赤毛のアン、丘を下る(再掲)

 「赤毛のアン」は、最初のものを十代の頃読んだきり、ほとんど忘却の彼方にあった。最近、英語版を読み始めたら、自分の年齢がむしろマリラやマシュウに近いこともあって、アンのみならず、年老いた二人が世界ともう一度向き合う話として感じられるようになり、おもしろく読み進めた。もちろん、アンの長々と続く話し言葉を英語で浴びるのも新鮮だった。

 読み終えてから、村岡花子訳の「赤毛のアン」の最終章を読んでみた。端正な訳だ。そしてわたしはうかつにも知らなかったのだが、実はこれは完訳ではなく、何カ所か端折られている*。たとえば、アンが墓地から丘を下るくだりがあり、村岡訳では

翌日の夕方、アンはマシュウの墓に植えたばらに水をやってから、美しいアヴォンリーの夕景色を楽しみながら丘をおりてきた。

と短く抄訳されている。村岡花子がなぜこの美しい箇所を略すことに決めたのかはわからない。ともあれ、ここを飛ばすのはもったいない気がしたので、村岡訳の調子を崩さない程度に、以下に訳を試みてみた。あるいは同様の試みがすでにいくつもあるのかもしれないけれど、個人の英文和訳練習としてご笑覧いただきたい。

 翌日の夕方、アンはアヴォンリーの小さな墓地に行き、マシュウの墓前に新しい花を供え、ばらに水をやった。暗くなるまで、その小さな場所の静けさと穏やかさにひたっていると、かさつくポプラはまるでひそひそと親しく語りかけてくるようで、ささやく草たちは墓地のいたるところで思うままに伸びていた。アンはようやくそこから立ち去り、長い丘を下って輝く湖水へと歩いて行った。もう日は落ちてアヴォンリー一帯は夢のような夕映えに包まれていた。「いにしえの平穏のたまり」だ。大気には新鮮さがあって、風がつめくさの蜜の甘い匂いを吹き寄せている。家々の灯が木々に囲まれてあちこちまたたいていた。さらに向こうは海で、紫色にもやっており、たえることないそのつぶやきが耳をそばだてさせる。西の空は柔らかい黄昏色に染まっており、池に映ったそのかげは元の空にもまして柔らかい。その美しさにアンの心は震え、魂の扉をよろこびとともに開いた。
「親愛なる世界よ」彼女はつぶやいた。「なんて愛しいのだろう。あたし、あなたの中で生きることができてうれしいわ」

(赤毛のアン 第38章より)

*あとからわかったのだが、私の手元にあったのは古い新潮文庫で、2008年に出版された新装版の文庫では、村岡美枝による補訳がなされており、上記の箇所も補われていた。興味のある方はぜひ新装版の方をどうぞ。それにしても新版を持っていればこのような試みはしなかっただろうから、不思議なものだ。

* 高畑勲演出によるテレビアニメ版「赤毛のアン」でも、最後の丘を下る場面はごくあっさりと描かれている。高畑勲「映画を作りながら考えたこと」には、終盤のプロダクション状況が過酷であったことが記されているのでそのせいかもしれないが、あるいは村岡訳に沿った演出だったのかもしれない。

(2014.5.9の記事を再掲)

映画『メッセージ (Arrival)』 の言語感覚

以下は大いにネタばれを含んでいるので、映画を観てからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 『メッセージ』の雰囲気をおおよそ楽しんだ。

 色彩を抑えた、霧深い夢のような映像による構成、ヨハン・ヨハンソンの繰り返しを多用しながら聞き手の居場所を危うくさせる音楽はともに、この映画の持っている不思議な時間感覚を支えるものでだった。その霧の中に現れる物体やヘプタポッドの設計(やけに威力のある吸盤も含めて)も納得がいくものだった。

