テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は

 テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は、どこをとってもやり直しのきかない過去と、現在の喜びと、そこに重なる未来の痛みとに満ちあふれている。「わたし」の心は人類の逐次的言語の鋳型で形成されており、しかもエイリアンの目的的言語のパースペクティブでその心に起こることを想起するのだが、小説はまさに、この脱臼してしまった言語で書かれており、「あなた」という代名詞も「おとうさん」という名詞も未来に属していながら、想い出の対象になる。

 この作品の最後の3パラグラフの時制はひときわ美しいのだが、その、終わりから2パラグラフめはこうだ。

From the beginning I knew my destination, and I chose my route accordingly. But am I working toward an extreme of joy, or of pain? Will I achieve a minimum, or a maximum?

 巧妙にもこのパラグラフには、過去形と現在進行形と未来形があって、現在形がない。そしてこの疑問を主人公が思い浮かべるまさにいま、最後のパラグラフには、現在形しかない。

映画『メッセージ (Arrival)』 の言語感覚

以下は大いにネタばれを含んでいるので、映画を観てからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 『メッセージ』の雰囲気をおおよそ楽しんだ。

 色彩を抑えた、霧深い夢のような映像による構成、ヨハン・ヨハンソンの繰り返しを多用しながら聞き手の居場所を危うくさせる音楽はともに、この映画の持っている不思議な時間感覚を支えるものでだった。その霧の中に現れる物体やヘプタポッドの設計(やけに威力のある吸盤も含めて)も納得がいくものだった。

 にもかかわらず、この映画のある点でどうしても納得がいかなかった。それも物語の根幹に関わる決定的な点で、だ。それはヘプタポッドの「文字」の扱いである。

 この物語のもっとも重要な点は、ヘプタポッドたちの文字を解読する作業を通じてルイーズの時間認識が変化してしまう点にある。彼らの文字は、人類の言語のように、はじめから読み下して最後に到達する、という風には書かれていない。むしろ「目的論的」に、全体から細部に向かって読み込まれていくような言語だ。ルイーズはこの文字の読み方を通して、未来を見通してしまう言語感覚を身につけ、時間の感覚そのものまでを変容させてしまう。このような文字をテッド・チャンは「表義文字」と読んでいるが、墨のように一気に吐き出されて形をまとう文字デザインは、この「表義文字」を表すのにふさわしい創意だと思う。

 ところが、映画では、せっかくのヘプタポッドの表義文字を、あたかも「表意文字」のごとくパーツにばらしてしまう。しかもルイーズはヘプタポッドと話すにあたって、そのパーツを通常の言語のごとくシーケンシャルに組み合わせてしまう。何よりわたしが決定的についていけないと思ったのは、映画の後半で、ヘプタポッドのことばが字幕で翻訳されて表示される場面で、このように安易に翻訳されるともう、彼らは、時間軸に沿って生きる人類のように時間軸に沿って話す、ただの人類並みの生き物にしか見えない。

 「あなたの人生の物語」は、われわれが用いる言語と異なる時間構造を持った言語の話であり、それを映画化することは、とりもなおさず、映画の時間構造じたいを揺るがしてしまいかねない無謀な試みになりえたはずである。この点において、『メッセージ』は、ルイーズ母娘のエピソードとヘプタポッドとのやりとりを巧みに繋ぎながらこちらの時間感覚を揺るがしてくれるものの、そこで扱われている言語感覚は(残念ながら)ごく穏当で因果論的なものだった。

 それでも、わたしはラストのエイミー・アダムスの顔、未来を見通しながら相手を抱きしめるその陰影に富んだ表情に、報われた気がしたのだけれど。

* あとでつらつら思い出してみると、ルイーズは最後のほうで、パッドでパーツを組み合わせるのでなく、壁に直接手を当てて文字を描くということをしていた。あの演出はもしかすると、ルイーズが因果論的な書法から脱却して、ヘプタポッドたちの書法を身につけたことを意味していたのかもしれない。とすると、ここでの感想はちょっと書きすぎだったかもしれない。

