トットの抜け道 第3回(「トットてれび」のこと 再掲:2016.6.17)

 錦戸亮演じる坂本九は、ちょっとはかない感じがする。1961年、この前年に坂本九はすでに「恋する60才」でヒットを飛ばしていたはずなのだけれど、『夢であいましょう』のリハーサルで新井浩文演じる永六輔に「なんだその歌い方は!」と怒鳴られて、売れっ子というよりはなんだか寄る辺ない子犬のような表情になる。

 トットちゃんと同じ早食いではあるが、九ちゃんにはがつがつとした勢いがなく、「ぼく、九人兄弟の末っ子なので」と言う。その九ちゃんに、トットちゃんはまるで姉のように九ちゃんにエビチリを分けてやる。九ちゃんのはかない表情は、ちょっと泰明ちゃんを思い出させる。

 帰り道、九ちゃんが道ばたにいた子を拾い上げる。トットちゃんが矢継ぎ早に語りかける。「あらあなた、迷子なの?」「ねえ、何人兄弟?」「この人はね、九人兄弟なの。あなたは? 十人兄弟?」数を唱えることばはいつも、どこか呪文めいている。そしてこの犬はまるで、第一回でトットちゃんと鼻をつき合わせて、トットちゃんにけもののことばを教えた犬の末裔みたいだ。
 いまやけもののことばを自在に操るトットちゃんは、九ちゃんに犬をあてがう。まるで九ちゃんにけものの魔法を与えるように。「九ちゃんに抱っこしてほしいんですって」。
 九ちゃんは犬を抱いて本番で歌う。もう永六輔は怒鳴らない。きっと、犬の力だ。

 それからというもの、九ちゃんは犬と一緒にいる。セリフを覚えるときも一緒、夕食に出るときも一緒。リハーサルと本番のわずかな間、中華飯店に食べにきた九ちゃんが犬にもちゃんとご飯をやっている姿を、カメラはさりげなくとらえている。

 その九ちゃんが何者かにさらわれてしまうというのが、この日の「若い季節」の筋書き。本番、この筋書きをさらに混乱させるかのように、不吉なできごとが次々と起こる。ハナ肇の頭にはドアが激突し、トットちゃんの後ろからは壁が倒れかかる。カンペなしで臨んだ三木のり平は、このトラブルの連鎖にすっかり落ち着きを失い、セリフがとんでしまう。なんだ?とワンさん。椅子を蹴るディレクター。「終」の文字を手にするスタッフ。そのとき、トットちゃんの推理が炸裂する。三木のり平のセリフを次々と翻案し、犯人の名前を言い当て、そして九ちゃんはいまごろ…ドン!「横浜だ!」。

 テレビジョンの中の横浜はプランタン化粧品のすぐそばにある。いや、実は新橋だってじつはすぐそばにあるのではないか。スパーク娘がスタジオで歌う「あなたもあなたも」。ワンさんが新橋の中華飯店で歌う「あなたもあなたも」。スパーク娘が踊る。餃子がみるみる焼ける。伊集院ディレクターがコードを必死でさばく。もつれて近づきすぎた歌と餃子の距離をほどくように。しかし歌は遠くのものを近くに引き寄せてしまう。テレビジョンは遠くのものを近くに引き寄せてしまう。あなたもあなたもあなたも。

 本番はトラブル続きで大幅に押している。いや、大丈夫です!なぜなら満島ひかりのすばらしい早口がナマ放送を貫くからだ。「九ちゃんだけ誘拐したって、自分の映ってるフィルムを持っていかなきゃなーんの意味もないのに、キャメラを落としたことにも気づかないマヌケな犯人なんて、あたし、ちっともこわくないわ! それに…」突然、弟を思う姉の気持ち、子犬を九ちゃんに託した気持ちに突かれたように、トットちゃんの早口はさらに加速する。「アルバイトなのに正社員以上にプランタン化粧品のことを愛していて、拾った子犬を放っておけないような、やさしい九ちゃんのこと、わたし、このままほうってはおけないんです!」。

