試訳:Elmore James “Shake your moneymaker”

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

つきあいだしたあのこ、住んでるのは高台
つきあいだしたあのこ、住んでるのは高台
愛してるって言われるけど、信じられねえな

腰を振らなきゃだろ、腰を振らなきゃだろ、ベイビー
腰を振らなきゃだろ、腰を振らなきゃだろ
腰を振らなきゃだろ、ベイビーちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

つきあいだしたあのこ、ぜったい本気じゃない
つきあいだしたあのこ、ぜったい本気じゃない
ちっとも動きやしない、いいこと教えてあげてるのに

腰を振らないんだ、腰を振らないんだ
ぐいぐいしないんだ、腰を振らないんだ
腰を振らないんだ、ないんだちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

(試訳:細馬)

おそいんだよ (It’s too late) by Carole King

ずっとベッドん中なんだ朝は
調子がわるいのは否めないんだ
わたしたちのどっちか
いや二人で投げだしてんだ
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか

がごまかせない

きみと過ごした日々はらくちんだった
明るくさわやかな暮らしだった
いまはきみは暗い顔で、わたしバカみたい
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか

がごまかせない

 
いつかよくなるかもしれない
でも一緒には住めない、そう思うでしょ
それでもよかったよ二人で、きみを愛したことも
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか
がごまかせない
 
(試訳:細馬)

Take on me (by A-ha)

Take on me By Magne Furuholmen, Morten Harket & Pål Waaktaar

おそくまで
はなしてもあっという間
永遠には
ほど遠いけど今日こそは
本気出す
迎えにいくよすぐに OK?

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうよ
きょうかあし、た

そうわかってる
ぶきようなぼくだけど
つまずいても
勉強するよ人生はOK
いってごらん
とにかくあたってくだけろさ

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうんだ
きょうかあし、た

きこえない
人生かけてるの? 遊び?
きみだけだよ 頭の中は
本気出せ
迎えにいくよすぐに OK?

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうよ
きょうかあし、た

(試訳:細馬)

ライブの家が鳴る(神田試聴室ライブのあとで)

 昨日(2020.4.8)、神田視聴室で、ライブを行ってきました。

 観客はなく、歌って演奏するのは私1人。その場にいたのは試聴室のオーナーの根津さん1人です。

 こういう形にした理由の一つは今の新コロナウイルス問題です。移動の方法も集まり方も滞在時間も、最小限にしようと思っていました。演奏は無観客で行い、配信のみ。わたしは電車を使わずに機材を背負って自転車で試聴室へ、根津さんはご自宅から車で移動。できるだけセッティングはシンプルにして、本番一時間前から準備をして、そこから終了して片づけまで、根津さんと二人だけで行おうと決めていました。作業中はお互いマスク着用で、本番のみマスクははずす。ただしモニタ卓と舞台とは十分距離をとる。PayPalで投げ銭を集めて、集まったお金は試聴室に渡す。一方、わたしは、試聴室のすばらしい音環境を独り占めにできることでおそらく報われる。

 結果的に、前日、東京都に「緊急事態宣言」が発令されましたが、この、当初決めたやり方に変更は必要ないと思いました。

 予定通り、根津さんと私の2人でセッティングを行いました。根津さんがマイクやケーブル、ミキサー卓などを設置して下さって、わたしの方は配信用のPCやミキサーの調整、それから2人で音出しとミキシングの調整。幸い、この一週間、自分でツイキャスなどの配信を経験していたので、それほど時間はかからずにスタンバイできました。

 ひな壇になった観客席は、いっぱいに入れば30人。でも今日は観客はいない。一時間、本番で歌って話して、それから片づけ。打ち上げはなし。20:00に小屋入りして、23:00前には試聴室をあとにしていました。

 こう書くと、ずいぶんさびしい感じがするかもしれませんが、実際はとても充実した、不思議な一夜でした。

 普段、観客がいてスタッフもいてたくさんの人の前で演奏しているときは、目の間にいるのは一人一人違う来歴のもとに集っているお客さんであり、その人たちがいちどに視線を投げかけてくる。違う来歴をもちながら、一度に笑ったり拍手したり、なんなら一緒に唄ってくれたりもする。それがライブの高揚をもたらしている。それに対して、この夜は、根津さん1人で、ミキサー役であると同時に観客でした。ところが意外にも、そうやって離れたところにいる根津さんを見ながら唄っていることが、とても豊かな時間として立ち上がってきました。

