Chuck E’s in Love (リッキー・リー・ジョーンズ「恋するチャック」)

どうしてもうしないの? ぶらぶらとか
さそってみても
どうして消しちゃうのTV?
で部屋に入るなってもう
行こうよ行こう 
みんなでさそっても
へい、誘惑はだめっぽい かわっちゃったんだ

あぜん、すらすらしゃべってんじゃんいつもの
あのど、どもったりもなしで
ほんとほんと
なんかさまになってる かっこつけた身のこなしで
どこいったいつものぼろぼろジーンズ
健全、なんなんだなんかこざっぱりしちゃってキミ
だって

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるよ
チャッキーは恋してる
チャッキーは

ああもう信じない みんなが言っても 
わたしもう自分で確かめる
いないなあ?
いないよビリヤード
いないなあ?
いないよドラッグストア
いないなあ?
もうここにはこないそうおもう

ほんとはね 知ってんだ
すわってたんだそこのうしろあの店で
もう彼がなにたくらんでてもいいけど
なにかの病気じゃなきゃいいけど
相手は誰? あそこのこかな?
あぜん、櫛まで使ってんじゃない?
あのこかな 名前は何?
もう前みたいにはつきあえない
でもそのこじゃない
しってるもの
だってチャッキーがほれてるのはこれうたってるだれかさん
だっちゅうの

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるしてるしてるしてる
チャッキーは恋してるよ わたしに

(試訳 細馬)


 リッキー・リー・ジョーンズの「恋するチャック」。いろんな訳し方が可能だと思うが、歌えるように訳してみた(といってもこれを歌う人がいるとも思えないが)。

 最初はところどころに「we」が入っており、チャック E.に対する仲間の噂話に聞こえる。It’s true, it’s true というのも、いかにも別の仲間が話に割って入る感じにもきこえる。

I don’t believe what you’re saying to me
This is something I gotta see.

 というところで、噂話は収束して、中の一人が噂を確かめようとブルースコードの抜き足差し足であちこちをこっそり覗いていくが、チャックは見つからない。この一人は、語り手とは別人のようでもあるし、語り手がしらばっくれて探偵ごっこをしているようでもある。

 そこからまた歌は噂話となるのだが、「でもそのこじゃない But that’s not her 」とひときわ声が高くなったところでいよいよご本人から種明かし。

 声は語呂を楽しみながら次々と語りを変え、まさに噂そのものになってから、最後は一人の語り手へと歌を預ける。楽しい多声の歌。

リッキー・リー・ジョーンズ、ウォルター・ベッカーを悼む(RS誌より)

ローリング・ストーン誌のweb版に、ウォルター・ベッカーとスティーリー・ダンについての、リッキー・リー・ジョーンズらしい、時間を行ったり来たりの長い長い思い出話が載っていた。1970年代のティーン・エイジャーにスティーリー・ダンがどんな存在だったかを物語るすばらしい内容なんだけれど、あまりに話が長くてとても全部は訳せない。とはいえ、十分長いと思っていただける程度には訳してみたので興味のある方はどうぞ(追記:けっきょく全部訳してしまった)。


私が最初にスティーリー・ダンをきいたのはミズーリ州カンザス・シティ、家から逃げ出した父を追いかけて一緒に住み始めてから二年目の夏。1970年で15歳だった。あの夏の夜、ラジオで「Do It Again」がかかってた。ちょっと薬をキメてから、レッド・ツェッペリンのUSAツアーを観にKCコンサートホールに向かってたときのこと。デートの相手は会ったばかりの太っちょで、車から通りがかりに「ヘイ、コンサートに行かない?」。彼はたぶんあわよくばって思ってたし、私は何としても家を出たかった。でもツェッペリンよりも記憶に残ってるのは黄昏の暑さを突き抜けてきた「Do It Again」のドラムソロ、そしてうっとりするようなヴィクター・フェルドマンのパーカッション。

セクシーで。禁欲的で。だって「ダン」が何をやったかわかる? 彼らは当時の音楽的会話に新しいアイディアをもたらした。「知性的な音楽はクール」ってアイディア。ドラム・ソロが何分も、下手したら10数分も続いて、ボーカルがとんでもなく叫ぶ時代にね。スティーリー・ダンは知性をクールにした。彼らがカレッジ・ロックの始まりだって言ってもいいんじゃないかな。