 セットからセットへ!この世の最短ルートを駆けて九ちゃんの救出に向かうメンバーたち。ところが幾多の窮地を乗り切ってきたこの劇中劇に最大のピンチが訪れる。なんと倉庫のセットにスタンバイしているはずの九ちゃんがいない。北村有起哉、濱田岳が二人のディレクターの精神の限界をそれぞれのテンションで好演しており、彼らの奮闘努力の甲斐もなく、もはや劇は「終」寸前まで追い込まれる。

 なのに満島ひかりは、黒柳徹子の半笑いが乗り移ったかのように、「九ちゃんは」「ちょっと九ちゃんどこ?」とピンチを意に介さない。そして不意に、トットちゃんはけもののことばを話し出す。すると、なんとしたことでしょう。ハープがぽろんぽろんと鳴り、魔法がかかる。 

 「テレとは遠い距離、ビジョンとは見ること」。テレビジョンは、遠い世界のできごとをすぐそこで起こっているように見せてくれる箱。でも、この箱には全く逆のしくみもある。トットちゃんの生きているのは、すぐそばで起こっていることを時間も場所もまるで違うできごとであるかのように見せる、テレビジョンの「ナマ放送」の世界だ。セットを仕切るドアはいつ倒れるかわからない。壁はいつ倒れてくるかわからない。セリフはいつ飛ぶかわからないし、人はいつ寝入るか分からない。そして、狭いスタジオの片隅で誰かが寝入ってしまったとしても、人間は誰も探し当てることができない。セットとセットの間には、人間ではないけものだけが見つけることのできる、こことよそとをつなぐ道がある。だからこそトットちゃんはパンダを抱え、犬と語り、けものに導かれて、こことよそを往復する道を見いだす。

 そういえば、第二回で、トットちゃんは九ちゃんの肩をとんとんと叩き、まるで泰明ちゃんとやったようにどこか遠くを見上げた。泰明ちゃんも九ちゃんも、もういない。けれど、そこにたどりつく方法を、トットちゃんは知っている。犬に教えてもらったから。

 魔法の時間。そこでは声が消え、ホーンセクションがバラードを奏で、犬はスタジオをかけてゆき、あんなにセリフが言えなかった三木のり平が、そばを高々とすする。離れたセットのかげへと、犬はメンバーを導いていく。そして、スタジオのかげで眠っている九ちゃんの上に乗る。

 「九ちゃんいたよ!九ちゃんいた!」九ちゃんの命運を知っている者には胸が詰まるようなディレクターのことば。そしてなぜだろう、「九ちゃん最近忙しくて疲れてるから、このまま寝かしといてあげましょ」という、姉のようなトットちゃんのセリフで、九ちゃんはとても親密で、でもけして手が届かなくて、そして手を届かせないことで親密な存在になる。わたしは、まるで長い間見失っていた九ちゃんを見つけ直したような気になった。

 植木等が決めぜりふを放つや、ギターが1,2,3、ピアノが1,2,3、そして「スーダラ節」の大団円に全員が巻き込まれていく。中華飯店に、まるで広々としたスタジオで鳴らされているような深い反響の手拍子が響く。歌も餃子も、一つの天井をいただき、踊っている。トットちゃんは、まるで木の上にいながら木の下にもいることができるかのように、櫓の上で歌いながら櫓の下で踊る。そして踊りの渦中にいながらまるでこの世にひとときまぎれこんだかのような絶妙な距離感でこう言う。

 「楽しそうね、みなさん!いいことだわ。」

トットの抜け道 第4回(「トットてれび」のこと:再掲 2016.6.19)

 独り言を他人がきくことはできない。

 いや、もちろん、一人だと思ってつぶやいたことがうっかり傍できかれてしまうことは、ある。傍に人がいようがいまいが、独り言が出てしまうこともある。しかし少なくとも、黒柳徹子の独り言を、わたしはきいたことがない。いや、もちろん、黒柳徹子はお芝居の中で独り言を言うこともあるし、彼女が矢継ぎ早に放つことばの中には、誰に宛てているのかわからないものもあるのだけれど、それらはあくまで、観客やカメラの前で意識されて放たれるものだ。「ンヒッ」のように。

