映画「風の波紋」のこと

 年配の女性が一人、屋根の上で雪かきをしている。最近の人がよく使うスノーダンプではなく、彼女の体躯に見合ったスコップで。しかし、そのスコップにどっかり盛られた、けして軽くはないはずの雪を彼女が振り返りざまにあざやかに放るとき、そしてカメラが放られる雪を間近で捉えてその重さを表すとき、彼女の足腰のキレのよさはただならぬことがわかる。雪に割り入れられるスコップの音、投げられる雪塊のどさりという音が捉えられ、目だけでなく耳もまた、その所作に驚かされる。
 彼女は軒先の方を見て「あのハナサキまで」と雪堀りの範囲を言う。そうか、ここは雪深いだけでなく、突端を「ハナサキ」と呼ぶ土地なのだ。

 このように映画は、生活を説明することばを費やすかわりに、暮らしの中にいる人の所作をとらえ、その人のことばによってそこがどんな土地かを浮かび上がらせる。

 ことばは、カメラのこちら側に人がいなかったなら語られることはなかっただろう。しかしそのことばは、カメラのこちら側に聞こえがよしに放られているわけでもない。体を動かしながら、その動きに合わせてぱっと息を吐くように、そばにいる人に届くだけの声を出す。その声がドキュメンタリーのモノローグになっている。

 茅の中から一本の針がずぶりと現れる。突き刺されたその針の勢いにはっとすることで、観る者はここに突き刺す側と突き刺される側があり、突き刺された側は「もうちょっと下(しも)」と大声で答えることによって突き刺した側に針のありうべき位置を知らせるのだと知る。そして、茅葺き屋根を葺く作業には針を用いて茅を縛る作業があり、そのためには屋根の裏表に人が立ってこのような協働作業を行うことが必要だと知る。そこで起こっていることを映像の手がかりと、観るこちら側に立ち上がる民俗学的関心とによって、一挙に理解する。これは、映像による民俗学的記述ではないだろうか。

 束がくるりと一回転して刈った稲が結わえられる。ぎっちり縛った結び目に余りを割り入れる所作から、束ねられた茅の意外な固さを知る。茅の束を打ち込む槌音の高さから、茅葺き屋根の固さがわかる。

 まず所作のあざやかさに目と耳が惹かれ、そこから行われる作業の意味に気づく。交わされていることばから、そこで用いられる語を知る。「風の波紋」の民俗学は、そんな順序を踏む。

 権兵衛さんという人がはじめて画面に現れたときにも、そこで起こっていることが何かを察するより早く、まずこの人の所作に魅了された。権兵衛さんは、雪かきをしているボランティアの羽鳥さんに声をかける。そのとき、権兵衛さんは、スノーダンプから雪をおろす手つきの違い、水平の場合、垂直の場合の違いを あざやかに対比してみせたのだ。こうすっと持っていかれっから、身を。こうだよ。「身を持って行かれる」という言い方があるんだ。そして、この人はなんて豊かな動作を持っているんだろう。

 そう思ったら、続く場面で、権兵衛さんは、「田植え職人」の所作とそうでない人の所作とを、これまたあざやかにやってみせた。見えない苗を口に一束、二束くわえて、目にも止まらぬ速さで植えてから口から次の苗をとるしぐさ。それから今度はそれと対照的な、一束一束を植えていく非職人のゆっくりとした動き。じつはことばとしては語られないけれど、その非職人のゆっくりとした植え方こそは、この映画の主たる語り手でもある木暮さんの植え方なのだ。
 そのゆっくりとした、しかし確かな植え方を、映画は何度もとらえている。終盤近く、木暮さんは自身の田植えを「しょせんニセモノだからね」と自嘲しながら、それでも「私のキャンバスのようなもんだから」と苗を植え続ける。権兵衛さんによって実演される速さも木暮さんの遅さも、この土地の田植えのあり方なのだ。

 一つ、とりわけ印象に残っている場面がある。雪深い山をかんじきを履いて歩いて行く茸狩りのシーンだ。
 深く積もって凍った雪は、地上からは届かない、縦横無尽の渡りの空間を広げる。地上の人の手が及ぶことのないその高さに、ヒラタケがあちこちシグナルのように生えており、一行は凍ったそれをぽきぽきともいでゆく。
 カメラはふと一行から離れ、彼らの雪渡りを上から俯瞰する場所に留まっている。突然、画面をウサギが横切る。その、広々とした雪上を渡っていくウサギの軌跡、そしてウサギめがけてすばやく放られる鎌が虚しく雪にささるさくりという音の遠さといったら! 
 この映画の冒頭では、宮沢賢治の「雪渡り」の寸劇が演じられる。わたしは長いこと、「雪渡り」のことを幻燈会の童話だと思っていたけれど、そこで記されている「すきな方へどこ迄でも行ける」というのがほんとうはどういうことなのか、じつはこの映画を観るまで知らなかった。広々とした雪原に点在するヒラタケと駆け抜けるウサギと放物線を描く鎌。この場面によって、賢治の「雪渡り」のイメージはすっかり新しくなった。

 ここに記してきたことは、まだまだ、この映画の魅力のごく一端に過ぎない。震災をはさむ、五年に及ぶ長い撮影期間のあいだに起こったいくつもの何気ない奇跡の瞬間が、この映画には詰まっている。とても書き尽くすことはできない。

 ただし、どの一瞬にも、これ見よがしに迫ってくるような押しつけがましさはまったくない。はじめに記した年配の女性は、雪堀り(雪かき)が一段落すると屋根の上でせわしなくタバコをふかしはじめる。その所作によって、先ほどまで感じられていた雪の重みがふいに煙の軽さになったようで、そして彼女はまるでタバコをふかす場所をこしらえるためにあんなに力強くスコップを振るっていたかのようで、会場のあちこちから笑いが起こった。
 迫力のある映像、しかめつらしい深刻さを連ねる代わりに、見る側にスコップの雪のようなユーモアを放り、その雪の一撃でこちらの感度を研ぎ澄まさせる。そこに、人それぞれの暮らしの陰影が自然と浮かび上がる。『風の波紋』のユーモアは、そのような機知に満ちている。

 これは現代の「北越雪譜」ではないだろうか。

(細馬宏通: 2016.4.16に記したものを再掲)