 にもかかわらず、この映画のある点でどうしても納得がいかなかった。それも物語の根幹に関わる決定的な点で、だ。それはヘプタポッドの「文字」の扱いである。

 この物語のもっとも重要な点は、ヘプタポッドたちの文字を解読する作業を通じてルイーズの時間認識が変化してしまう点にある。彼らの文字は、人類の言語のように、はじめから読み下して最後に到達する、という風には書かれていない。むしろ「目的論的」に、全体から細部に向かって読み込まれていくような言語だ。ルイーズはこの文字の読み方を通して、未来を見通してしまう言語感覚を身につけ、時間の感覚そのものまでを変容させてしまう。このような文字をテッド・チャンは「表義文字」と読んでいるが、墨のように一気に吐き出されて形をまとう文字デザインは、この「表義文字」を表すのにふさわしい創意だと思う。

 ところが、映画では、せっかくのヘプタポッドの表義文字を、あたかも「表意文字」のごとくパーツにばらしてしまう。しかもルイーズはヘプタポッドと話すにあたって、そのパーツを通常の言語のごとくシーケンシャルに組み合わせてしまう。何よりわたしが決定的についていけないと思ったのは、映画の後半で、ヘプタポッドのことばが字幕で翻訳されて表示される場面で、このように安易に翻訳されるともう、彼らは、時間軸に沿って生きる人類のように時間軸に沿って話す、ただの人類並みの生き物にしか見えない。

 「あなたの人生の物語」は、われわれが用いる言語と異なる時間構造を持った言語の話であり、それを映画化することは、とりもなおさず、映画の時間構造じたいを揺るがしてしまいかねない無謀な試みになりえたはずである。この点において、『メッセージ』は、ルイーズ母娘のエピソードとヘプタポッドとのやりとりを巧みに繋ぎながらこちらの時間感覚を揺るがしてくれるものの、そこで扱われている言語感覚は(残念ながら)ごく穏当で因果論的なものだった。

 それでも、わたしはラストのエイミー・アダムスの顔、未来を見通しながら相手を抱きしめるその陰影に富んだ表情に、報われた気がしたのだけれど。

* あとでつらつら思い出してみると、ルイーズは最後のほうで、パッドでパーツを組み合わせるのでなく、壁に直接手を当てて文字を描くということをしていた。あの演出はもしかすると、ルイーズが因果論的な書法から脱却して、ヘプタポッドたちの書法を身につけたことを意味していたのかもしれない。とすると、ここでの感想はちょっと書きすぎだったかもしれない。

ナボコフ的作家としてのクリス・ウェア

 現代のコミック界の中でナボコフ的な現象を扱っている作家として、クリス・ウェアを挙げてみよう。ウェアは、一つ一つのコマに対して小さな手がかりを描き加えながら、その場面の時代や環境を変化させていくことを得意としている作家であり、あとで述べるようにコマの順序や配列についても自覚的な作家だが、彼はナボコフの「ロリータ」について、インタビュー(Ware 1997)で次のように述べている。

 「ロリータに次のような一節があります。ハンバート・ハンバートは前庭で起こった事故に出会い、彼の目に映る次から次へと起こるできごとの積み重なり accumulation が生みだす効果を記そうとします。それには3,4段落を費やさねばならないのですが、彼はそこで自身の扱うことばが、そもそも同時性を欠くメディアであることについて弁明しています。もちろんこれこそは、コミック・ストリップでも起こりうることです。もっともナボコフほどおもしろくはならないでしょうけれど。」

 この一節とは、ハンバート・ハンバートがシャーロットの事故を目撃した第23章で行われる次の弁明のことだろう。

 一瞬の視覚的できごとの衝撃をことばの連鎖に置き換えねばならない。しかしページ上にその事実の積み重ねていくことは、実際のひらめき、印象のくっきりとした統一性を損なってしまう。 I have to put the impact of an instantaneous vision into a sequence of words; their physical accumulation in the page impairs the actual flash, the sharp unity of impression(”Lolita” Ch. 23)