 霞町のマンションに住む向田邦子と「毎日会っていた」頃、トットちゃんは、ふと独り言を漏らす。テレビの前で放たれる黒柳徹子の声を、満島ひかりは実にあざやかになぞってきたが、実はその黒柳徹子が独り言をどのようにつぶやくのか、わたしたちも彼女も知らない。

 「○○×○××△□☆□□○×○」

 満島ひかりが何ごとか小声でつぶやく。それはあまりにすばやくふいに鼻から抜けるようにつぶやかれるので、ふいに目の前をけものが横切ったようで、最初は何を言ったのかわからない。

 新橋のけばけばしいネオンの中で、電器店のテレビの中で、また満島ひかりが言う。今度は二回目だから、はっきりききとれる。

 「あたらしらしいってどういうことかしら」

 トットちゃんが、「あたしらしさ」について迷うことなんて、あるんだろうか。でも、その小さくすばやいことばは、小さくすばやいのにあまりに粒立ちがはっきりしていて、トットちゃんが言ったとしか思えない。
 満島ひかりはもはや、彼女もわたしたちも知らない黒柳徹子を演じており、しかもそれは黒柳徹子としか思えないのだ。


 第四回は、手から頭への回。

 『繭子ひとり』に登場する青森からやってきた家政婦、田口ケイのキャラクターを作るべく、子供の声がトットちゃんの考えを加速する。トットちゃんは牛乳瓶の底のような(この形容句はいつまで通じるだろう?)眼鏡をかけ、ぼろ布のような服をまとい、手にはあかぎれを覆う絆創膏を貼って、息子の洋平役の共演者の横に座る。そこに伊集院ディレクターが来て、通り過ぎようとしてから、振り返ってゆっくりトットちゃんの前に来る。ここで濱田岳は、首から上だけのいわゆる二度見のようなあからさまな所作をせずに、踵を返す前の速さと返した後の遅さの対比によって、一瞬のうちに「またコイツか」と即断するディレクターらしさを表している。彼はわずか数歩の間にクールダウンして挨拶へと転じる。

 「おはようございます…これでいきますか?」

 そして洗面所にトットちゃんを連れて行くと、一気に沸点をあげる。

 「絶対これやりすぎでしょ!…あのさあ、これ朝だよ、朝から誰もこんな汚い格好みたくないんだってば」

 そこから昭和二十年、疎開先青森の回想場面での見知らぬおばさん(木野花)の青森弁は、しみいるような調子なのだが、ここでもっともこちらの心を揺さぶるのは、その手に貼られた絆創膏だ。冬の駅舎で、おばさんの手が幼いトットちゃんのかじかんだ手をとって丁寧にこするのを見るとき、見ているわたしは、絆創膏の凹凸によってもたらされるであろうがさついた感触、そしてそのがさつきの摩擦とともに立ち上がってくる温かさを感じている。この、きわめて触覚的なショットのあとに、さらにおばさんは、トットちゃんの手に、まるで人工呼吸で蘇生させるかのように温かい息を吹きかける。

 そして、トットちゃんと伊集院ディレクターは、合わせ鏡の洗面室にいる。鏡に向かって、トットちゃんは「牛乳瓶の底のような」眼鏡をかける。その確信に満ちた表情は、第二回「実家に帰ってます、のひとことで片付けられちゃうって、なんなんだろう?」と消えたテレビに映った自分に見入っていたトットちゃんとはまるで違っている。