そのとき、まさにそのときに始まったんだ。二人の不器量な男たちが、毅然と、それまで誰もやったことのないことをやってのけた、くだらない感情表現抜きで。ビジネス第一主義、そこから来る洗練、いまのパンク・ロッカーは彼らをそう分類してる。そんなのおかしいよね、だって彼らはブルースのシンプルさと12小節のロックンロールが好きなんだから。そう、彼らはあのドラム・マシン(彼らのエンジニアであるロジャー・ニコルズが作ったやつ)については多少責任があるかもしれない。でもそれは、一緒にやってるプレイヤーたちにあまりにも正確さを要求しすぎた罰みたいなものだって私は考えてる。

1973年に私がカレッジに入った頃には、「Reelin’ in the Years」がカレッジのアンセムになってた。そして「エクスタシー Countdown To Ecstasy」がリリースされると、みんなカバーを観るためだけにレコードを持ち寄ったものだった。それは聖地、それは聖書、それはシニカルでもあるし、ちょっとなんていうか…女嫌いなところがあった。ほんと、自分たちが心底嫌ってる女に取り憑かれてる感じだった。あとになってそれがどういうところから来てるのか、たまたま個人情報をきくつもりもなくきいちゃったんだけど、ウォルターは死んじゃったから。それは彼が墓場まで持っていく痛みだ。

それからの数年間、スティーリー・ダンは個人的に私の生活の一部になった。というのも「Living It Up」に出てくるボーイフレンドがスティーリー・ダンのソロをノンストップで練習してたから。「滅びゆく英雄 Kid Charlemagne」のソロはほとんど唄える。

でも…もしかしたら彼らはディルドの名前をデュオにつけるよりずっと前から私の生活の一部だったのかもしれないな(まだ知らない人のために言っておくと、スティーリー・ダンは、かの有名なヤク中作家ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」に出てくるディルドのこと)。私はその本も読んだけど、実はディルドのくだりは覚えてない。デュオはまずソング・ライターのチームとして成功した。60年代のバンド「ジェイ・アンド・ジ・アメリカンズ」はフェイゲンとベッカーをバックバンドとして雇った。確かバンドの他の連中はスティーリー・ダンのもとになったんじゃなかったっけ。ジェイはいかにもアメリカンなハンサムで、ポール・リヴィア&レイダーズ路線だった。少なくとも13歳の私の頭には似たようなものだった。彼は「Only in America」とか「Come a Little Bit Closer」とかである種の女のふるまいについてちょっといかがわしい歌詞で歌ってた。

サンタ・モニカ・カレッジに移ってからの私は、よく四人組でつるんでいて、休み時間は芝生に寝っ転がって、夜はときどきメイン・ストリートにあるクラブ、ピンク・エレファントとか、新しく発掘したゲイ・バーとかに行って、ジュークボックスで「I Will Survive」なんかかけて踊ってた。あとで四人のうちの一人はゲイだってカムアウトしたんだけど、それは別の話。四人組のいちばんのお気に入りはスティーリー・ダンで、それで私は「菩薩 Bodhisattva」とか「マイ・オールド・スクール」とか「ヴレ・ヴ Pearl of the Quarter」を聞くようになったわけ。アナンデールとかオーリアンダーとかいうフレーズにガタガタうるさいベースとドラムが乗っかって。つまり、彼らは音楽の作り方を知ってたってことね。彼らの出すレコードは全部ヒットして、ラジオで何回も何回もかかって、私たちが自分たち仲間をどう考えるかの手がかりになっていった。

私は生まれつき、なんていうか想像力を存分に込めて、そこに小さな意味を添える書き方をする方だったし、そういうのがほんとに好きだった。ほのめかすこと、ユーモア、そしてちくっとさせること。何をつぎ込むかだけじゃなくて、何を書かずにおくかってところが彼らは天才なんだ。だからこそ、彼らは記憶のひと刺しで、彼らの音楽を私たちの個人史の一部にしてしまう。オーリアンダー(セイヨウキョウチクトウ)の影に何が隠れてるかはわかってる、だってほら、私、アリゾナ育ちだから(ってThe Orb から教わらなかった人はこちらを)。

どうってことない一節だけど、悲しい怒りのメロディ、「ボストン・ラグを返してくれ。仲間みんなに言ってくれ、それはドラッグでもなんでもないって」。私はまだ19で、何かを取り戻したくて、だけどそれが何かもわかってなかった。でもメロディは感じてた、分かる?「ロニーはプレイルームを探し回って見つけたものを片っ端から飲み込んだ。ロニーが戻って来るまで48時間。」私たちの書く曲はたいてい予言的だって私はよく言うんだけど、ウォルターはドラッグで多くの友達を失った。気がついたら床に転がってる人たちだらけで。ベッド。あまりにもたくさんの心痛むできごと。