「そっか」を開く:「ひよっこ」の作劇

5/13(土)の『ひよっこ』は、有村架純(谷田部みね子)と宮本信子(牧野鈴子)の共演という点でも感慨深いものがあったが、ドラマとしておおいに見ごたえがあった。

この回がよくできてるなと思ったのは、みね子とすずふり亭の面々が会うのが「休み時間」とされていたことだ。

どのテーブルにもクロスが敷かれ、紙ナプキンと調味料が置かれ、花が飾られている。店はいつでも、客を迎えることができる状態にある。そのテーブルの一つに、みね子と店のオーナーである鈴子、そして省吾が座っている。帽子こそしていないが、着ているのはコック長の服だ。みね子は、二人のプライヴェートな客なのだが、回りの環境からすると、まるでレストランの客のようでもある。

この、プライヴェートと営業、どちらともとれる、どっちつかずの環境を使って、会話は進む。

みね子:あ
鈴子:えっ?
みね子:あの、いまお店って、休み時間ですよね
鈴子:うん、ふふ
みね子:そっか…レストランはそういう仕組みになってんのがぁ、そうか。

みね子は「そっか」と独り合点するのだが、省吾は「休み時間ですよね」ということばからすばやく察してこう言う。

省吾:ん? あ、なにがいい? 何でも作ってやるよ
鈴子:うん。何でもいってごらん。

省悟と鈴子の「何でも」ということばには、レストランの客相手ではない、プライヴェートな相手に対してならではの気前のよさが表れている。そして、みね子は、彼らのその親切なことばから、自分がプライヴェートな客のままご馳走になるかもしれないことに気づいて「あ、ちがうんです」と言う。

みね子:あ、ちがうんです。あの、初めてもらったお給料で、こちらにきて、自分のお給料で食べんだって決めてで、楽しみにしてたんです。
鈴子:そっか…

みね子の説明を、鈴子は感心したように受けるのだが、一方の省吾の決断はとても速い。この二人の絶妙の間合いを見せるように、ショットは三人が入るように切り替わる。

鈴子:そっか…
省吾:特別にみねこちゃんのために、(ぽん)店を開けよう。
みね子:え?

店を開ける、というそれなりに特別な決断をするとき、常人なら「そうか…」と一度タメを作ってから「そうだ(ぽん)特別にみね子ちゃんのために、店を開けよう」と来るところだ。ところが、この場面で省吾は、まるで鈴子の「そっか…」を、自分が感心する時間であるかのように少し上体を起こしてから、さっと上体を前に戻してからいきなり「特別に」と切り出す。そのため、鈴子と省吾のせりふは、一人の発した一続きのことばのようで、二人は息のあった親子なのだなと思わせる。

そして、省吾がテーブルをぽんと打つしぐさは、ことばの冒頭ではなく、「店を開けよう」の直前に置かれている。そのおかげで、こつんと鳴るテーブルは、思いつきを発表する合図ではなく、まさに「店を開ける」合図となる。この絶妙のタイミングのおかげで、みね子が「え?」と驚いた次の瞬間には、もう店は特別に開いており、みね子はメニューを見て思案している。

では、このやりとりによってみね子はもうすっかり「レストランの客」となったのかと言えばまだそうはいかない。みね子の手持ちの金は限られている。

みね子:あの、ライスって、ごはんだけですよね?ヘヘヘヘ
鈴子:そうだよ
みね子:そうですよね

省吾がここで、ちょっと口を挟みかける。

省吾:値段気にしないでもさ
鈴子:い・い・か・ら
省吾:そうだね

ここで、省吾はみね子をいったん「値段を気にしなくてもいい客」、つまり「ひよっこ」扱いしようとするのだが、鈴子の「いいから」という制止によって、みね子は再び「レストランの客」扱いされる。

その人が何者であるかは、その人自身によってのみ決まるのではなく、その人が他人とどうやりとりをするかによって決まる。このドラマは、みね子が何者でなっていくかを、他人とのやりとりによって明らかにしようとしている。それも、0か1かではなく、とても微妙なやり方で。

高子:(小声で)予算いくら?
みね子:50円くらいしか使えなくて
高子:わかった。じゃあ…(ビーフコロッケ60円を指し)いいと思う。
みね子:あ、じゃ、これにします。

みね子は、安い単品を一つだけ注文する客となる。おそらく通常の客なら、まずそんな注文の仕方はしないだろう。けれど、ウェイトレスの高子もコック長の省吾も、そして厨房の元治と秀俊も、そのたった一皿の注文を「ひよっこ」ではなく「一人前」として扱う。

高子:三番さん、ビーコロワンです。
省吾:あいよ、ビーコロワン!
元治:ビーコロワン!
秀俊:ビーコロワン!

