螢火は螢の下を先づてらす 阿部青鞋『ひとるたま』より。
先の評と異なるところから始めたい。というのも、この句を読み直して、わたしはまず「てらされた螢の下に入りたい」と思ったからだ。わたしはてらされていない。しかし極小の螢下空間はてらされている。それはちいさなちいさな虫の尻の下に過ぎないのだが、わたしはあえて、そこに潜りたい。忍び込みたい。そういう欲望を「先づ」は点火するのだ。なぜなら、読者である私は「先づ」に遅れるから。遠くで灯る火、自分が気づくよりも早くすでにそこで灯っている火を見るとき、わたしたちは吸い込まれるようにそこへたどりつきたいと思う。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニが坂を下っていくと、坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っているのを見つける。そのとき、ジョバンニはそこに「先づ」坂の下をてらしている街燈を見つけて、その街燈の下へどんどん下りていく。影ぼうしはどんどん濃くなる。ジョバンニのようにわたしも螢を見つける。わたしのためではないその光の下へわたしは下りていきたい。なんなら蛍雪の故事のごとく、その尻の下で本を読みたい。