだが、そのことによって、読者は環境の中で変化するものと変化しないものを知り、室内の細部に埋め込まれた人の気配や行為の来歴を読み取る。そして、限られた手がかりから物語を捉えようとしたとき、突然、別の時代、別の人物によって、瑣末に見えたそれら環境の一部が扱われているのがコマで捉えられ、物語は更新を迫られる。こうした手がかりは、物語の離れた箇所に点在しており、読者はページを後戻りしては再読を繰り返しながら読み進めることになる。

 彼の代表作である「ジミー・コリガン」は、祖父ジェイムズの時代とジミーの時代の二つを往復することで更新される物語であり、近年の大作「ビルディング・ストーリーズ」は、一つの古いアパートに棲まう住人達の振る舞いを追うことで、人物たちとアパート自体の来歴を次第に明らかにしていく物語だが、いずれも、コマ運びによって読者の注意を細部へと誘い、ある時点でその細部の意味をがらりと更新して見せる点では共通している。できごとの連鎖によって読者の注意を限りながら導いていくその手つきは、まさにナボコフの作品の特徴とよく似ている。

 もう一つ、ナボコフを彷彿とさせる場面として、「ビルディング・ストーリーズ」(Ware 2012)の一節を紹介しておこう。大判の箱に収められたいくつもの冊子によって構成されているこの作品の中には、「SEPTEMBER 23RD, 2000」という一冊が含まれている。これは、作品の舞台であり主役でもある古いアパートを中心として、住人達のとある一日を描いたものなのだが、ウェアはその一日を物語る前に、アパートと住人たちの来歴を三ページのイントロダクションとして描いている。その一ページには、アパートを斜め上から各部屋の構造を見渡すように描いており、それぞれの壁や床、調度には、「886の叫び」「217の拳」「487のニックネーム」「6の自死のことば」といった書き込みを記すことで、このアパートに長い間積み重ねられた無名の記憶を数値化し、圧縮している。その上で、これらの壁や床、調度に囲まれたたった一日の出来事を物語り始めるのである。アパートの壁は、登場人物たちの向ける注意に導かれ、壁にかかった時計、その時計が示す唯一の時刻、カレンダー、カレンダーの絵柄の細部、写真立て、その写真に写った人物へと、その細部を開陳していく。その結果、イントロダクションで数値化された、アパートの来歴を俯瞰する記憶は、一人の住人に関わる数値化されえない細部によって上書きされる。

 このような手つきは、40年の結婚生活を数値化する「青白い炎」の以下の一節を想起させる。

We have been married forty years.
At least Four thousand times your pillow has been creased
By our two heads. Four hundred thousand times
The tall clock with the hoarse Westminster chimes
Has marked our common hour. How many more
Free Calendars shall grace the kitchen door
(“Pale Fire” [275-280])

 ここで数値化されているジョン・シェイドの生活は、序文とコメンタリーを記しているチャールズ・キンボートによって注釈され、さらには彼らの人間関係が明らかにされることによって幾重にもふくらみ、再読を促される。

 そして「ビルディング・ストーリーズ」もまたこうした特徴を備えている。箱に収められた冊子どうしは、異なる場面の異なる登場人物を一人称としながらお互いの物語を参照しあうように描かれており、ある冊子を読むことで、既読の冊子を再び開かされ、物語の意味を更新させられることになる。そして、こうして編み込まれていく読書体験そのものが、一つのアパートの形を帯びてくるのである。

 

(ナボコフにおける視覚的イメージの変容論を書く際に書いた断章 2017.1)

山の端を触る

 3月に広島の江波を訪れてからというもの、「この世界の片隅に」の読み方、態度が変わってしまった。何というか、少し沈潜気味になり、それでいて少し快活になったのだ。

 江波山の端がどこかを知り、その山の端をなでることができるようになり、海神宮の位置を知り、山の端を海が洗っていたことを知ることで、わたしにとっての広島の海が、少し近くなった。気象台の場所を知り、その屋上で風を受けることで、原民喜を読むときも、大田洋子を読むときも、城山三郎を読むときも、以前とは違う空気をかぎ取るようになった。なぜか、と問われても簡単には答えられない。ただ、江波山の端で誰かが走りはじめ、あるいは誰かの船が動きはじめ、確かな空間の中でその速さが感じられるようになった。それだけのことで、物語の読みは変わってしまう。

捜すこと

混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。

(原民喜「廃墟から」より)