 トットちゃんは、ちょうど昭和二十年に見知らぬおばさんが自分にやってくれたように、伊集院ディレクターの手を、絆創膏だらけの手で握り、 「たのむすけ、このかっこうでやらせてくれねか」と疎開先で覚えた青森弁で言う。この様子をカメラは、あえて鏡ごしの角度から捉えている。そのことでわたしたちは、洗面所の外にいる息子役の男の子が、二人のやりとりをわたしたちと同じように盗み見ていることを、絆創膏だらけの手を見ることで、その手がもたらすであろうがさがさとした手触りとぬくもりを感じているであろうことを、知る。

 トットちゃんをデビューの頃から知る伊集院ディレクターは、いつも仕事に忙殺されており、なにごとも現場の打算で即断する。もつれたコードはほどくしかないし、奇矯な演技は遠ざけるしかない。この場面でも、彼は現場の都合をそろばん勘定するように困惑した表情を浮かべているのだが、その隙間に、ちょっとだけ人情の隙に囚われているような瞬間があって、そういう微妙な表情を、濱田岳は実に印象的に演じている。


 この回では何度か「グッドバイ」ということばが放たれる。トットちゃんが新しい世界に飛び込むときは、いつもちょっとかなしくて、お別れのかなしさを感じるくらいお互いが近くにいて、そのかなしさをさっと振り払って溌剌と「グッドバイ」をする。

 トットちゃんは、ニューヨークで田口ケイを演じきったあと、ヤン坊ニン坊トン坊の「さあさあ出発だ、さあさあお別れだ」を口ずさみながら、ゆっくりと絆創膏を剥がす。この「出発の歌」が、『トットてれび』ではなんとせつなく、愛らしく響くのだろう。見る者の手を温めた絆創膏は、いまやかさぶたのように剥がされて、新しい皮膚のような髪型が現れる。

 そしてラスト近く、三浦大知演じるチャップリンが「オニオン・ヘアー」と彼女にささやいたとき、わたしはそれがまるで「あたしらしいってどういうことかしら?」に対する答えをチャップリンがささやいたんじゃないかしらと思ってしまった。ああ、そこからニューヨーク・ニューヨークのセットを抜け出して、スタッフロールが流れる中、満島ひかりが「徹子の部屋」まで移動していくまでのワンショットのなんてすばやくてすてきなこと!

トットの抜け道 第5回(「トットてれび」のこと:再掲 2016.6.4)

これは、『トットてれび』第五回を見てから読むといいですよ。


 『トットひとり』に向田邦子の妹和子さんと黒柳徹子との対談が収められている。そこで、黒柳徹子は向田邦子に教わったという「禍福はあざなえる縄の如し」のことを、こんな風に語っている。

 でも私、今でも思い出して笑っちゃうんだけど、最初にその言葉を教えてもらった時に、「でも、幸せの縄二本で編んである人生はないの?」って訊いたのよ。そしたら向田さん、言下に「ないの」(笑)。

 対談だから、もしかしたら「言下に」というところは、実際には身振りを交えた、少しくだけた言い回しだったのかもしれない。ともあれ、このやりとりは、『トットひとり』の中でとても印象的で、『トットてれび』でもやはりこのことばは取り上げられていた。

 スタジオの調整室で差し迫った台本書きに勤しんでいる向田邦子に、セリフにあったその諺の意味をたずねにいく場面で、満島ひかり演じるトットちゃ んは、「あの、幸福の縄だけで撚ってあるってことはないんですか?」とたずねる。すると、原稿用紙にむかっていた向田邦子、まるで向田邦子の写真から抜け てきたようなミムラは、ちょっと笑ってから微かに首を横に一度振ってさりげなく言う。「ないの」。そしてすぐ、原稿に向かう。

 その、執筆の時間にちょっと差し込まれたしぐさ、歌の合間にほんの少し差し挟まれる会話のような、首のわずかな動きとすばやさを見て、もうわたしは「言下に」とは何か、わかってしまった。

