それにしても土曜日の「わろてんか」第四二回、笹野高史演じる文鳥師匠の「時うどん」には惚れ惚れとしてしまった。
もちろん、それは笹野高史の演技のすばらしさによるものだったのだが、もう一つ注目したいのは、この「時うどん」の場面がドラマの中でいかに演出されていたかという点だ。以下では笹野高史の演技だけでなく、『わろてんか』という物語において「時うどん」というネタはいかに位置づけられていたか、そしてそれはどのように演出されていたかに注目して、いくつか異なるアングルから振り返ってみたい。
上方の「時うどん」では、江戸落語の「時そば」と違い、最初の夜、兄貴分と弟分が二人で一つのうどんを食べる。これは、落語の好きな人にはよく知られたことだが、大事なのは、この二人で一つのうどんを食べることが、後半の物語に重要な違いをもたらすということである。
次の夜、一人でうどん屋に来た弟分は、兄貴分の真似をして足りない銭でうどんを食べようとする。このとき、ただ最後の銭の数え方を真似するだけでなく、兄貴が自分と二人で食べたときにやったやりとりを全て真似しようとする。前の夜、兄貴分は、うどんの残りを気にする弟分が袂を引くのをうっとうしがって「ひっぱりな!」と言っていたのだが、弟分は、このやりとりまで、一人で真似てしまうのである。そのため、弟分の所作は、そこに居もしない誰かに向かって「ひっぱりな!」と叫ぶという、奇妙奇天烈なものになる。
こう書くと「時うどん」の弟分は単なるマヌケに読めるかもしれないけれど、実は「時うどん」の楽しさは、この弟分が単にマヌケであることではなく、兄貴分の所作を演じる喜びを全身で表現している点にある。弟分は、単にうどんを食いたくてうどん屋に来たではない。兄貴分のような大人びた振る舞いをしに来たのであり、兄貴分と同じ台詞、同じ所作が言えることが、うれしくてしょうがないのだ。
そして、この弟分の兄貴分に対するひそかなあこがれ、兄貴分の振る舞いをなぞる高揚を表すことこそが、「時うどん」の見せ所となる。観客は、この噺をききながら、兄に重なろうとする弟に物語の中の弟に重なろうとする噺家を見出し、弟分の演じる喜びと噺家の演じる喜びとを二つながらに受け取るのである。
このように「時うどん」は、演じるということにおいて二重の構造を持った噺であり、その意味で、俳優が演じるのにまさにうってつけのネタだと言えるだろう。
そしてそれは実際、すばらしい効果をあげていた。笹野高史は、次の夜の始まりに、弟分の声で「ゆんべとちっともかわらんようにやって、一文ごまかしたんねん」と言うのだが、ここでいかにもその場にいる見えない誰かに自慢するように、客席に周到に視線を配る。この観客席に対する見渡しによって、これから行われる弟分による演技は、単にうどん屋相手というよりは、そこにいる観客相手であるかのように感じられてくる。
弟分が、垂れ下がった袂を手で叩いて、「ひっぱりなー!」という件もそうだ。笹野高史は後ろをちらと見ることはなく、あくまで正面の客席を見続け、満面の笑みを浮かべる。この、正面を向いたままの演技によって、弟分の得意げな心情がしっかりと伝わってくる。声もよい。兄貴分は語尾をもっと切り詰めて「ひっぱりな!」と短く言っていたのだが、弟分は演じることがうれしくてしょうがないので、思わず語尾が延びて「ひっぱりなー!」となってしまう。笹野高史はそういうところも細かく演じ分けて、弟分にとって(そして俳優にとって)演じることがいかに高揚に満ちた愉悦であるかを表す。
さて、この笹野高史の演技は、どのように演出されていただろうか。
通常、落語の高座をは、よけいな演出を排して正面から引きとアップを撮影する。そのことで噺家の芸をより直接に見せようとする。しかし、『わろてんか』のこの場面では、噺家を画面に収めるカメラだけでも、正面、上座下座のかぶりつき、そして噺家の後ろと、四台が用いられている。この場面が何回に分けて収録されたのかは知らないが、これに客席を撮影するカメラが入るから五台以上は用いられているだろう。
このうち、特に注目したいのは高座のすぐ下からあおるように撮影している上座下座の下からのアングルだ。それはちょうど、最前列に陣取った子供の目線でもある。この、通常の落語の収録では用いられないアングルからの撮影によって、「時うどん」の物語は思わぬ効果をあげていた。