 普段、1人で配信しているときは、私は自分で歌ったり語ったりしながら、一方で今マイクの調子はどうなってんだろうとか今配信がうまくいってるだろうかとか、いろんなことを同時に考えなければいけない。歌っている最中にもそういう考えがチラチラッと頭をよぎることがある。ところが、ライブハウスに入るときには、そういう心配はほとんどない。 根津さんがフェーダーを上げ下げして、常に私のボーカルマイクとギターマイクのバランスをとっている。それを見るだけでわたしは、ああ自分はとにかく好きに歌えばいいんだと言う気分になる。根津さんのやってくれていることに対するある種の信頼感が生まれて、いろいろな心配ごとをその信頼感がきれいに地ならししてくれる。その上に私は楽々と腰を下ろして、歌うことができる。すると、自分の歌声に対する集中度がいつもよりぐっと引き上げられる。この感覚はとても特別なものだと思いました。 もちろん、この信頼感は、本番前の一時間、二人で黙々と(いや、多少の雑談を交えながら)、この日のセッティングをしている間に形成されたのだと思います。

 根津さんは、 平時であれば、毎晩のように様々なバンドの演奏を聞き、自分の耳を耕してこられた方です。その人が自分の演奏を聞いてくれている。そのことで、わたしはもう充分報われている気がしました。

 ここまで書いたことは、おそらくライブをやったことのある人の多くが経験している感覚であり、今さら言うまでもないことかもしれません。でも、この日、二人で最初から最後までやることで、作業の一つ一つから立ち上がってくる感覚のひとつひとつがはっきりとした形で意識されて、わたしは久しくこういう感じを忘れていたことを気づかされました。

 そして、場所の力。目の前に広々とした観客席がある。今は空席だけれど。その広い空間に向かって歌うことによって、私は今まさに歌うべきところで歌っているのだという確信が生まれる。それは決して気のせいではない。わたしが歌う声の反響が、眼の前に拡がっている空間の広さに見合った響きで跳ね返ってくる。これは確かに、広々とした、何人もの人が座っていられる空間だ。私は「ライブハウス」が持っている、ごくごく基本的な、屋台骨のような力をまざまざと感じました。

 今や政治家も誰もかも、「ライブハウス」ということばをまるで仕分けのための記号のように使うけれど、本来「ハウス」とは、信頼によって支えられた、人が集い居心地のよい広さを持つ「家」のことなのだ。そして「ライブハウス」は、ライブを行うことによって生まれる。その夜のために準備をして、その夜の音を鳴らす。そのことによって、そこがどんな場所かが、毎夜明らかになる。試聴室の根津さんも、そうやって長い間やってこられた。そういう「ライブハウス」のあり方を、この生きづらい時代にあっても、なんとか持続することができればいいと思います。そのためには、何が必要なのか。営業が難しい今、補償はぜひとも大事だと思います。その一方で、わたしは、やはり、演奏が行われること、たとえ一人でも、その演奏を見届ける人がいること、そして演奏によってそこが「ライブハウス」であると明らかになることが大事だと、今回思いました。

 昨晩は、たくさんのご視聴、そして投げ銭をありがとうございました。

かえるさん/細馬宏通(2020.4.9)

Time after time (何度でも)

Time after time
by Cindi Lauper and Rob Hyman
 
眠れなくてきくチックタックで君思う
思いは回り こんがらがってふりだし
そうだ、ぬくい夜 忘れてたな
スーツケースに思い出 何度目?
 
君の見るわたし 歩いてるずっと先
君は呼ぶけど わたしにはきこえない
で「ついてゆけない」 背中に声
秒針は遡る
 
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
 
わたしが消えてくらがりがぼやける
君は窓越しにわたしを心配してる
深く深く盗まれて
ドラムが乱れて
 
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
 

 

 
(試訳:細馬)

うたのしくみ 増補完全版 副読本

うたのしくみ 増補完全版」の中で紹介した音楽について、Web上で参考になりそうな映像や図像を紹介します。オンラインで手軽に映像にたどり着くことができるのでご活用下さい。なお、Spotifyのプレイリストも3種用意されています。