ウォルターそしてドナルド。ウォルター・ベッカー、静かなる片割れ、ドナルド・フェイゲンの引き立て役。ドナルドがボーカルでそして…ウォルター。ウォルターはみんなが思ってるよりずっとたくさんの音楽を書いた。ドナルドと同じくらい。真のパートナーシップ。「ブルー・プリント・ブルーに仕上がって…もちろん君はとってもすてき…ペグ」。

「ねえ、ブルー・プリント・ブルーって?建築家が使う青写真みたいなやつ?」リッキー・リー
「さあね。ただなんとなくそう書きたかったんだ」ウォルター・B

ドナルド・フェイゲンに会ったのは二枚目のアルバムを作ってるときだったかな。彼はシンセか何かで一曲参加してくれて。とてもクールな時間だった、彼と夜遅く、ニューヨーク・シティで彼のプロデューサーが経営してるスタジオで会うなんて。でもウォルターはいなかった。ああよかった、だってウォルターはおっかなかったもの。写真の彼は怖くて。いままで観た中で一番不快な男だってよく言ってたな。とっても意地悪そうに見えて。じつに意地悪に。

で、運命はめぐり、私は自分の思い込みを、そして知りもしない人にひどいことばを吐くことを懲りることになった。1989年の私は、なんていうか、不安そのものだった。わかんなくなったコードを探して。番号札持って部屋で待ってる感じ。ウォルターはプロデューサー候補の一人だった。私はフランスから帰ってきたところで、妊娠していて、ロサンジェルスあたりに引っ越した。ウォルターにはLAである午後に会った。彼はマウイから飛行機、さらにオハイから60マイルも車を飛ばしてきてくれた、私に会うだけのために。それでわかったんだけど、彼は不愉快でもなんでもなかった。むしろ繊細な感じで。そしてやさしいエネルギーを持ってて、私が写真で想像したのと全然違ってた。とてもやさしい、ヤク中からの回復者。おっと、私もだった。彼はいままで会った誰よりも最近の音楽に通じてた。見下したり、偉ぶったりなんてことはほんのちょっとも、ほんの一瞬もなくて。

私の書いた曲をとても尊重してくれて、なにもかも丁寧にきいてくれた。アイディア・マンだった。「マーヴィン・ゲイみたいな感じで行こうか」なんてことは言わなくて。前のプロデューサー候補はひどくてそういうことを言ったけど。そういう言い方の何が悪いのかがわからなきゃ、レコードをプロデュースしたりはできない。まあ最近ではいろいろ意見があるってのは知ってるけど。

で、彼を雇って9月に仕事に入ることにした。前の二枚も9月に始まったな。ふむ。子育ては中断しなければならなかった。8月は生活を立て直すのに使って、街中のアパートで、子どもを手放して、別の子どもづくりの準備をしたってわけ。

レコードが発売されると、彼はあらゆる手段でプロモーションしてくれた。気の毒だった。オースティンの赤頭DJときたら、栄光のスティーリー・ダンにあやかりたいだけだったんだから。ウォルターは彼に個人的に電話をかけた。でも、DJには電話をもらったからってレコードをかけたり何か恩返しをするつもりはなかった。アーティストが自分を切り売りするなんて、しかもウォルターにとって大事な時期に。それは私にはとても嘆かわしいことで。彼があんまり一生懸命私のためにしてくれるのでとても申し訳なかった。

喧嘩をしたのは、プロデューサーのクレジットの件のこと。私はクレジットが欲しかった。自分ではクレジットを入れるほどの貢献の仕方はしてないなって分かってたんだけど。ウォルターがシャトー・マーモントの私の部屋にきてこう言った:

「リッキー、プロデューサーをなんだと思ってる? 理由がなんであれ、君はぼくをプロデューサーとして雇ったんだ。それはぼくの役職だ。もし君の名前をそこに入れるとしたら、ぼくのやったことはなんだ? わかってるだろ、君はアーティストだ。でぼくも同じくらいクリエイティヴなんだ。君はそっちについてはよく働いた。こっちについては何もしてない、そして、ぼくは自分の努力した分相応にプロデューサーなんだよ。プロデューサーがぼくの仕事なんだ。頼むからやめてくれ。ぼくの役職の価値を薄めないで欲しい。」

