これは、『トットてれび』第六回を見てから読むといいですよ。
『トットひとり』には、トットちゃんが兄ちゃんこと渥美清に『星の王子さま』をあげるくだりがある。とてもさりげない、一段落ばかりの文章だ。
あの頃、私が兄ちゃんに『星の王子さま』をあげたそうで、兄ちゃんによると、「あなたが、僕に読書を勧めてくれたんですよ。僕に、知的なカケラがあるとすれば、それは、あなたの影響ですよ。『ほら、こんなキレイな物語があるのよ。仕事場で、すぐ、“この野郎!”なんて言っていないで、読んでごらんなさいな』。あなたは、あの時、そう言ったよ」ということになる。
(『トットひとり』)
わたしは確かにこのくだりを読んだはずなのだが、『星の王子さま』なんてよく知ってるつもりでいたから、あああんなかわいらしい本を渥美清が読んだだなんておもしろいな、そしてそれを黒柳徹子が忘れていたというのもかわいらしい話だと思ったくらいで、たいして気にも留めなかった。
けれど、『トットてれび』で中村獅童演じる渥美清が、楽屋に寝転がって『星の王子さま』を読むのを見て、驚いてしまった。中村獅童は、ものまねに淫し過ぎることのない落ちついた、しかし渥美清としかいいようのない口調で『星の王子さま』を朗読する。「そりゃ、もう、あたくし、あなたがすきなんです」。そうか! 内藤濯訳の『星の王子さま』では、バラの花は「山の手のお嬢さん」ことばだったのだ。そして、「あたくし」ということばが中村獅童の声で読まれると、それは「わたくし生まれも育ちも」の「わたくし」でもあるようで、『星の王子さま』を渥美清の「声」が読むということがどんなに衝撃的なことかを知って愕然としてしまった。『トットひとり』を読んで、こんなこと、想像もしなかった。
ある日、トットちゃんは渥美清の『男はつらいよ』第四十七作の撮影風景を見ようと、今はなき大船撮影所ではなく、浅草寺の現場に遊びに行く。スタッフの一人が心配げに駆け寄って転ぶのだが、トットちゃんは意に介さない。そこにはちょっと生気が抜けたような渥美清がふらりと立っていて、トットちゃんを気軽に迎えてくれる。それを見た先のスタッフが心配そうにおみくじ売りの方を振り返るほんの短いショット。芹澤興人がとても印象的な表情をしている。それで、浅草寺のおみくじがずいぶん厳しくて、しばしば「凶」を出すことを、はっと思い出す。
トットちゃんは、しばらく連絡をくれなかった渥美に「温泉いってたんでしょ?」と問い詰める。すると、中村獅童がまたなんともいえない口調でしみじみと「お嬢さん、あんたほんとばかですね」と言うのだが、それでわたしはまたさっきの「星の王子さま」の場面を思い出してはっとした。渥美清が楽屋で寝転がって読んでいた「星の王子さま」、そのページには確かに、バラの花が別れ際に王子さまに言った、こんな一節が映り込んでいたからだ。
「あたくし、ばかでした」。
病院の屋上で車いすに乗った渥美清と相対するようにしている女性は、一目で渥美清を見つめる大切な人だと分かる表情で、この印象的な人は誰だったっけと思って最後の配役を見たら、中村優子だった。そうか、『カーネーション』であの役を演じた彼女だったんだな。切符もぎりの片桐はいりはもちろんだけれど、芹澤興人といい中村優子といい、脇役が強い印象を残す回だ。
脇役といえば、第1回から、トットちゃんの庇護者のように登場する松重豊演じる中華料理屋の店主が、回を増すごとにしみじみとした味わいを増して見える。すでに彼が老眼鏡をかけて向田邦子の訃報を読んでいるところ、彼自身が老境に入っているところをわたしは見てしまっているのだが、その彼が、ダック入りの北京ダックを、まるで「食い食い族」であるトットちゃんの時間を励ますように、「のせて、のせて、ミソつけて、まいてまいて」と言っているのを見ると、まるで彼がこのドラマを駆動すべく薪をくべ火を守っているようで、ちょっとたまらない。
ドラマの終盤近く、渥美清は、かつて熱愛と報道された写真の姿そのままのチンドン屋に扮して現れ、「男はつらいよ」がチンドンで奏される。そして、黒柳徹子が渥美清のことを「兄ちゃん」と呼んでいた話はさんざん『トットひとり』に出てきたのに、そして百歳の黒柳徹子が冒頭で「兄ちゃん」とつぶやくのに、わたしはなぜ「男はつらいよ」の主題歌が、兄が妹に歌いかける詞だと気づかなかったのだろう。いつになく、歌詞が次々と字幕で表示される画面を見ながら、歌の意味がこのドラマによって全く異なる色を帯びるのを、呆然と見てしまった。
トットちゃんと『男はつらいよ』を見る。トットちゃんと北京ダックを食べる。トットちゃんとうどんを食べる。印象的なラストに比べれば、このドラマの中間に置かれた渥美清のエピソードは、どれも肩肘のはらない、ただのひまつぶしのような時間で、これまでのこのドラマにないほど淡々とした展開にすら見える。しかし、王子さまにとってバラの花がどんな存在かを「かんじんなことは、目に見えないんだよ」と言い当てたあと、キツネがこう続けたことも、私は長いこと忘れていたのだった。
「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」