阿部青鞋の句/「ひとるたま」から(6)

悲しみは我にもありとむかでくる

阿部青鞋『ひとるたま』より。

 「我に『も』」と言う以上は、事前に悲しみにひたる人がいたり、悲しみに関する思考なり語らいがあったはずなのだ。その感情や思考や語らいの最中に、まるでお呼びでないはずのむかでが、「我にもあり」とやってくる。たくさんの足をぞろぞろ動かしながら。おそらく足の数だけ、足の動きだけ悲しみがあるのだろう。いや、もしかしたらむかでにはむかでなりに、もう少し繊細な悲しみがあるのかもしれないが、そんなに足をいっせいに動かされては、もう足なのだと思うしかない。たくさんの悲しみを動かし、たくさんの悲しみで歩いてくる。しかしこの悲しみたちはなんとなめらかにすばやくのだろう。わたしの悲しみはもうどこかへ行ってしまった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(5)

 螢火は螢の下を先づてらす  阿部青鞋『ひとるたま』より。

 先の評と異なるところから始めたい。というのも、この句を読み直して、わたしはまず「てらされた螢の下に入りたい」と思ったからだ。わたしはてらされていない。しかし極小の螢下空間はてらされている。それはちいさなちいさな虫の尻の下に過ぎないのだが、わたしはあえて、そこに潜りたい。忍び込みたい。そういう欲望を「先づ」は点火するのだ。なぜなら、読者である私は「先づ」に遅れるから。遠くで灯る火、自分が気づくよりも早くすでにそこで灯っている火を見るとき、わたしたちは吸い込まれるようにそこへたどりつきたいと思う。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニが坂を下っていくと、坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っているのを見つける。そのとき、ジョバンニはそこに「先づ」坂の下をてらしている街燈を見つけて、その街燈の下へどんどん下りていく。影ぼうしはどんどん濃くなる。ジョバンニのようにわたしも螢を見つける。わたしのためではないその光の下へわたしは下りていきたい。なんなら蛍雪の故事のごとく、その尻の下で本を読みたい。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(4)

螢火は螢の下を先づてらす

 阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。

 ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(3)

手の甲を見れば時間がかかるなり

 阿部青鞋『ひとるたま』より。暇つぶしならば、時間は「経つ」はずだ。けれど青鞋は、時間が「かかる」と書く。どうもこれは、単なる暇つぶしではない。むしろ何かに「取り組んでいる」のだ。しかし、たかが手の甲を見るくらいのことに人は「取り組む」だろうか。おそらく最初は、何の気なしに始まったのではないか。たとえばてのひらを見るように。しかし、いざ始めてみると、てのひらのようにはいかなかった。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手の甲について何か考えようとして手の甲を動かす。しかし変化といえば、手の甲に浮き出した骨が、指とともにその浮き方をわずかに変えるくらいで、なかなか手の甲は正体を現さない。気がつくと、本格的に「取り組んでいる」。手の甲をどうにかしてやりたい。指に隷属する動きではなく、手の甲自体に手の甲の意志を浮き立たせるような積極的な表現を持たせてやりたい。そんな親心をよそに、手の甲はただわたしの年齢並みの皺やらがさつきやらを纏っているばかりだ。たぶん、わたしの顔も、いま、手の甲のようになっている。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(2)

 要するに爪がいちばんよくのびる

 阿部青鞋『ひとるたま』より。「要するに」でまずぎょっとする。要するに、とは急ぎのことばであり、要されてしまった以上この句は最後まで一気に速く読まねばならない。速く読み終えてから、なんだったのだろうともう一度読み直す。爪がいちばんよくのびる。何も難しいことは書かれていない。いないのだが、「いちばん」というのが気になる。いちばん、という結論を出すための比較や思考が要するに要約されているからだ。何と比べられ、爪が残ったのか。爪がナンバーワンだとして、ナンバーワンにならなかったものはなにか。髪か、睫毛か、産毛か、鼻毛か、はたまた陰毛か。ああ毛しか思い浮かばない。わたしたちは毛しかのばすことができないのか。いや、人体から離れよう。植物ならいくらでものびるし、みるみる育つ。わたしは最近、スーパーで豆苗を買ったのだが、こいつはスポンジに植わった豆ごと売っており、ハサミでじょきじょきと苗の部分だけ切ったあと豆に水をやると二週間ほどでまた食えるほどの大きさになる。じつによくのびるではないか。勤務先では今日も草刈りが行われたが、その刈られた草の隙間からさっそくミントの小さな芽が新しい陽当たりを得て顔をのぞかせていた。かように、のびるものはいくらでも思いつく。思いついてから、じっと手を見る。手のひらではない。手の甲だ。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手のひらは皺を寄せたりのばしたり、実に表情が豊かなのに、なぜ手の甲は無愛想なのか。動かしても動かしても、骨がひくひくと移動するだけだ。ふと爪が目に入る。そうか。爪はもっと無愛想だ。動かしても動かしても形が変わらない。やはり爪だ。爪は甲より自由にならぬ。そして爪は毛よりのびる。要するに爪がいちばんよくのびる。