 シャム猫はひとなつこいというけれど、寝転んでいる背中に飛び乗って平然としていることができるのは、限られた人の背中だろう。満島ひかり演じる トットちゃんの背中には猫の伽里伽がまるで柔らかい家具にでものっかるように乗る。同じ部屋でディレクターたちがトットちゃんの留守番電話で談笑していた ときには、まるで落ち着きがなかったのに。それで、この部屋で向田邦子とトットちゃんが、気配を消すくらいそれぞれの仕事に没頭していた、その時間の長さ がわかる。

 猫は、誰もいない部屋なら留守番電話の上にだって乗るけれど、トットちゃんの声が電話から聞こえただけで落ち着きなく駆け回る。その、向田邦子にあてた電話でトットちゃんは「黒いにちゃにちゃしたお菓子」を買ってくると言う。

 いつになくしみじみと落ちついた演出を見ながら、これは井上剛さんじゃないな、と思っていたら、百歳の黒柳徹子が現れて、こわいこわい『阿修羅の ごとく』のテーマが鳴り出した。百歳の黒柳徹子は、冒頭で無理矢理「んひ」と笑顔を作る以外は、この世の中なんてくそくらえだわとでもいうようにいつも憮 然とした表情なのだが、曲がまたその表情に似合って怖ろしい。昔わたしがテレビで見た『阿修羅のごとく』は、このトルコの軍楽隊の行進曲が鳴るだけで家族 の命運が逆落としに転がっていきそうな、この世に幸せだけなんてありえないかのような、食べたことのない味のする、こわいこわいドラマだった。その行進曲 が鳴り響く中、百歳の黒柳徹子がこどもたちに、「黒いにちゃにちゃしたお菓子」をまるでイモリの黒焼きのように刺した串を手渡してから、「ふん!」と鼻を 鳴らして串を嗅ぐ。

 見ているこちらにもにちゃにちゃした黒い味と匂いがつんときたとき、突然、トランペットスピーカーから歪んだサイレンのような音がして、それは 『寺内貫太郎一家』のテーマだ。そして商店街にその明るいテーマが鳴り響く中、向田邦子のお気に入りだった中華料理屋の席に向かって「あたしね、おもしろ いおばあさんになる!」と、トットちゃんが決然と言い放つや、世界はいまどきありえない紫色のネオンに輝きだし、トットちゃんが踊り出す、そうか、『寺内 貫太郎一家』はダンスナンバーだ! そして、百歳の黒柳徹子までも、立ち上がって踊り出す! もうその動きを見て、わたしはどうかしてしまいそうだった。 百歳の黒柳徹子とトットちゃんが、遠くのものを近くに見せるテレビの中で、踊りあっている。もし、いまの黒柳徹子が普通のメイクでカメオ出演しただけな ら、それはただ「おもしろいおばあさん」をこれこの通りと見せるお話になっただっただろう。でも、いまはそうじゃない。だぶだぶの衣装で踊る百歳のトット ちゃん、百歳とトットちゃん、未来と過去が踊っている。わたしの頭の中で現在が踊る。百歳とトットちゃんの間にある、「ないの」のような踊りを。

トットの抜け道 第6回(「トットてれび」のこと:再掲 2016.6.12)

 これは、『トットてれび』第六回を見てから読むといいですよ。


 『トットひとり』には、トットちゃんが兄ちゃんこと渥美清に『星の王子さま』をあげるくだりがある。とてもさりげない、一段落ばかりの文章だ。

 あの頃、私が兄ちゃんに『星の王子さま』をあげたそうで、兄ちゃんによると、「あなたが、僕に読書を勧めてくれたんですよ。僕に、知的なカケラがあるとすれば、それは、あなたの影響ですよ。『ほら、こんなキレイな物語があるのよ。仕事場で、すぐ、“この野郎!”なんて言っていないで、読んでごらんなさいな』。あなたは、あの時、そう言ったよ」ということになる。

(『トットひとり』)

 わたしは確かにこのくだりを読んだはずなのだが、『星の王子さま』なんてよく知ってるつもりでいたから、あああんなかわいらしい本を渥美清が読んだだなんておもしろいな、そしてそれを黒柳徹子が忘れていたというのもかわいらしい話だと思ったくらいで、たいして気にも留めなかった。

