火を守る時間 —『映像研』のマンガ空間・アニメーション時間—

 マンガを読むとき、読者はコマという単位の中でテキストと静止画とを何度も往復し、詩的な構造を創り上げていく。

 たとえば、『映像研には手を出すな!』第二巻 p142、五徳を囲んでカップ麺を食いながら、金森が読者モデルとしての水崎を売り込む策謀を語る一コマを見てみよう。

『映像研には手を出すな!』第二巻 p142より

 原作では、焚き火の前で金森が二つの吹きだしを用いて言う。「せっかく注目を浴びる「明るい場所」を獲得したんです。」「可能な限り煽って効果を最大限引き出す。」この二つの吹きだしにはさまれて、向こうでは金森が団扇で火をダパダパと「煽って」おり、手前では五徳の火がボウボウバチバチと燃えている。読者であるわたしはまず、激しく燃える火から「明るい場所」を、ダパダパから「可能な限り煽って」を、ボウボウバチバチから「最大限」の効果を読み取ろうとする。火を煽ることを、可能性を煽ることの比喩として読む。

 もちろんこれは、コマを右から左に眺めながら、一つの記号が一つの対象を指し示すという前提によって引き出した、極めて単純な読みに過ぎない。何度もこのコマを眺め直すうちに、ダパダパだからボウボウなのか、バチバチだからダパダパなのか、「明るい場所」を獲得したから煽るのか、煽ったから「明るい場所」になったのか、原因と結果の時間順序は混濁していく。燃えさかる火を手前に、そしてその火に照らし出される金森を向こうに配した『映像研』独特の三次元的な構図の中で、因果の時間から自由になった、火の空間が浮かび上がってくる。『映像研』を読む楽しみは、単なる図式的な比喩を越えて、このような「設定」的空間、空想の居座ることのできる空間を見いだしていくことだろう。

 では、このをアニメーション化するとしたら、どんな演出が可能だろう。すぐに思いつくのは「煽って」という台詞と団扇の動作のカット、次にボウボウバチバチと勢いを増す火と「効果を最大限引き出す」というカット割りだろう。しかしこれは、判り易くはあるものの、当たり前でおもしろくない。原作のおもしろさは、先にも述べたように、単に吹きだしに対応する現象がコマの中に見つかるということではなく、吹きだしと絵によって作られた奥行きが読み手の時間の因果を狂わせ、動作の時間からひととき自由になる「設定」的空間を作り出すところにある。

 しかし、アニメーションには、動作の時間がある。むしろ動作の時間によって空間が構成される。それはどのようなものか。

 アニメーション版第8話の同じ場面はこうだ。

【カット1: 金森を横から捉えた構図。金森・水崎の足下が照らされている】
金森「せっかく注目を浴びることができる「明るい場所」を獲得したんです。
金森「可能なかぎりあおって効果を最大限に引き出す」

【カット2: 原作とほぼ同じ構図。手前に火、向こうに金森】
金森「不本意でも、それが今後の制作環境を向上させるならやるべきです」

 原作では、ボウボウ燃えさかる火と金森を奥行きのある空間の中に配置し、金森の身体をトーンの陰影で照らすことによって「明るい場所」ということばを引き立てていた。一方、アニメーション版の【カット1】では、同じ台詞で、金森と水崎の姿を横から捉え、しかも五徳の火の本体はフレームアウトしている。そのおかげで、原因である火ではなく、照らされている人間の方が強調される。しかも火は、金森だけではなく水崎の足下も照らしており、獲得された「明るい場所」は2人に共有されたものであることが印象づけられる。さらに「明るい場所」ということばでいったん手にとった薪を持ったまま動作を止めるので、動作自体よりも、照らされている身体の方が強調される。

 そして、何より引き込まれるのが、ここからの台詞と動作の同期のなめらかさだ。「可能な」で持っていた薪を放り、「限り」で手元の団扇をとり、「煽って効果を最大限に引き出す」でゆっくりと団扇を煽ぐ。ここで、金森は不必要に激しく団扇をあおぐのでなく、むしろ一定のペースでゆっくりと動かしている。常識的に「煽る」「効果を最大限を引き出す」ということばから連想されるような、動作の激しさはない。このことは、金森のどのようなキャラクターを表しているだろうか。

 それは続く【カット2】で、よりはっきりする。原作と同じ構図の中で金森は「不本意でも、それが今後の制作環境を向上させるならやるべきです」と語る。そして、この間も、金森の団扇を煽ぐペースは変わることがなく一定を保っている。「不本意でも」「やるべきです」ということばと、動作の安定ぶりとが同期している。そして火はバチバチと燃えさかるのではなく、ヤカンを温めるにふさわしいほどのよさで燃え続けている。団扇を煽ぐさかさかという音が響く。

 薪をくべてから団扇であおぐまでの無駄のないスムーズな動作の移行、そして「不本意」さの中で「やる」ときの動作のブレのなさ、その結果、頃合いのよい強さで燃え続ける火。以上の2つのカットで起こる一連の動きから、鑑賞者は金森というキャラクターに、情動にまかせてひたすら勢いのある火を燃やす「激しさ」ではなく、無駄な動作を省いて持続性の高い火を引き出す「冷徹な計算高さ」を感じ取ることになるのだ。もちろん、田村睦心の抑えた口調がこの印象を高めていることは言うまでもない。

 アニメーションは、マンガの設定空間から3人の静かな時間を引き出した。ペグで五徳を組んだ浅草が火の発明者なら、金森は3人の夜を守る火守りだ。金森の語り続けることばの時間によって、3人の囲む火は絶やされることなく燃え続ける。夜明けが近づき、火に照らされた水崎に、決断のときが来る。

小森はるか+瀬尾夏美 「《二重のまち/交代地のうたを編む》—民話の誕生に立ち会う」を観たあとに

昔話は、いつ昔話になるのだろう。

最初の物語はたぶん、とても個人的なものだったに違いない。どこへいって、なにをして、どうなったか。いった理由もした理由もそうなった理由も、その人の来歴、その人の癖にまつわるものだったろう。それが無類におもしろく、かなしく、おそろしく、だから誰かに話さずにはいられなかったとして、けれど、その個人的な語りを、わたしは語り直す資格があるのだろうか。その来歴も癖も持ち合わせないわたしが、語り手と同じ情動をこの身に立ち上げ、わたしがきいたときの情動を他の誰かに立ち上げることができるだろうか。できたとしても、それは来歴も癖もない、空虚な語りではないだろうか。だとしたら、わたしの語りで情動を立ち上げてしまった人は、わたしの空虚に誘われるしかないのではないか。

それでもわたしは、わたしのきいたその語りを語り直してしまう。きいたわたしも語っているわたしもただの幻ではなかろうかとおそれながら。そのとき不思議なことに、わたしは物語から個人的な痕跡を抹消し普遍的な語りへと向かうのではなく、むしろ、わたしはわたしをまさぐりはじめる。体をもぞもぞと動かす。手で手を擦りはじめる。わたしではない誰かの動かしたからだをわたしに立ち上げるために、わたしのからだをわたしではない誰かのからだとして使い始める。わたしはわたしを上下させ、わたしでわたしを擦り、わたしではないわたしへとわたしを分かとうとする。そしてようやくわたしは、わたしではない誰かのことを、おずおずと語りはじめる。