月: 2018年8月
アレサ・フランクリン、アトランティックでの曲の作り方
1967年からアレサ・フランクリンはアトランティック・レーベルに移った。アレサはコロンビア時代とは全く違うスタイルで歌い、”I Never Loved a Man”を皮切りに”Respect”, “Chain of Fools”, “A Natural Woman”など次々とヒット曲を連発する。その録音はどのように行われたのか。アレサのアトランティック時代のレコードのほとんどでプロデューサーをつとめたジェリー・ウェクスラーの自伝「Rhythm and the Blues: A Life in American Music」(共著者は、アレサ・フランクリンやマーヴィン・ゲイなど幾多の評伝を手がけているD. Ritz)から、アレサに関する話をいくつか訳出してみた。
アレサ版の「I say a little prayer for you」は、コーラスとの掛け合いが実に融通無碍で、「I say a little」とアレサが言ってからいちばん肝心な「prayer for you」のところをコーラスのスウィート・インスピレーションが歌うというアレンジになっているのだが、これがスタジオでのおふざけから生まれたというのもおもしろい。
(”I Never Loved a Man”を録音するにあたって)アレサは自宅のフェンダー・ローズで、曲のアウトラインをさらってきた。ピアノの前にアレサが座ること抜きで録音を始めるなんて考えられなかった。それが彼女の曲をオーガニックにしてるのだから。彼女はキーを見つけ、リズムパターンを考え、キャロライン、エルマか、あるいはスイート・インスピレーションのコーラスと曲を作った。
アレサはサザンスタイルの録音ではとても自然体に振る舞った。リズムのグルーヴとボーカルのパターンができあがったら、彼女自身によるスタジオ・ワークは終わりだと分かっていた。マッスル・ショールズに彼女を連れて行くのにちょっとだけ気がかりなことがあった。アレサとテッドをずらりと並んだ白人バンドに会わせるのはちょっと気が引けたのだ。そんなわけでわたしはリック・ホールに、ブラックのホーン・セクションを雇ってくれないか頼んでみた。メンフィス・ホーンズでもボウレグズ・ミラーからの選り抜きでもいい。人種をミックスすることもさることながら、ブラックのホーンを入れることである種の響きを出したかったのだ。ところがホールはうっかり全部を白人のバンドにしてしまった。アレサはどうしたかというと、無反応。案ずるに及ばず。彼女はピアノの前に座って、演奏するだけだった。
(中略。”I Never Loved a Man”を吹き込んだあと、ジェリー・ウェクスラーは、この調子でアルバムを一気に吹き込むつもりだったが、当時のアレサの夫でマネージャーのテッド・ホワイトとリック・ホールとが喧嘩になり、テッドとアレサはニューヨークに帰ってしまう。結局、このあとの録音は、マッスル・ショーズからメンバーをニューヨークに呼んで行われた。ジェリーはこの事件を、プロデューサーとして経験した最悪の事態だったとしている)
スタジオに入る頃にはピアノのパート、バックコーラスのパートはできており、キーも決まって手作りのグルーヴができていた。どの曲もアレサの気持ちにちかいものだった。彼女自身による曲はもちろん、彼女が心動かされたアーティストたちとのつながりを示す曲、サム・クックの「A Change Is Gonna Come」や「Drown in My Own Tears」(こちらはレイ・チャールズでヒットした)もそうだ。(中略)
このやり方はその後一年に二枚の割合で吹き込まれていくアレサのアルバムのほとんどで踏襲された。
(中略)
「I Say a Little Prayer for You」が吹き込まれたのはちょっと魔法のような幸運のおかげだ。休憩中にアレサと(コーラスの)スイート・インスピレーションたちは、コントロール・ルームでふざけあっていた。お遊びで,彼女たちはディオンヌ・ワーウィックのヒット曲をやり始めた。すべてのパートがあっといういうまにできあがって、これは試すまでもなくすばらしくのびのびしたレコードになるんじゃないかと思った。甘さ抜きのリズムセクションに合わせて、彼女たちはワンテイクで「I Say a Little Prayer for You」を取り終えた。
(”Rhythm and the Blues: A Life in American Music” by Jerry Wexler and David Ritz より)