私は恥ずかしくなった。彼がどんなにこの仕事に賭け、スティーリー・ダンのあとに自分のキャリアを築こうとしていたかが、突然わかったから。彼は高みから墜落して炎上したんだ。私のように。私はといえば、もっとたくさんの聴き手から称賛 credit が欲しかった、私がどんなに頑張ろうと認めてくれない連中から。あのインチキDJときたら偉大なる男に電話までさせて。まあ、それはウォルターには関わりのないことだけど。

私たちは「フライング・カウボーイズ」をウォルターの大好きなエンジニア、いつもひどいジョークを言ってる天才、怒りんぼのロジャー・ニコルズと完成させた。すばらしいレコードだった。たぶんあの時代には早すぎたんだな。名曲だらけで。ワイルドでもアウトローでもなく思い切りポップで。テーマはウェスタンの超常現象…って、ぶっ飛びすぎてたかもね。ヒット曲は二つ「The Horses」と「Satellites」、でもたいしたヒットじゃなくて、ちょっとしたヒット。ゲフェン・レコードはがっかりしちゃって、私たちはレコードのプロモーションの最中にいきなり梯子をはずされた。6ヶ月でゴールド・ディスク寸前だったんだけど、彼らはもっと期待してたから。グラミーからもお声がかからず。いやほんとに。どういうわけかあと30000枚ってところで売上が止まっちゃって。それから数年たってもその30000枚を埋めることはできなかった。

それからウォルターにはご無沙汰して、スティーリー・ダンが初めてのツアーに出たときに会った。彼はレコーディングに参加した大物たちとハリウッド・ボウルにいた。私はとても鼻が高かった。そこにはもうありとあらゆる有名人が集まっていて、もう誰も「The Boston Rag」や「The Royal Scam」をけなしたりしなかった。

去年のこと、突然、私にスティーリー・ダンのNYC公演でオープニング・アクトをやらないかという話が来た。彼らはビーコン・シアターで毎年一週間にわたるライブをやっている。ヒット曲につぐヒット曲。完璧なプレイ。私は30分ばかり演った。うん、悪くない、十分よかったんじゃないかな。友達で名プレイヤーのマイク・ディロンがものすごいヴィブラフォンを弾いてくれた。いい感じでステージを降りた。ほとんど客入れの音楽って感じで、辛かったな。でもバックステージでウォルターとドナルドはすごくやさしくて。ドナルドはほんとにフレンドリーだった。居心地よくて。来てよかった。

次の夜、彼らが誘ってくれて何曲か一緒に歌うことになった。それで私はスティーリー・ダンと「ショウビズ・キッズ」を歌ったんだ。彼らはお返しに「The Horses」をやりたいって言ったけど、断った。もうキーを変えないと歌えなかったから。ウォルターは、いいよって言ってくれた。またの機会にね。

私の去り際にウォルターはハグしてくれた。「秋には君のところの近くでやるから、そうしたらもっとオープニングをやりに来てもらえないかな」

「ええ、ぜひ」

そしてまた9月。あの秋はもうやってこない。なぜ彼が死んだのがこんなにこたえるのか言葉では言えない。これまでも何人か友達を亡くしたけどそんなに近しい人たちじゃなかった。彼らはよく会う人たちだった。だからかな、こたえるのは。

二人は60年代末の長いドラムソロとジャムによる会話に対して、知性と正確さを持ち込んだ。ロックに対してジャズのソロを持ち込み、クールな歌詞の中でおかしみを産み、ハンサムであることよりクールであることを大事にした。彼らは初のカレッジ・バンドだった。それは確か。いまは懐かしいな、あの、人生が過去じゃなくてすべて未来に開けている感じ。なんでも可能で、泣く泣く手放すことなんて何ひとつない感じ。

私はリッキー・リー・ジョーンズ。ウォルター・ベッカーが短い人生の中でひときわ気にかけた女の一人。それをぜひ知っていただきたい。なんて楽しい人だったんだろう。ああそう、「Satellites」のソプラノ・サックスは嫌いだったけど、でもそのサウンドがどうなったかっていうと…まあきいてみて、デイヴ・マシューズの「Satellites」をぜひ。ウォルターは自分が何をやりたいかわかってた。彼は音楽を植えたんだ。ほら、私たちのまわり、いたるところで育ってる。

Rolling Stone誌「Read Rickie Lee Jones’ Poignant Tribute to Steely Dan’s Walter Becker」より