リレーのバトンを渡すように律儀に注文が伝達されて、厨房の面々はビーフコロッケづくりにとりかかる。一人前の衣、一人前の付け合わせ、一人前のドビソース。そしていよいよ、目の前に現れたビーフコロッケをみね子は箸で二つに割り、そのかたわれを一口で頬張る。

みね子:なんだこれ!うめえなあ!
鈴子:そっか!

「そっか!」というひとことを言うとき、鈴子は「そっ」とすずふり亭の面々の方を振り返ってからすぐに「か」でみね子の方に向き直る。

みね子のひとりごとであった「そっか…」を真似るように、鈴子は「そっか」とみね子の決意に感じ入り、みね子とすずふり亭の面々を橋渡しするように「そっか」と言う。「そっか」が他人とのやりとりに開かれていき、食事の前と後を比べると、みね子はずいぶんと大人になったように見える。鈴子が続けて言うことばは、ちょっとだけ、『あまちゃん』の夏ばっぱを思わせる。「おいしいよねえ、自分で働いて、稼いだお金で食べるのはさ」。

映画「風の波紋」のこと

 年配の女性が一人、屋根の上で雪かきをしている。最近の人がよく使うスノーダンプではなく、彼女の体躯に見合ったスコップで。しかし、そのスコップにどっかり盛られた、けして軽くはないはずの雪を彼女が振り返りざまにあざやかに放るとき、そして放られる雪をカメラが間近で捉えてその重さを表すとき、彼女の足腰のキレのよさはただならぬことがわかる。雪に割り入れられるスコップの音、投げられる雪塊のどさりという音が捉えられ、目だけでなく耳もまた、その所作に驚かされる。
 彼女は軒先の方を見て「あのハナサキまで」と雪堀りの範囲を言う。そうか、ここは雪深いだけでなく、突端を「ハナサキ」と呼ぶ土地なのだ。

 このように映画は、生活を説明することばを費やすかわりに、暮らしの中にいる人の所作をとらえ、その人のことばによってそこがどんな土地かを浮かび上がらせる。

 カメラの向こう側の人たちは、もしたった一人だったならことばを発しなかったかもしれない。ことばは、カメラのこちら側に人がいるからこそ発せられたのかもしれない。しかし、ことばはカメラのこちら側に聞こえがよしに放られているわけでもない。体を動かしながら、その動きに合わせてぱっと息を吐くように、そばにいる人に届くだけの声を出す。その声がマイクでとらえられ、ドキュメンタリーのモノローグになっている。

 茅葺き屋根を作る場面で、声が、そして音がする。茅の中から一本の針が音と共にずぶりと現れる。突き刺されたその針の勢いにはっとすることで、観る者はここに突き刺す側と突き刺される側があり、突き刺された側は「もうちょっと下(しも)」と大声で答えることによって突き刺した側に針のありうべき位置を知らせるのだと知る。そして、茅葺き屋根を葺く作業には針を用いて茅を縛る作業があり、そのためには屋根の裏表に人が立ってこのような協働作業を行うことが必要だと知る。そこで起こっていることを映像の手がかりと、観るこちら側に立ち上がる民俗学的関心とによって、一挙に理解する。これは、映像による民俗学的記述ではないだろうか。

 束がくるりと一回転して刈った稲が結わえられる。ぎっちり縛った結び目に余りを割り入れる所作から、束ねられた茅の意外な固さを知る。茅の束を打ち込む槌音の高さから、茅葺き屋根の固さがわかる。

 まず所作のあざやかさに目と耳が惹かれ、そこから行われる作業の意味に気づく。交わされていることばから、そこで用いられる語を知る。「風の波紋」の民俗学は、そんな順序を踏む。