Season 1

第1章の副読本

第2章の副読本

第6章の副読本

  • aiko「くちびる」MV。二人のaikoの映像をスイッチングするタイミングに、演出家のこの曲への解釈が感じられます。

第7章の副読本

  • Oh My Darling, Clementine (英語版Wikipedia)。いとしのクレメンタインの歌詞。単行本に載せたのは、Raph, Theodore “The American Song Treasury 100Favorites” Dover Publication, Inc. New York. (1964)に書かれたものですが、Wikipediaにはさまざまなバージョンの歌詞が掲載されています。
  • フランク・キャプラ「或る夜の出来事」(1934)で、なかなか目的地にたどりつかないバスの中で乗客が退屈しのぎに始めた空中ブランコ乗りの歌」のシーン。ヴァースとコーラスの愉しみを感じさせる名場面。
  • Van McCoy – The Hustle (Official Music Video)。この曲のドラム、「恋人と別れる50の方法」のスティーヴ・ガッド、そしてリック・マロッタなんです。

第8章の副読本

「オズの魔法使い」初版本の挿絵から

第9章の副読本

  • ルディ・ヴァレーの歌う「As time goes by」。オープニング・ヴァースがついてます。
  • ルディ・ヴァレーが舞台からメガフォンで歌ってたなんて、ほんとかしらと思いますが、ちゃんとメガフォンが残ってるんですね。Wikipedia “Rudy Valee”
  • そして、ベティ・ブープの「シンデレラ」に一瞬、ルディ・ヴァレーのパロディが登場します。Betty Boop “Poor Cinderella” 6:58あたりにご注目を。
  • ルディは実写でもフライシャーのアニメーションに何本か出ていますが、「カンザスシティのかわいこちゃん」はアニメーションもとっても楽しい。フライシャーの歌のシステム、「バウンシング・ボール」については拙著「ミッキーはなぜ口笛を吹くか」(新潮選書)をどうぞ。

第11章の副読本

  • キャブ・キャロウェイのテレビ出演の映像 (1958)キャブがだいぶ年をとってからの1958年の映像ですが、すばらしいパフォーマンスです。
  • 短編映画『ハイ・ディ・ホー』(1934年)。この映画、筋運びもなかなかおもしろいので、できれば最後までよく見て下さい。キャブは、後のレイモンド・スコットを彷彿とさせるナンバー「レール・リズム」、「ミニー・ザ・ムーチャー」の続編であり、より複雑なスキャットを入れた「ザ・ズ・ザ」、そして扇を持ったショウガールたちと戯れる「ザ・レディ・イン・ザ・ファン」を演奏していて、彼の魅力がたっぷり楽しめます。
  • キャブの姉、ブランチ・キャロウェイとジョリーボーイズの「It looks like Susie」
  • キャブ・キャロウェイといえば、ベティ・ブープのカートゥーン「Minnie the Moocher」「Snow White」「The Old Man of the Mountain」をはずすことはできません。キャブとアニメーションとの関わりは「ミッキーはなぜ口笛を吹くか」(新潮選書)に譲るとして、ここでは、彼の足の動きを見事に写し取った「Snow White」を見てみましょう。

第13章の副読本

書影
アレクサンダー・ラグタイム・バンドのシート・ミュージック
書影
メイプル・リーフ・ラグのシート・ミュージック

第16章の副読本

第17章の副読本

第18章の副読本

第20章の副読本


Season 2

第1章

第2章

第4章

第6章

EW&F 「セプテンバー」(Official Video)

第7章

第9章

第10章

Talor Swift 「We are never ever getting back together」オフィシャル・ビデオ

第13章

第14章

第15章

第16章

第17章

第18章

第19回


素敵じゃないか (“Wouldn’t it be nice” ) Beach Boys

素敵じゃない? 大人なら
もう待たなくてもいい
そして一緒に暮らせたら
ぼくらにふさわしい世界

いまよりずっといいんだろうな
おやすみのあとも一緒なんだ

素敵じゃない? 目覚めたら
朝には明日だよ
明日もずっと一緒だよ
夜もずっと抱き合うよ

しあわせを分けあうんだ
どのキスもずっと続くんだ
素敵じゃない?

考えて 望め 願え 祈れ
かなう
できないことなんてなくなって笑う
一緒になる
しあわせになる
素敵じゃない?

話せば話すほど
できないことがくるしいよ
でも話そうよ
素敵じゃない?