 けれど、『トットてれび』で中村獅童演じる渥美清が、楽屋に寝転がって『星の王子さま』を読むのを見て、驚いてしまった。中村獅童は、ものまねに淫し過ぎることのない落ちついた、しかし渥美清としかいいようのない口調で『星の王子さま』を朗読する。「そりゃ、もう、あたくし、あなたがすきなんです」。そうか! 内藤濯訳の『星の王子さま』では、バラの花は「山の手のお嬢さん」ことばだったのだ。そして、「あたくし」ということばが中村獅童の声で読まれると、それは「わたくし生まれも育ちも」の「わたくし」でもあるようで、『星の王子さま』を渥美清の「声」が読むということがどんなに衝撃的なことかを知って愕然としてしまった。『トットひとり』を読んで、こんなこと、想像もしなかった。

 ある日、トットちゃんは渥美清の『男はつらいよ』第四十七作の撮影風景を見ようと、今はなき大船撮影所ではなく、浅草寺の現場に遊びに行く。スタッフの一人が心配げに駆け寄って転ぶのだが、トットちゃんは意に介さない。そこにはちょっと生気が抜けたような渥美清がふらりと立っていて、トットちゃんを気軽に迎えてくれる。それを見た先のスタッフが心配そうにおみくじ売りの方を振り返るほんの短いショット。芹澤興人がとても印象的な表情をしている。それで、浅草寺のおみくじがずいぶん厳しくて、しばしば「凶」を出すことを、はっと思い出す。

 トットちゃんは、しばらく連絡をくれなかった渥美に「温泉いってたんでしょ?」と問い詰める。すると、中村獅童がまたなんともいえない口調でしみじみと「お嬢さん、あんたほんとばかですね」と言うのだが、それでわたしはまたさっきの「星の王子さま」の場面を思い出してはっとした。渥美清が楽屋で寝転がって読んでいた「星の王子さま」、そのページには確かに、バラの花が別れ際に王子さまに言った、こんな一節が映り込んでいたからだ。

「あたくし、ばかでした」。

 病院の屋上で車いすに乗った渥美清と相対するようにしている女性は、一目で渥美清を見つめる大切な人だと分かる表情で、この印象的な人は誰だったっけと思って最後の配役を見たら、中村優子だった。そうか、『カーネーション』であの役を演じた彼女だったんだな。切符もぎりの片桐はいりはもちろんだけれど、芹澤興人といい中村優子といい、脇役が強い印象を残す回だ。
 脇役といえば、第1回から、トットちゃんの庇護者のように登場する松重豊演じる中華料理屋の店主が、回を増すごとにしみじみとした味わいを増して見える。すでに彼が老眼鏡をかけて向田邦子の訃報を読んでいるところ、彼自身が老境に入っているところをわたしは見てしまっているのだが、その彼が、ダック入りの北京ダックを、まるで「食い食い族」であるトットちゃんの時間を励ますように、「のせて、のせて、ミソつけて、まいてまいて」と言っているのを見ると、まるで彼がこのドラマを駆動すべく薪をくべ火を守っているようで、ちょっとたまらない。

 ドラマの終盤近く、渥美清は、かつて熱愛と報道された写真の姿そのままのチンドン屋に扮して現れ、「男はつらいよ」がチンドンで奏される。そして、黒柳徹子が渥美清のことを「兄ちゃん」と呼んでいた話はさんざん『トットひとり』に出てきたのに、そして百歳の黒柳徹子が冒頭で「兄ちゃん」とつぶやくのに、わたしはなぜ「男はつらいよ」の主題歌が、兄が妹に歌いかける詞だと気づかなかったのだろう。いつになく、歌詞が次々と字幕で表示される画面を見ながら、歌の意味がこのドラマによって全く異なる色を帯びるのを、呆然と見てしまった。

