ブンガワン・ソロ、小舟のゆくえ/崎山理『ある言語学者の回顧録』

 崎山理先生から『ある言語学者の回顧録』(風詠社)をお送りいただいた。崎山先生とは五年ほど勤務先でおつきあいしたのだが、論考をまとめて読ませていただき、言語人類学の広大な世界の楽しさに改めて気づかされた。マダガスカルの歴史的経緯と言語学が交錯する湯浅浩史先生との対談、言語の十字路と行き止まりを考察する片山先生との対談も楽しい。

 島の文化や言語には十字路型(回廊型)と行き止まり型がある、とするのは片山論なのだが、崎山先生はそれを受けて、イギリス英語を、古フランス語の影響を受けたゲルマン語、すなわち行き止まりにおける言語要素のたまりとして論じる。われわれがいまやリンガ・フランカとしている言語も、もともとは「行き止まり」の産物なのかもしれない。

 はたまた、オーストロネシア語(南島語族)の時間感覚については、「基本はアスペクト」、すなわち、その状態が続いているかどうかを中心に考える言語であるという。つまり「人間生活が中心にあり、そこでどういうふうに時が経過し、進行し、終了するかという意識に基づいて」おり、そこが客観的物理的な基準で判断する時制の言語とは異なっている。オーストロネシア語では時、分ということばが借用語となっているのがその証拠。
 ただし、自然界からの情報として、星や星座を利用する「星座歴」が用いられる。「真上を南中する星の、朝大洋の昇る直前に東の空で輝く、それを目印にしているのです。ミクロネシアでは、最近までその知識が残っていました」。

 この話を受けて片山先生は「月よりも星を大事にする社会というのは、島社会なんでしょうね。星というのは、水平線を出て、水平線に沈まないと意味がないわけで、中途半端な山の上から出てきて山の上に沈んでもあんまり意味がないですからね」と応じる。楽しい対談。

 あとがきに、ブンガワン・ソロの原文に基づく歌詞訳が載っていた。この曲は「グサン作詞・作曲」としてよく知られているのだが、美空ひばりの歌うバージョンをはじめ、日本で流布しているさまざまな「ブンガワン・ソロ」の歌詞は実際のグサンの詞とは異なることが多い。崎山先生の訳はこうだ。

 ソロ川よ、君の生い立ちは以前から人々の関心事だ。乾期は水がさほどでもないが、雨季には水が溢れて遠くまで達する。千の山々に囲まれたソロの源泉から水が流れ出て遠くまで達し、遂に海へ。あの舟はソロ川の生い立ちを物語る。商人がいつも舟に乗っている。(崎山理訳)

 「最後に海と合流した川はその存在が消えてしまうのでなく、小舟に変身し(men-jelma) 商い人が日々利用すると見た」ところにこの歌の「ジャワ的思考」があると崎山先生は指摘する。

 川の記憶を保ちながら大洋に出て、星に導かれ、南赤道海流にのって遠くマダガスカルまでぷかぷか進んでいく小舟。読みながら、そんな幻想も浮かんだ。