アニメーションの中のアニメーション:「映像研」の中の「コナン」 text = 細馬宏通

 大童澄瞳のマンガ「映像研には手を出すな!」がアニメーション化される。そう聞いて真っ先に気になったのは、この作品のクライマックスがどう描かれるかだった。
 「映像研」の原作のおもしろさは、元来は奥行きと動きを欠いた紙のメディアの上で、空間を作ること、動かすことへの飽くなき欲求が描かれている点にあった。通常は二次元で描かれる吹きだしにパースを付け、マンガの声にまで奥行きを付ける試み。主人公浅草みどりの頭の中のできごとが、金森さやか、水崎つばめとのやりとりによって見開き図解と化す、のび太とドラえもんのやりとりが拡張したかのような展開。そしてクライマックスは、出来上がったアニメーション上映の場面。マンガが平面であるからこそ、読者はマンガに埋め込まれた手がかりをもとに、そこに空間を穿ち、そこに描かれているアニメーションを想像する愉しみを得る。
 この原作の魅力をどうアニメ化するのか。アニメ版は、本体自体がすでにしてアニメーションなのだ。アニメーション本体と制作されるアニメーションとはいかにして区別されるのか。アニメの中でアニメを鑑賞するということは、興奮できる体験なのか。
 疑念は杞憂に終わった。アニメ版の中で映像研の作るアニメーションは、どれもいままで観たことのない斬新なものだった。第一作「そのマチェットを強く握れ!」、第二作の「ロボット研」の宣伝用アニメ、そして第三作「芝浜UFO戦争」、いずれもが設定の説明をほとんど省略し、異世界の論理で動いている異人をそのまま見せられるような怪作だった。中でも「芝浜UFO戦争」は「大宇宙の中で温泉につかる」というコンセプトのもとに、戦闘場面とはおよそほど遠い音楽(オオルタイチによるすばらしい作曲!)が付けられ、夢の中で夢をまさぐるような色彩、輪郭、動きによって全編が描かれていた。
 ふと、アニメ版第一回、幼い浅草みどりがアニメーションの魅力に目覚める場面を思い出した。原作では、浅草みどりは「未来少年コナン」を見て、そこに拡がっている「広い広い冒険の世界」に圧倒され、「アニメを作る人」を意識する。一方、アニメ版では、それは「残され島のコナン」というタイトルに変更され、「未来少年コナン」をより淡くくすませて輪郭線を消すことで、まさしく夢の中で夢をまさぐるような映像になっていた。「残され島のコナン」が、アニメの中で表現された「未来少年コナン」だったのだとしたら、「マチェット」や「ロボット研」や「芝浜UFO戦争」もまた、アニメの中で表現されたアニメだったはずだ。では、それらは実際にはどんな映像だったのだろう? かくしてわたしは、アニメに埋め込まれた色彩、輪郭、動きをもとに、アニメーションを想像する愉しみを得たのだった。

 

(「ビッグコミックオリジナル」2020年9号「オリジナリズム」掲載)

おそいんだよ (It’s too late) by Carole King

ずっとベッドん中なんだ朝は
調子がわるいのは否めないんだ
わたしたちのどっちか
いや二人で投げだしてんだ
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか

がごまかせない

きみと過ごした日々はらくちんだった
明るくさわやかな暮らしだった
いまはきみは暗い顔で、わたしバカみたい
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか

がごまかせない

 
いつかよくなるかもしれない
でも一緒には住めない、そう思うでしょ
それでもよかったよ二人で、きみを愛したことも
 
そうおそいんだよ、ベイビー、もうおそいんだよ
どうにかしたいとくらいついても
胸のなか死んだなんか
がごまかせない
 
(試訳:細馬)

ZOOMでELANの映像・音声をシェアする

 オンラインの演習を行うとき、悩ましいのが、映像と音声の同期だ。とくに映像分析や相互行為分析では、コンマ何秒の同期が問題となるため、相手に映像と音声をよいタイミングで送信しなければならない。

 ZOOMのような配信ソフトを介して、動画やELANの分析画面をどのようにシェアしたらよいか。わたしは自機のMacBook Airでいろいろ試行錯誤したが、なんとか解決にいたったので、紹介する。

 入手すべきものは、マイクロフォン(安いものでよい)、そしてマイク音声と外部からの音声入力とをミキシングして、パソコンのUSB端子に送り込むことができるミキサー。わたしの場合は、YAMAHAのAG03を入手した。オンライン配信で広く使われている機種だ。

 これを図のように配線する。いたってシンプル。

 

Macとミキサー、マイク、ヘッドホンの配線

・パソコンの音声出力→ミキサーへ
・マイク音声→ミキサーへ
・ミキサーのUSB出力→パソコンのUSB端子へ
・ミキサーの音声→ヘッドホンでモニタ


 これで、パソコンのソフトウェア(ELANなど)から流される音声を、ZOOMの参加者に送ることができる。この音声はミキサーを介してヘッドホンできくこともできる。

 また、ZOOM会議での参加者の音声も、パソコンからミキサーに送られてくるので、同じヘッドホンできくことができる。

 実は、パソコンから音声出力したものをもう一度USBで送り返した場合、いわゆるフィードバックループが発生してしまうのではないかと危惧していたのだが、実際には、ZOOMはこちらの音声をフィードバックしないことで、混線を避けるしくみになっているので、この配線でうまくいった。

 ZOOMの「画像の共有」でELANなどのソフトウェアのウィンドウを選び、映像と音声を流すと、ほぼ通常の動画を見ているのと同じタイミングで映像と音声が同期する。これで、ELANで動画を確認しながら、ディスカッションすることができる。

 ただし、回線が細いと、映像がガクガクするなどの現象が出るので注意。映像を用いた研究会やゼミを行う場合は、あらかじめ分析対象となる動画をファイル共有しておくか、YouTubeに限定公開して、それぞれの参加者が手元で動画の内容を確認できるようにしておくとよいだろう。

Take on me (by A-ha)

Take on me By Magne Furuholmen, Morten Harket & Pål Waaktaar

おそくまで
はなしてもあっという間
永遠には
ほど遠いけど今日こそは
本気出す
迎えにいくよすぐに OK?