 ここでおもしろいのは、クリス・ウェアが、ことばの(そしてコミックのコマの)連鎖がもたらす「統一性の損ない」を、欠点としてではなく、むしろ彼のコミック・ストリップの根本的な特徴としているところである。
 ウェアのコミックのコミックの大部分は室内劇であり、しかも登場人物の動きは少ない。物語を動かすのは、室内のロングショットとクローズショットの連鎖であり、クローズショットはしばしば登場人物や語り手の注意や想念と連動している。コマに捉えられるのは、ごくありふれた調度や小物であり、ときには壁にかかった絵のごく一部や、窓にとまっている小さな虫の行方をコマは追う。そのため、読者の注意もまた、室内のごく一部へと絞り込まれるのだが、そのことによって、読者は環境の中で変化するものと変化しないものを知り、室内の細部に埋め込まれた人の気配や行為の来歴を読み取る。そして、限られた手がかりから物語を捉えようとしたとき、突然、別の時代、別の人物によって、瑣末に見えたそれら環境の一部が扱われているのがコマで捉えられ、物語は更新を迫られる。こうした手がかりは、物語の離れた箇所に点在しており、読者はページを後戻りしては再読を繰り返しながら読み進めることになる。

 彼の代表作である「ジミー・コリガン」は、祖父ジェイムズの時代とジミーの時代の二つを往復することで更新される物語であり、近年の大作「ビルディング・ストーリーズ」は、一つの古いアパートに棲まう住人達の振る舞いを追うことで、人物たちとアパート自体の来歴を次第に明らかにしていく物語だが、いずれも、コマ運びによって読者の注意を細部へと誘い、ある時点でその細部の意味をがらりと更新して見せる点では共通している。できごとの連鎖によって読者の注意を限りながら導いていくその手つきは、まさにナボコフの作品の特徴とよく似ている。

 もう一つ、ナボコフを彷彿とさせる場面として、「ビルディング・ストーリーズ」(Ware 2012)の一節を紹介しておこう。大判の箱に収められたいくつもの冊子によって構成されているこの作品の中には、「SEPTEMBER 23RD, 2000」という一冊が含まれている。これは、作品の舞台であり主役でもある古いアパートを中心として、住人達のとある一日を描いたものなのだが、ウェアはその一日を物語る前に、アパートと住人たちの来歴を三ページのイントロダクションとして描いている。その一ページには、アパートを斜め上から各部屋の構造を見渡すように描いており、それぞれの壁や床、調度には、「886の叫び」「217の拳」「487のニックネーム」「6の自死のことば」といった書き込みを記すことで、このアパートに長い間積み重ねられた無名の記憶を数値化し、圧縮している。その上で、これらの壁や床、調度に囲まれたたった一日の出来事を物語り始めるのである。アパートの壁は、登場人物たちの向ける注意に導かれ、壁にかかった時計、その時計が示す唯一の時刻、カレンダー、カレンダーの絵柄の細部、写真立て、その写真に写った人物へと、その細部を開陳していく。その結果、イントロダクションで数値化された、アパートの来歴を俯瞰する記憶は、一人の住人に関わる数値化されえない細部によって上書きされる。

 このような手つきは、40年の結婚生活を数値化する「青白い炎」の以下の一節を想起させる。

We have been married forty years.
At least Four thousand times your pillow has been creased
By our two heads. Four hundred thousand times
The tall clock with the hoarse Westminster chimes
Has marked our common hour. How many more
Free Calendars shall grace the kitchen door
(“Pale Fire” [275-280])

 ここで数値化されているジョン・シェイドの生活は、序文とコメンタリーを記しているチャールズ・キンボートによって注釈され、さらには彼らの人間関係が明らかにされることによって幾重にもふくらみ、再読を促される。

 そして「ビルディング・ストーリーズ」もまたこうした特徴を備えている。箱に収められた冊子どうしは、異なる場面の異なる登場人物を一人称としながらお互いの物語を参照しあうように描かれており、ある冊子を読むことで、既読の冊子を再び開かされ、物語の意味を更新させられることになる。そして、こうして編み込まれていく読書体験そのものが、一つのアパートの形を帯びてくるのである。

 

(ナボコフにおける視覚的イメージの変容論を書く際に書いた断章 2017.1)