昔話は、いつ昔話になるのだろう。
最初の物語はたぶん、とても個人的なものだったに違いない。どこへいって、なにをして、どうなったか。いった理由もした理由もそうなった理由も、その人の来歴、その人の癖にまつわるものだったろう。それが無類におもしろく、かなしく、おそろしく、だから誰かに話さずにはいられなかったとして、けれど、その個人的な語りを、わたしは語り直す資格があるのだろうか。その来歴も癖も持ち合わせないわたしが、語り手と同じ情動をこの身に立ち上げ、わたしがきいたときの情動を他の誰かに立ち上げることができるだろうか。できたとしても、それは来歴も癖もない、空虚な語りではないだろうか。だとしたら、わたしの語りで情動を立ち上げてしまった人は、わたしの空虚に誘われるしかないのではないか。
それでもわたしは、わたしのきいたその語りを語り直してしまう。きいたわたしも語っているわたしもただの幻ではなかろうかとおそれながら。そのとき不思議なことに、わたしは物語から個人的な痕跡を抹消し普遍的な語りへと向かうのではなく、むしろ、わたしはわたしをまさぐりはじめる。体をもぞもぞと動かす。手で手を擦りはじめる。わたしではない誰かの動かしたからだをわたしに立ち上げるために、わたしのからだをわたしではない誰かのからだとして使い始める。わたしはわたしを上下させ、わたしでわたしを擦り、わたしではないわたしへとわたしを分かとうとする。そしてようやくわたしは、わたしではない誰かのことを、おずおずと語りはじめる。