また、必ずここに、戻ってまいります:「おちょやん」の演技と演出

12/24(木)

 12月24日のラストはしびれるような演技と演出だった。一平の台詞、「また、必ずここに、戻ってまいります」が、どういうわけか、千代のことばとして響いて胸に迫ってきた。まだ物語は序盤で、戻るも何も、千代は役者にすらなっていないのに。なぜだろう。

 天海天海一座の楽日、一座の主役、千之助が出ていってしまった。しかも女中役の漆原が腰痛で出演不能になってしまう。一平は千之助の役をやることになり、たまたま居合わせた千代は芝居経験もないのに、急遽、女中の役をあてがわれる。

 もし千代が、「ガラスの仮面」のマヤの如く生来の天才役者であったなら、この場面で、お茶子をやりながら諳んじていた台詞をすらすらしゃべって、客をうならせたことだろう(実際、「ガラスの仮面」の愛読者でもあるわたしは、そういう展開を一瞬予想した)。けれど、事はそううまくは運ばなかった。千代には、物語のなかの女中が、まるで自分のように思えて、女中と自分がいっしょくたになってしまって、気がついたら「いやや!うちはどこにも行きとうない!」と叫んでいた。「岡安にいてたいんや!」もう役なのか自分なのか、区別がつかない。客はしずまりかえっている。

 舞台が終わり、千秋楽の挨拶で、千代はなぜか一平の隣に座らされる。天晴は、一座を代表して、一平に挨拶をまかせる。そんな段取りは打ち合わせにはなかった。挨拶をどうしようかと考える一平を、千代はじっと見ている。舞台には役者がずらりと並んでいるが、こんなに一平をじっと見ているのは天晴と千代だけだ。つい舞台前には、才能のない自分を自嘲するようだった一平が、絞り出すように言う。

「また、必ずここに、戻ってまいります」

 そう言って一平が頭を下げるショットで、わたしはやられてしまった。その瞬間、千代が、まるで一平と呼吸を合わせるように、一座の誰よりも早く、深々と頭を下げたからだ。お茶子で鍛えた客商売の反射神経だろうか。いや、おそらく千代は、一平のことばに、感応してしまったのだ。また、必ずここに、戻ってまいります。一平のことばが、どういうわけか、まるで自分のことばに思えて、一平と自分がいっしょくたになってしまって、気がついたら頭を下げていた。

 千代が顔をあげると、客の笑い顔が見える。どうしてみんな拍手をしているのだろう。涙が出る。これはただの別れの辛さの涙ではない。初舞台の高揚が千代を包んでいる。その高揚が、いましがた一平が訥々と発した決意のことばと重なり、自分のことばになっている。この先、何の後ろ盾もない。どこにも行きとうないのに、どこへとも知らぬところへ行かされてしまう。なのに、客席を見ているうちに、不思議な確信がわいてくる。自分はここに、戻ってくるに違いない。こんな風に、拍手を浴びに、ここに戻ってくるに違いない。涙が出るのに、笑みがこぼれてくる。

 拍手はまだ続いている。

記憶は街に留まる:「おちょやん」の「カチューシャの唄」

 12月18日(金)の「おちょやん」での、カチューシャの唄のシークエンスはすばらしかった。ちんどん通信社の演奏からサキタハジメによるアレンジに引き継がれながら、途切れることのなく、複数の別れを縫い合わせていく、一幅の音楽劇。

 高城百合子は旅立とうとしている。道頓堀の街、幟がはためくなか芝居客が通り過ぎ、物乞いは通りに留まって行き交う人々に頭を下げている。
 百合子は歩きながら、もはやこの通りの風景にはないなにかを思い出そうとしている。その背後で、まるで百合子の行おうとしていることに気づいた妖精たちのように、チンドン屋が様子をうかがい、演奏を始める。百合子が振り向くと、目前で、青木美香子の唄が始まり、ありありと記憶は色づき始める。記憶は音を奏でながら、時間に囚われたようにうねうねと歩き出す(このときの林幸治郎のすっとした表情と足取りがすばらしい)。ちんどんと唄は、別テイクで録音されているのだろう。音楽家たちの所作と音楽は少しずれている。けれど、それがかえって夢のような効果をもたらしている。クラリネットの指使い、太鼓のバチが音を鳴らしているのではない。それらを操る人の所作が、魔法のように音楽を生み出しているのだ。
 ちんどんは蛇行する。百合子はまっすぐ歩く。記憶と人とのあいだに、次第に距離ができる。百合子は音楽を背中でききながら遠ざかっていく。

 太鼓の調子が変わり弦の響きが加わると、それを合図に音楽は別の記憶を呼び覚ましに行く。芝居茶屋では、お茶子たちが、組見の芝居客を忙しく接待している。酔客の一人がふと遠い誰かに呼びかける。「おい、よしお、おまえなんか歌え、きいとるのか、よしお」。千代ははっとする。幼いヨシヲの顔が浮かぶ。ヨシヲは泣いている。ヨシヲの別れの姿。無言のヨシヲの代わりに、「カチューシャの唄」が再び始める。カチューシャかわいや、別れの姿。歌声の主を探して千代が振り返ると、ヨシヲとは似ても似つかぬ男が、ふらふらと立ち上がって、ただ「アホウ」と言う。立ち上がった記憶から遅れてぬっと現れる現実のような、一瞬のMr.オクレの姿。

 唄の続く間に、シズと延四郎は神社でなごりを惜しんでいる。別れ際に、シズは気持ちのこもった声で「お健やかに」と言う。その「健やか」ということばが、どんな風に思いがけず延四郎の感情を打ったかを、シズはまだ知らない。

 カチューシャの唄の順番は少し変更されている。本来は四番の歌詞が三番に、三番の歌詞が四番に入れ替わっているのだ。そのおかげで、千代がヨシヲの幻を見たあとには「つらい別れの涙の隙に/風は野を吹く ララ 日は暮れる」となり、シズと延四郎の別れの場面では「せめて又逢うそれまでは/同じ姿で ララ いてたもれ」となる。このちょっとした変更によって、ドラマと歌詞の間には微妙な綾がもたらされている。

 そして、ドラマで歌われなかった五番の歌詞はこうである。

 カチューシャかわいや わかれのつらさ
 広い野原をとぼとぼと
 一人出て行く ララ 明日の旅