おやすみベイビー
ぐっすりベイビー
おやすみベイビー
ぐっすりベイビー

(“Wouldn’t it be nice” by Brian Wilson / 試訳:細馬)


 ”Wouldn’t it be nice if we were older” という言い方ができるんだな。大人になるということは「未来」のできごとだけれど、それを仮定法の「過去」で考える。そういえば日本語でも「大人『だったら』素敵だろうな」と言える。いま現在、実現していないことは、それが未来のことだろうと過去にあったことだろうと、仮定の上では過去になりうる。

 曲のほとんどはこの「〜だったら素敵だろうな」という夢で占められているのだが、最後にゆっくりと現在が歌われる。「話せば話すほど/今それなしで生きていること(live without it)がくるしい」。しかしその現在の「live」は、コーラスによってとてつもなく甘く響く。曲は、現在を夢に誘うように「おやすみ」で閉じられる。もしかしたら、イントロのメリーゴーラウンド音楽のようなリバーブは夢の合図で、この曲全体が夢なのかもしれない。

“Shout To The Top!” by The Style Council

ぼくは半分いない、ぼくは半分いる
雨がざんざんぶり跪いて祈る
お願い清めてちょうだいタマシイ
紹介される仕事まるで子どもだまし

ぼくは半分正気で半分狂気
どこのショウウィンドウ見ても全部おんなじじゃん
お願い死なないで済む合図ちょうだい
まるでどうしようもない何もあてにならないじゃん

これっておそるべきことじゃないのかな
生まれてからずっとこの調子だわ
頼まれもしないけど黙れもしない だって
心ん中じゃまいにち言ってんだ

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 だから上向いて
叫べ、ざけんなよ !
そう偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ!

これっておそるべきことじゃないのかな
生まれてからずっとこの調子だわ
頼まれもしないけど黙れもしないだって
心ん中じゃまいにち言ってんだ
叫べ、ざけんなよ!(シャウト)
そう偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底だから上向いて
叫べ、ざけんなよ、(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 どうする?上向いて

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 どうする?上向いて
叫べ、ざけんなよ、(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

(“Shout To The Top!” by Paul Weller/試訳:細馬)

Paul McCartney「I Don’t Know」のこと

 先行発売された「I Don’t Know」をきいて、ちょっと驚いたのはこの曲に見られるメランコリックな気分だ。若い人が「どこで間違えたんだろう?」と自問自答する歌をうたっているのなら、まあまたやり直しがきくじゃないかと慰めることはできる。でも、もう64才をはるかに過ぎ、70代後半になるポールが、行き先も見えずに迷う歌をうたうとき、それはもう取り返しがつかない感じがする。男女の人形が並んだPVを見ながら、わたしは、ベルリンで我が身を振り返るデヴィッド・ボウイの「Where are we now?」のことをちょっと思い出したりもした。


 いや待て。わたしは「ポール・マッカトニー詩集」を読んでいるのじゃない、ポールの歌をきいているのだ。これはただのゆううつな歌じゃない。周到に踏んでいくBbとEbのあとに「もう無理」でさっと声が高くなってGbに飛躍するとき、そしてその「もう無理」というメロディをベースラインがなぞるとき、そこには逃げ場のない確かさがある。その逃げ場のなさをまたなぞりたくなる。BbとEb。カラスを窓に。BbとEb。犬をドアに。ほら、もう無理だ。詰め将棋の行方をたどり直すとき、もう詰んでいるのはわかっているのに、ひとつひとつ置かれていくコマが示す手の鮮やかさに惚れ惚れとしてしまうように、「I don’t know」の足取りの確かさは何度もこの歌をきき直させる。


 そして、もう無理、の確かさと同じくらい、大丈夫、ぐっすり眠ろう、ということばもまた、確かに響く。もちろん痛みはきえないし、やり直しはできない。でも、「alright」の「ight」が「sleep tight」の「ight」と響き合うことから逃れられないように、大丈夫であることはぐっすり眠ることから逃れられない。Gmを鳴らしたなら、たとえ次がDmであろうともベースラインはFへ降りていくしかないように、このタイトな確かさこそが、「I don’t know」という事態を受け入れる最善のやり方なのだ。だから、終盤に女声コーラスまで入って、どうしてしまったんだろう、わからない、ととどめを刺すように歌っても、この曲はけしてどこにも救いのない絶望的な歌には響かない。わからない、というこのどうしようもなく避けられない事態は解決しないし、痛みも消えないけれど、眠りの確かさによって(まさに「ゴールデン・スランバー」によって)、きっと大丈夫になる。

(ミュージックマガジン2018年9月号 細馬宏通[『エジプト・ステーション』を読み解く」より)