 かくしてこの文章はようやく要するだけの長さを得た。得たのだが、これでもまるでこの句に書かれなかったことを言い当てた気がしない。この句には、宇宙マイナス爪の虚が広がっている。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(1)

 最近、佐藤文香さんから阿部青鞋(あべせいあい)を教えてもらい、句集を何の気なしに開いたら、一句一句、ただならぬおもしろさで、しかもこれほど視点の自由な句を作る人が大正三年の生まれと知り、驚いてしまった。阿倍青鞋の句集『ひとるたま』(現代俳句協会/昭和五七年)はなかなか手に入らないそうなのだが、一冊譲っていただいたので、この機会に少々思いついたことを書いておこうと思う。

 

 笹鳴のふんが一回湯気をたて

 

 『ひとるたま』の最初の句。もうこれだけで、わたしはやられてしまった。

 警戒心の強いうぐいすを、作者は野外で目撃したのだろうか、あるいは飼っていたのだろうか。うぐいす、というだけでも小さいが、ホーホケキョではなく「笹鳴」ということばがなんともささやかで、いっそうその主体は小さく細く感じられる。その、チャッチャとささやかな笹鳴をする生き物からさらにささやかなふんが出る。冬の冷たい空気にさらされて湯気がさっと立ち、消えてしまう。まるでその笹鳴にも小さな体温があることを示すように。

 鋭い観察眼、というだけでは済まない。作者はこの一瞬を見逃さなかったばかりでなく、その間、うぐいすに気取られなかった。よほど気配を消していたに違いない。自身の気配が消滅した空間に、針のような湯気がさっと立つ。その態度が読み手を澄ませ、読み手に小さな温度を灯す。しかも、この繊細な温度をもたらしたのは、体外に排泄された「ふん」なのだ。うぐいすからもその鳴き声からも分かたれたただの「ふん」のこと、ある日ひり出されてすぐに温度を大気に預けてしまい、ほどなくその形もありかもわからなくなってしまっただろうほんのささやかな「ふん」のことを、読み手は忘れることができない。

ブンガワン・ソロ、小舟のゆくえ/崎山理『ある言語学者の回顧録』

 崎山理先生から『ある言語学者の回顧録』(風詠社)をお送りいただいた。崎山先生とは五年ほど勤務先でおつきあいしたのだが、論考をまとめて読ませていただき、言語人類学の広大な世界の楽しさに改めて気づかされた。マダガスカルの歴史的経緯と言語学が交錯する湯浅浩史先生との対談、言語の十字路と行き止まりを考察する片山先生との対談も楽しい。

 島の文化や言語には十字路型(回廊型)と行き止まり型がある、とするのは片山論なのだが、崎山先生はそれを受けて、イギリス英語を、古フランス語の影響を受けたゲルマン語、すなわち行き止まりにおける言語要素のたまりとして論じる。われわれがいまやリンガ・フランカとしている言語も、もともとは「行き止まり」の産物なのかもしれない。

 はたまた、オーストロネシア語(南島語族)の時間感覚については、「基本はアスペクト」、すなわち、その状態が続いているかどうかを中心に考える言語であるという。つまり「人間生活が中心にあり、そこでどういうふうに時が経過し、進行し、終了するかという意識に基づいて」おり、そこが客観的物理的な基準で判断する時制の言語とは異なっている。オーストロネシア語では時、分ということばが借用語となっているのがその証拠。
 ただし、自然界からの情報として、星や星座を利用する「星座歴」が用いられる。「真上を南中する星の、朝大洋の昇る直前に東の空で輝く、それを目印にしているのです。ミクロネシアでは、最近までその知識が残っていました」。

 この話を受けて片山先生は「月よりも星を大事にする社会というのは、島社会なんでしょうね。星というのは、水平線を出て、水平線に沈まないと意味がないわけで、中途半端な山の上から出てきて山の上に沈んでもあんまり意味がないですからね」と応じる。楽しい対談。

 あとがきに、ブンガワン・ソロの原文に基づく歌詞訳が載っていた。この曲は「グサン作詞・作曲」としてよく知られているのだが、美空ひばりの歌うバージョンをはじめ、日本で流布しているさまざまな「ブンガワン・ソロ」の歌詞は実際のグサンの詞とは異なることが多い。崎山先生の訳はこうだ。

 ソロ川よ、君の生い立ちは以前から人々の関心事だ。乾期は水がさほどでもないが、雨季には水が溢れて遠くまで達する。千の山々に囲まれたソロの源泉から水が流れ出て遠くまで達し、遂に海へ。あの舟はソロ川の生い立ちを物語る。商人がいつも舟に乗っている。(崎山理訳)