その一つが、兄貴分が銭を払う場面、「時うどん」の鍵となる場面だ。兄貴分が小銭を八つまで出して「うどん屋、いまなんどきや」と尋ねる。うどん屋が「へえ、九つでんな」と答えると、ここでアングルは上座の下から兄貴分の所作をとらえる。兄貴分の腕は、下に向かって、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六と景気よく銭を繰り出す。見えない銭はちょうど真下から観ている子供(そしてカメラ)に向かって落ちてくる。実は銭勘定をごまかしている場面なのに、まるでこちらに向かって贈り物を降らせているように見える。思わず兄貴分にうっとりしてしまう。うっとりしてしまう気持ちが、弟分の気持ちに重なる。
そしてもう一つの場面が、次の夜、弟分がいよいよ銭を払うところだ。弟分はこの見せ場が来たことの嬉しさが抑えきれなくなり「えへへへえ、いよいよや、いよいよや〜」というのだが、カメラはこの「いよいよや〜」で切り替わり、客席を見渡す笹野高史の顔の動きを、下から捉えている。このとき、あちこちから笑いが起こるのだが、その笑いは、観る者にとって、まるで後ろから聞こえるように感じられる。それはカメラが、子供の視線を借りているからだ。おそらく子供は、この物語のおもしろさを、正面にいる噺家からだけでなく、自分の頭上を越えて後ろを見渡す噺家の視線の先から視覚的に感じ、最前列にいる自分の背中に響く笑いから聴覚的に感じているのである。これらカメラ位置の生む笑いのサラウンド効果によって、銭勘定を待ちかねて嬉しさを漏らす弟の感情は、寄席全体を包むだけでなく、テレビの前の観客すらも包んでしまうのだ。
こうした演出によって、この噺の弟分の視点は、噺をきく子供の視点と重なり、兄貴分に対する弟分のあこがれは、噺に対する子供のあこがれと重なり、さらにはこのような場を生みだしている寄席に対する子供のあこがれと重なった。それは、物語の主人公である藤吉が寄席に対して抱くあこがれでもある。これらの幾重ものあこがれが、この場面に落語の高座とは異なるドラマとしての高揚をもたしていたと言えるだろう。
『時うどん』にこめられたあこがれは、明らかに、『わろてんか』の主人公であるてんと藤吉のそれぞれの幼少時代のあこがれと重ねられるべく作られたものだろう。それは、文鳥師匠に高座を頼んだときの藤吉の語りにも現れている。藤吉は自分が子供の頃いかに文鳥師匠の落語を愛していたかを語ろうとして「時うどん」の所作を真似る。この真似が、よく知られている銭勘定の件ではなく、「ひっぱりなー!」の所作を真似たのはよかった。この所作では、袂を右手ではたくときの、ぱん、というほがらかな音が実に楽しく、いかにも子供が真似たくなるものなのだ。それに、「ひっぱりなー!」の場面は先に述べたように、弟分の兄貴分へのあこがれを示すものであり、それは藤吉の文鳥師匠へのあこがれを表す場面としてふさわしい。
惜しむらくは、この場面にいたるまでのこのドラマの筋運びにその落語へのあこがれが不足していることだ。もし、この文鳥師匠に対する藤吉のあこがれが、もっと早い段階から丁寧に描かれ、日頃の彼の所作や作業の中に落語からの影響が表現されていたなら、藤吉の噺に反応する表情にはもっと奥行きが出たことだろう。残念ながら、藤吉の落語熱は、この数回、文鳥師匠の登場に合わせるかのように急に語られ出したので、初回から観ている者にとっては、いままで落語にさしたる執着を見せていなかった藤吉の豹変ぶりは、いささか違和感を感じさせるものだった。文鳥師匠の「時うどん」に合わせて唇を動かす藤吉のカットも、どこかとってつけたようだ。てんの幼少期の落語の思い出も、落語を楽しむ人を見て笑いに目覚めたというよりも、むちゃくちゃになった高座を見て笑う人を目の当たりにしたというもので、この場面にはそぐわない。このドラマでは登場人物の振る舞いがしかるべき来歴を持っていないことが多いのだが、それについては、すでに何度も書いたのでこれ以上は書かない。
ともあれ、笹野高史による「時うどん」の場面は、噺の選び方といい、見せ場の切り取り方といい、演出といい、これまでの「わろてんか」の中でも最も心動かされるものであり、落語がドラマの中でいかなる力を発揮しうるかを改めて考えさせられた。
追記:翌第8週ではこのエピソードは特に活かされることもなく、落語についても、文鳥師匠の問うた「寄席の色」についても、何ら語られることはなかった。実にもったいない。第9週以後、私は視聴をやめてしまった。(2017.11.28)