 権兵衛さんという人がはじめて画面に現れたときにも、そこで起こっていることが何かを察するより早く、まずこの人の所作に魅了された。権兵衛さんは、雪かきをしているボランティアの羽鳥さんに声をかける。そのとき、権兵衛さんは、スノーダンプから雪をおろす手つきの違い、水平の場合、垂直の場合の違いを あざやかに対比してみせたのだ。こうすっと持っていかれっから、身を。こうだよ。「身を持って行かれる」という言い方があるんだ。そして、この人はなんて豊かな動作を持っているんだろう。

 そう思ったら、続く場面で、権兵衛さんは、「田植え職人」の所作とそうでない人の所作とを、これまたあざやかにやってみせた。見えない苗を口に一束、二束くわえて、目にも止まらぬ速さで植えてから口から次の苗をとるしぐさ。それから今度はそれと対照的な、一束一束を植えていく非職人のゆっくりとした動き。

 じつはことばとしては語られないけれど、その非職人のゆっくりとした植え方こそは、この映画の主たる語り手でもある木暮さんの植え方なのだ。
 その木暮さんのゆっくりとした、しかし確かな植え方もまた、映画は何度もとらえている。終盤近く、木暮さんは自身の田植えを「しょせんニセモノだからね」と自嘲しながら、それでも「私のキャンバスのようなもんだから」と苗を植え続ける。権兵衛さんによって実演される速さも木暮さんの遅さも、この土地の田植えのあり方なのだ。

 一つ、とりわけ印象に残っている場面がある。雪深い山をかんじきを履いて歩いて行く茸狩りのシーンだ。
 深く積もって凍った雪は、地上からは届かない、縦横無尽の渡りの空間を広げる。地上の人の手が及ぶことのないその高さに、ヒラタケがあちこちシグナルのように生えており、一行は凍ったそれをぽきぽきともいでゆく。
 カメラはふと一行から離れ、彼らの雪渡りを上から俯瞰する場所に留まっている。突然、画面をウサギが横切る。その、広々とした雪上を渡っていくウサギの軌跡、そしてウサギめがけてすばやく放られる鎌が虚しく雪にささるさくりという音の遠さといったら!
 この映画の冒頭では、宮沢賢治の「雪渡り」の寸劇が演じられる。わたしは長いこと、「雪渡り」のことを幻燈会の童話だと思っていたけれど、そこで記されている「すきな方へどこ迄でも行ける」というのがほんとうはどういうことなのか、じつはこの映画を観るまで知らなかった。広々とした雪原に点在するヒラタケと駆け抜けるウサギと放物線を描く鎌。この場面によって、賢治の「雪渡り」のイメージはすっかり新しくなった。

 ここに記してきたことは、まだまだ、この映画の魅力のごく一端に過ぎない。震災をはさむ、五年に及ぶ長い撮影期間のあいだに起こったいくつもの何気ない奇跡の瞬間が、この映画には詰まっている。とても書き尽くすことはできない。

 ただし、どの一瞬にも、これ見よがしに迫ってくるような押しつけがましさはまったくない。はじめに記した年配の女性は、雪堀り(雪かき)が一段落すると屋根の上でせわしなくタバコをふかしはじめる。その所作によって、先ほどまで感じられていた雪の重みがふいに煙の軽さになったようで、そして彼女はまるでタバコをふかす場所をこしらえるためにあんなに力強くスコップを振るっていたかのようで、会場のあちこちから笑いが起こった。

 迫力のある映像、しかめつらしい深刻さを連ねる代わりに、見る側にスコップの雪のようなユーモアを放り、その雪の一撃でこちらの感度を研ぎ澄まさせる。そこに、人それぞれの暮らしの陰影が自然と浮かび上がる。『風の波紋』のユーモアは、そのような機知に満ちている。

 これは現代の「北越雪譜」ではないだろうか。

(細馬宏通: 2016.4.16に記したものを再掲)

おみくじラッキーさん

ハナミズキ
こんなに さくなんて
すこしここにいて
へやいっぱいにして

ハナミズキ
そのかげを おくれよ
そらを もやせ
きみ わたしのおみくじ

ハナミズキ
いかないで いて
いかないで
いかないで

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

きみとわたし
みわたせばふたり
たかくたかく
つまさきもとどかない
こだちよりたかく

みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

 

(“You’re my fortune cookie prize”
                                    by Beat Happening)