 「最後に海と合流した川はその存在が消えてしまうのでなく、小舟に変身し(men-jelma) 商い人が日々利用すると見た」ところにこの歌の「ジャワ的思考」があると崎山先生は指摘する。

 川の記憶を保ちながら大洋に出て、星に導かれ、南赤道海流にのって遠くマダガスカルまでぷかぷか進んでいく小舟。読みながら、そんな幻想も浮かんだ。

『ゴドーを待ちながら』/過去の意味を書き換える

 『ゴドーを待ちながら』の静かに狂ったおもしろさは、いったん気づき出すとそこかしこに発見できるのだが、それは一つの発話にあからさまに表れているというよりは、発話と発話の関係にさりげなく埋め込まれている。たとえば次の部分のように。

ウラディミール:ゴドーのところで働いているのかね?
男の子:はい
ウラディミール:君によくしてくれるかね?
男の子:はい
ウラディミール:君をぶたないかね?
男の子:はい、わたしをぶたないです
ウラディミール:誰をぶつのかね?
男の子:わたしの兄をぶちます
ウラディミール:ああ、お兄さんがいるのかね
男の子:はい

 ウラディミールの「誰をぶつのかね?」という発話がまずおかしいのだが、なぜおかしいかといえばそれは、「君をぶたないかね?」という発話を遡っておかしくさせるからだ。なぜ「君をぶたないかね?」があとから遡っておかしくなるかといえば、この質問は最初、単にゴドーがやさしいかどうかをきいているように聞こえるからだ。ところが「誰をぶつのかね?」から遡ると、「君をぶたないかね?」は突然、「ゴドーはとにかく誰かをぶつようなやつなのだが、それは「君」ではないのか?」という問いとして読み替えられる。

 そんな問い方は狂っている。狂っているのだが、男の子が「わたしの兄をぶちます」と答えるために、この狂った問いは図星だったことが明らかになる。しかも、ウラディミールは図星だったことには関心を示さず「ああ、お兄さんがいるのかね」とまるで別のことに注意を向ける。

 こんな風にベケットは、のちの発話から遡って前の発話の狂気を明らかにする。明らかにしておいて知らん顔をする。そういうことが『ゴドーを待ちながら』のそこここで起こっている。

 会話分析では当事者の発話を一行ずつ追うことで、ある時点でどのような未来が予測できるかということと、実際に未来にどのような発話がなされるかということを区別する。この、未来に対する厳格さは、分析ではわりあいよく意識されている。

 一方、過去についてはどうか。過去の発話の内容は変わることはない。しかし、ある時点の発話は、その都度、過去の発話の意味を書き換える。どの行(発話のどの部分)がどのように過去の発話の意味を書き換えたかに気づかなければ、会話の深さを十分に分析したとは言えない。とくにベケットの書く会話をたどるには。

ユリイカ「蓮實重彦」特集を読みながら

あ、ここもここも、とメモを取り、かつ一方で吉増剛造の自伝にインスピレーションを得ているというのは節操がないにもほどがあるのだが、そうなってしまう。この二人は全くことばに対する感性というものが違っているし、戦後の捉え方も違っているけれど、それを、相容れぬ思想の違いというよりは、人の来歴の違いと考えている。ユリイカの「蓮實重彦」特集を読みながら。島尾敏雄は正直長すぎて過去に何度もあきらめた。安岡章太郎の正直さには感じ入るところがあった。安岡章太郎はなんとか読み通すことがなんとかできる。しかし、実をいえば詩だけでも頭の中が音でいっぱいになってしまうのだ。

伊藤重夫『踊るミシン』新装版(青)のこと

 クラウドファンディングを経て出版された伊藤重夫『踊るミシン』の新装版を読んだ。伊藤重夫の絵は80年代にかけてあちこちで見かけているはずなのだが、マンガを読んだのは初めて。神戸の垂水が舞台になっていることも初めて知った。村上知彦氏の解説に『中国行きのスロウ・ボート』という一節があって、そうだ、80年代のぷがじゃの表紙に村上春樹の文章が載ったことがあったなと思い出した。

 一ページの中に複数の場面が割って入ってくる。それが速読を許さない。場所と場所、ことばとことばの配置がページの中で馴染むまで、目をそのページに止めなければ、ただとっちらかった印象を追うばかりになる。表題作を最初の20ページくらい読んでから、これは明らかに速く読み過ぎていると気づいて、いつもよりペースを落としてゆっくり読み直してみた。それでようやく、この作品の速さが分かってきた。遅く読まなければ速く見えない。不思議な作品だ。昨夜読んで、今日は鳥男の足もとばかりが頭に浮かぶ。