畠山直哉展『ナチュラル・ストーリーズ』(東京写真美術館、2011年12月4日)

畠山直哉展『ナチュラル・ストーリーズ』(東京写真美術館、12月4日)

 ここから歩み去ろうとする人がいる。写真家はカメラの前にとどまっている。その人とこことの間に、侵すことのできない領域が広がりつつある。ここは、写すことによって生まれつつある領域の縁(ふち)、人と人との縁(ふち)。その人は瓦礫を踏んで行く。陸前高田市で撮影された写真だという。

 畠山直哉の写す雲に、はっきりとした縁がある。それはそれは、ターナーの描くような、画面を覆う蒸気ではない。雲の発生する縁に力は偏在している。そこは今起ころうとしているCatastropheの成長点だ。Cataphileの眼は、広がりつつある不可侵の領域に魅入られている。地下の洞窟で、スレートが剥がれ落ちる。一つの層が、地層の拘束力から剥がれて、層の形をまとったスレートとなって崩れてゆく。わたしもまた、ひととき、この世に剥がれ落ちるように生まれ、二本の足で転がり、層の上を歩き回っている。この地面もまた、見えない活動の成長点として形成された。わたしは、その縁に危うく偏在している遍路。

 写真に写された水の領域を前に立ち止まる。そこにもまた縁/淵がある。窪地とは力が加えられた跡、そこに水が貯まっている。水は、人が意識せずにいた土地の凹凸を感知し、貯まり、眼に見える鏡となり、空を映しとる。空は人の及ばぬ場所、その空を地に映すことで水は人を払う。人払いされた水の領域の縁/淵が、写真に写し取られている。

 地面の活動によって山が生じる。生じた山の頂に、小さな人が写り込んでいる。それは、山を征服した人というよりは、そこに縁を見つけた人、力の危うい平衡点を発見した人に見える。写真は、それじたいがひとつの平衡点の産物だ。くっきりとした輪郭を写し出すために、一点に据えられ、露光のあいだの短いひとときの平衡を得たこと、それが写真の伝えていることだ。眼前で雲が成長し、力が広がりつつあり、しかもなお、写真は平衡点にとどまっている。そのような縁が写真の画面となって壁にかけられている。写真のこちら側に、人の居ることのできる場所が生じる。写真の前に人は立ち、立つことでそこは縁になる。

 写真に近づく。山腹の暗がりと思われた手前の領域に、ひっかいたような樹木の枝が微かに写し込まれているのがわかる。写真の層に埋め込まれたものたち。そこからかろうじて剥がれ落ちてくる階調の層を、わたしは見ている。てくてく歩きながらこの館を経巡っている。

 ひとけのない場所の前に人が立つ。そこに縁が生じる。雲の縁が空気の力を表し、水の縁が地の力を表すのとは別のやり方で、人は場所の前にひとり立つことで、そこに縁があることを表す。

 やはり陸前高田市で撮影された一枚の写真の中で、一人の女性が、川辺でカメラを構えて立っている。女性はその縁で、あたかもそこに小さな居場所を見つけたかのように、自然にカメラを構えている。その小さな居場所、縁を、写真家は自らなぞるように写し取っている。二人はまるで、あちらとこちらで並んでいるようだ。

 

(2011年12月4日『車内放送』号外「縁(ふち)」を改訂/2011年12月31日 ブログ”Fishing on the Beach”に掲載)