 トットちゃんと『男はつらいよ』を見る。トットちゃんと北京ダックを食べる。トットちゃんとうどんを食べる。印象的なラストに比べれば、このドラマの中間に置かれた渥美清のエピソードは、どれも肩肘のはらない、ただのひまつぶしのような時間で、これまでのこのドラマにないほど淡々とした展開にすら見える。しかし、王子さまにとってバラの花がどんな存在かを「かんじんなことは、目に見えないんだよ」と言い当てたあと、キツネがこう続けたことも、私は長いこと忘れていたのだった。

 「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」

「こまどりは死に、うたが始まる」補遺

 Kindle版ユリイカ臨時増刊「総特集・魔夜峰央」(2019.3)所収の
細馬宏通「こまどりは死に、うたが始まる」の中で、図5が他の図と入れ替わっていたので、ここに訂正しておきます。ちなみに本文では、マンガから想像される「クック=ロビン音頭」(図2)、電磁人間プラズマXの「ビービッビ…」から想像される「クック=ロビン音頭」(図4:実はアニメ版『ぼくパタリロ!』エンディングで歌われた「クック=ロビン音頭」とほぼ同じ)、そしてアニメ版の初期で歌われた「クック=ロビン音頭」(図5)の三通りを区別して論じております。

 アニメ版の「クック=ロビン音頭」は、大きく分けて第二回〜第八回の劇伴なし「ロービン」の時代、第九回から第十一回の劇伴付き「ロービン」の時代、そして第十二回以降の劇伴付き「ロッビン」の時代に三分割できるかと思います。詳しい論は、本文をどうぞ。

図2. わたしがマンガ版を初めて読んだときに考えた「クック=ロビン音頭」
図4. プラズマXの歌う「クック=ロビン音頭」
図5. 白石冬美がアニメ版第二回で歌ったときの「クック=ロビン音頭」

「いだてん」周回遅れその6:ぐるっとぎゃん

 四三は播磨屋の主人、清さんと、毎日走るコースを相談している。

「どこを走ってんの?」
「お茶の水ん寄宿舎から大塚ん学校までば行ったり来たり」

 そのコースは坂が多いし道がよくない、というのが清さんの意見だ。それはもっともだとして、そのあとの提案がちょっと変わっている。お茶の水の宿舎から坂を下りて平地でトレーニングするのであれば、南東の日本橋へ直接行けばごく平坦な道ではなかろうか。なのに播磨屋と清さんのおすすめは、わざわざいったん北側の上野に向かうルートだ。コースはますます日本橋からそれて、さらに東、浅草に行く。

「上野から浅草、凌雲閣をぐるって回って…」

 凌雲閣こと十二階は浅草の北、だからそこを「ぐるっと回る」と180度方向転換して南向きになる。浅草から人形町、日本橋、というのは落語「富久」で主人公がたどるルートだ。

Google Earth + 東京地形地図による地形地図に、『いだてん』第六回関連場所を記入したもの

 四三は奇妙な迂回をすることになる。ただ直線の平地を行くコースではなく、まるで回転する身体から砲丸を放つように、十二階をぐるっと回るその遠心力によって自身を放つ。「ぐるっと回る」ことで四三の身体は一気に加速する。そこからはぎゃん行ってぎゃん行って、浅草から日本橋、いっそ距離をのばして芝の浜まで。宮藤官九郎のことばは、「ぐるっと」で回転加速し、「ぎゃん」でスピードアップしたその速度を表す。

 カメラはどうか。「上野から浅草」という四三のことばとともに、ショットはすでに十二階に走り込む四三の姿を写している。目眩のように景色は回転する。猿回しの猿が逆立ちをしているそばを四三が通り過ぎる。楽隊が音楽を鳴らしている。あたかもここ十二階こそ、身体をひっくり返すヘソなのだとでもいう風に。「浅草を抜けたらぎゃん行ってぎゃん行って…」ここでは町並みを進む四三を横から捉えながらカメラが併走し、ストレート感を出している。そしてショットが切り替わると、低層の東京がぐっと開ける。海までは平地だ。

