記憶は街に留まる:「おちょやん」の「カチューシャの唄」

 12月18日(金)の「おちょやん」での、カチューシャの唄のシークエンスはすばらしかった。ちんどん通信社の演奏からサキタハジメによるアレンジに引き継がれながら、途切れることのなく、複数の別れを縫い合わせていく、一幅の音楽劇。

 高城百合子は旅立とうとしている。道頓堀の街、幟がはためくなか芝居客が通り過ぎ、物乞いは通りに留まって行き交う人々に頭を下げている。
 百合子は歩きながら、もはやこの通りの風景にはないなにかを思い出そうとしている。その背後で、まるで百合子の行おうとしていることに気づいた妖精たちのように、チンドン屋が様子をうかがい、演奏を始める。百合子が振り向くと、目前で、青木美香子の唄が始まり、ありありと記憶は色づき始める。記憶は音を奏でながら、時間に囚われたようにうねうねと歩き出す(このときの林幸治郎のすっとした表情と足取りがすばらしい)。ちんどんと唄は、別テイクで録音されているのだろう。音楽家たちの所作と音楽は少しずれている。けれど、それがかえって夢のような効果をもたらしている。クラリネットの指使い、太鼓のバチが音を鳴らしているのではない。それらを操る人の所作が、魔法のように音楽を生み出しているのだ。
 ちんどんは蛇行する。百合子はまっすぐ歩く。記憶と人とのあいだに、次第に距離ができる。百合子は音楽を背中でききながら遠ざかっていく。

 太鼓の調子が変わり弦の響きが加わると、それを合図に音楽は別の記憶を呼び覚ましに行く。芝居茶屋では、お茶子たちが、組見の芝居客を忙しく接待している。酔客の一人がふと遠い誰かに呼びかける。「おい、よしお、おまえなんか歌え、きいとるのか、よしお」。千代ははっとする。幼いヨシヲの顔が浮かぶ。ヨシヲは泣いている。ヨシヲの別れの姿。無言のヨシヲの代わりに、「カチューシャの唄」が再び始める。カチューシャかわいや、別れの姿。歌声の主を探して千代が振り返ると、ヨシヲとは似ても似つかぬ男が、ふらふらと立ち上がって、ただ「アホウ」と言う。立ち上がった記憶から遅れてぬっと現れる現実のような、一瞬のMr.オクレの姿。

 唄の続く間に、シズと延四郎は神社でなごりを惜しんでいる。別れ際に、シズは気持ちのこもった声で「お健やかに」と言う。その「健やか」ということばが、どんな風に思いがけず延四郎の感情を打ったかを、シズはまだ知らない。

 カチューシャの唄の順番は少し変更されている。本来は四番の歌詞が三番に、三番の歌詞が四番に入れ替わっているのだ。そのおかげで、千代がヨシヲの幻を見たあとには「つらい別れの涙の隙に/風は野を吹く ララ 日は暮れる」となり、シズと延四郎の別れの場面では「せめて又逢うそれまでは/同じ姿で ララ いてたもれ」となる。このちょっとした変更によって、ドラマと歌詞の間には微妙な綾がもたらされている。

 そして、ドラマで歌われなかった五番の歌詞はこうである。

 カチューシャかわいや わかれのつらさ
 広い野原をとぼとぼと
 一人出て行く ララ 明日の旅