昨日から一日一話ずつ、『カーネーション』を見直すことにした。
一気に観てしまってもいいのだが、そうすると一週間の呼吸を感じ取りにくくなる。
実際、50話まではこの二週間くらいかけて間欠的に観て来たのだが、あまりの楽しさに一息に見たので、「朝の連続テレビ小説」の気分を受け取り損ねているような気もした。
それで、51話からは、放映時の季節と合わせて、毎朝15分だけ観て、仕事への道すがら、その15分を揺らしながら考えようと決めた。
ここには、そのメモを書き留めておく。こういうことは「あまちゃん」のときもやったのだが、あれはちょっと頑張り過ぎたので、もう少しメモらしく断片的な形で。
昭和15年。昭和9年の勝との祝言以降、ドラマは一回ごとに時間をアップテンポで進めていくのだが、その変化は画面に巧みに表されている。たとえば今日は、菓子屋だった。小さい頃から食いしん坊の糸子が通ってきた菓子屋の棚やガラス箱ががらんどうで、木箱の片隅に大福が置いてあるだけ。この場面ひとつで、昭和15年の雰囲気が出る。「国民から栗饅頭をとりあげるようなみみっちいことで、ニッポンはほんとうに戦争なんか勝てるんか?」糸子はいぶかしがる。
この菓子屋に足りないのは、菓子だけではない。勘助がいないのだ。店番をしていた勘助の不在が、がらんどうの棚から立ち上がってくる。
勘助は前々回の昭和12年、盧溝橋事件の年に兵隊にとられた。この年号はいろいろ暗示的だ。
この回ではこうした時局の変化と並行して、幼い直子の暴れっぷりがあちこちで表現されている。まず子守を頼まれた吉田のおばちゃんは前掛けをどろどろにして戻って来て、「どこの猛獣連れてきたんやちゅうほど、家ん中ぐっちゃぐちゃなってしもたわ」と言う。夜中には鉢植えを倒してあちこち這いずり回っている。
中でも印象的なのは、生地屋の大将に言われて直子のおもりをした子だ。
この、名前のわからない子は、戸口に立って「大将にいわれて、おもりしやったんやけど直子ちゃんがなんぼ言うてもうちのおさげひっぱってくるし、ひっかいてくる…」と訴える。彼女が登場するのはこのワンシーンだけなのだが、その個性的な顔立ちが妙に印象に残る。それは演出のせいだ。カメラは台詞の間、糸子の後ろから彼女の悲しげな表情をきちんととらえるように撮っている。さらに次のカットではせりふに出てくる「おさげ」や直子にひっぱられたらしい袖の破れ、泥で汚れた衣服の様子も映している。つまり、「猛獣直子の犠牲者」としてこの子の姿がくっきりと視聴者の目に止まるよう、演出が行き届いているのだ。こんな風に、通常のドラマでは端役として簡略に扱われかねない人物も印象に残るように描いているのが、『カーネーション』のぐっとくるところだ。