 そこから日本橋をゴールにしてもいいけれど、四三はさらに芝まで行く。ちょうど志ん生が落語の中で、日本橋まで行けばいいはずの「富久」をそこからさらに距離を伸ばして芝までにしてしまったように。

 日本橋と芝。ばしとしば。あれ、回文だ。芝から。ばからし。あれ、アナグラムだ。阿部サダヲ演じる田畑は言う。「しばからにほんばしまではしるばかどこにいる?」。ばっ、まるで早口言葉だ。

 浅草。あ「さくさ」。あれ、回文が入っている。あさくさは、「あ」から「さくさ」への回転。上野から浅草、あさくさの「く」で生まれる遠心力。しばはばしの反転。芝は、日本橋まででよかったその先に据えられた夢。四三は毎日夢に行き、夢から帰ってくる。明日もまた夢になる。夢になるといけねえ。

ほうろうへの道

1.
丘は 東にも西にも開けているのに
どうしてかな日暮ればかり見てしまう
おひさまがのぼるのを見て下るより
おひさまもわたしも下りてゆく方が好き

だって三軒隣は酒屋 三軒隣は酒屋
東に登ればお墓 でも三軒隣は酒屋

2.
日曜にはラーメン屋に行列ができる
しのばず通りでなくてもラーメン屋はあるのに
よみせ通りに抜ける小さな道には
女性だけカラオケがただになる店もある
紙かつはとてもうすい でも叩いてのばせばでかい
衣はあくまでさくさく
それはとんかつの店の「みづま」

3.
富士山はどこに見えるのか
富士見坂
蛍はどこで光ってる 
蛍坂
今日のわざをなしおえて選ぶ坂
空からは夕焼けがだんだんおりてくる

道潅山下めざし しのばず通りをゆけば
おやこんなところに本屋さん
そして三軒隣は酒屋

三軒隣は酒屋 三軒隣は酒屋
東に登ればお墓
でも三軒隣は酒屋

(2011.5.29 かえる目「三軒隣は酒屋」@古書ほうろう ライブ前に作詞作曲)

「いだてん」周回遅れその5:彼岸過迄

 美川は寄宿舎で、消沈したように猫を抱いている。猫があんまり大きいので、美川の方が小さな動物のように見える。

 明治44年11月のこの時期、漱石は未だ創作の空白期にあった。

 明治43年夏、療養先の修善寺で、漱石は突如大量喀血し、生死の境をさまよった。いわゆる「修善寺の大患」だ。ようやく回復し東京に戻ったものの、その後は大患前後のことを書いた「思い出す事など」を除いてほとんど執筆活動を行っていない。「三四郎」以降、「永日小品」「それから」「門」と、わずか二年の間に次々と名作を生み出してきたあとの一年数ヶ月にわたる沈黙は、愛読者にとっては信じられないほどの長さだっただろう。

 翌明治45年の新年、ようやく漱石の新連載が朝日新聞で始まる。
「長い間抑えられたものが伸びる時の楽(たのしみ)よりは、背中に背負された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉しかった。けれども長い間抛り出しておいたこの義務を、どうしたら例(いつも)よりも手際よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない」。その緒言は、病み上がりの自身の具合を確かめるような調子を帯びている。

 そして「彼岸過迄」もまた、青年を主人公に据えながら、動き過ぎることを忌避するように始まる。「敬太郎はそれほど験(げん)の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注(さ)してきた」。飲みたくもない麦酒をポンポン抜いてもどうも陽気になれず、早々と布団に潜り込んでしまう。喉が渇いて目が覚める。夢を見て目が覚める。煙草を吸って、まだ眠れない。朝がきて風呂に行く。倦怠の中から、敬太郎はゆっくりと物語を探っていく。

 美川が尊敬してやまない作家漱石は、もうすぐそのような小説を書く。新小説を新聞で読み進めるうちに、美川はいよいよ自身を持て余し、猫は大きくなり、運動と奔走のもたらす華やかな身体の世界からはみ出していくに違いない。