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうよ
きょうかあし、た

そうわかってる
ぶきようなぼくだけど
つまずいても
勉強するよ人生はOK
いってごらん
とにかくあたってくだけろさ

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうんだ
きょうかあし、た

きこえない
人生かけてるの? 遊び?
きみだけだよ 頭の中は
本気出せ
迎えにいくよすぐに OK?

ほんとに(ほんとに)
徒歩で(ほんとに)
消えちゃうよ
きょうかあし、た

(試訳:細馬)

誰もわたしの手を握ろうとしない


誰もわたしの手を握ろうとしない
誰もわたしの手を握ろうとしない
風呂に入って手を握ってみる
右が左の指を曲げる
左が右の指を曲げる

あたためられた手で
からだをこする
顔をなでる手
手からはなれる目

誰もわたしの手から食べようとしない
誰もわたしの手から食べようとしない
穴の中から手でつまんでみる
口が左の指をしゃぶる
口が右の指をしゃぶる

おいしかった口を
手でぬぐう
手をなめる口
少しおいしい手

わたしの手を握る手
わたしの手から食べる口
わたしの手をその手に
わたしの手からその口に
わたしの手からきみの手に
わたしの手からきみの口に
わたしの手を握る手
わたしの手から食べる口

ライブの家が鳴る(神田試聴室ライブのあとで)

 昨日(2020.4.8)、神田視聴室で、ライブを行ってきました。

 観客はなく、歌って演奏するのは私1人。その場にいたのは試聴室のオーナーの根津さん1人です。

 こういう形にした理由の一つは今の新コロナウイルス問題です。移動の方法も集まり方も滞在時間も、最小限にしようと思っていました。演奏は無観客で行い、配信のみ。わたしは電車を使わずに機材を背負って自転車で試聴室へ、根津さんはご自宅から車で移動。できるだけセッティングはシンプルにして、本番一時間前から準備をして、そこから終了して片づけまで、根津さんと二人だけで行おうと決めていました。作業中はお互いマスク着用で、本番のみマスクははずす。ただしモニタ卓と舞台とは十分距離をとる。PayPalで投げ銭を集めて、集まったお金は試聴室に渡す。一方、わたしは、試聴室のすばらしい音環境を独り占めにできることでおそらく報われる。

 結果的に、前日、東京都に「緊急事態宣言」が発令されましたが、この、当初決めたやり方に変更は必要ないと思いました。

 予定通り、根津さんと私の2人でセッティングを行いました。根津さんがマイクやケーブル、ミキサー卓などを設置して下さって、わたしの方は配信用のPCやミキサーの調整、それから2人で音出しとミキシングの調整。幸い、この一週間、自分でツイキャスなどの配信を経験していたので、それほど時間はかからずにスタンバイできました。

 ひな壇になった観客席は、いっぱいに入れば30人。でも今日は観客はいない。一時間、本番で歌って話して、それから片づけ。打ち上げはなし。20:00に小屋入りして、23:00前には試聴室をあとにしていました。

 こう書くと、ずいぶんさびしい感じがするかもしれませんが、実際はとても充実した、不思議な一夜でした。

 普段、観客がいてスタッフもいてたくさんの人の前で演奏しているときは、目の間にいるのは一人一人違う来歴のもとに集っているお客さんであり、その人たちがいちどに視線を投げかけてくる。違う来歴をもちながら、一度に笑ったり拍手したり、なんなら一緒に唄ってくれたりもする。それがライブの高揚をもたらしている。それに対して、この夜は、根津さん1人で、ミキサー役であると同時に観客でした。ところが意外にも、そうやって離れたところにいる根津さんを見ながら唄っていることが、とても豊かな時間として立ち上がってきました。

 普段、1人で配信しているときは、私は自分で歌ったり語ったりしながら、一方で今マイクの調子はどうなってんだろうとか今配信がうまくいってるだろうかとか、いろんなことを同時に考えなければいけない。歌っている最中にもそういう考えがチラチラッと頭をよぎることがある。ところが、ライブハウスに入るときには、そういう心配はほとんどない。 根津さんがフェーダーを上げ下げして、常に私のボーカルマイクとギターマイクのバランスをとっている。それを見るだけでわたしは、ああ自分はとにかく好きに歌えばいいんだと言う気分になる。根津さんのやってくれていることに対するある種の信頼感が生まれて、いろいろな心配ごとをその信頼感がきれいに地ならししてくれる。その上に私は楽々と腰を下ろして、歌うことができる。すると、自分の歌声に対する集中度がいつもよりぐっと引き上げられる。この感覚はとても特別なものだと思いました。 もちろん、この信頼感は、本番前の一時間、二人で黙々と(いや、多少の雑談を交えながら)、この日のセッティングをしている間に形成されたのだと思います。

 根津さんは、 平時であれば、毎晩のように様々なバンドの演奏を聞き、自分の耳を耕してこられた方です。その人が自分の演奏を聞いてくれている。そのことで、わたしはもう充分報われている気がしました。

 ここまで書いたことは、おそらくライブをやったことのある人の多くが経験している感覚であり、今さら言うまでもないことかもしれません。でも、この日、二人で最初から最後までやることで、作業の一つ一つから立ち上がってくる感覚のひとつひとつがはっきりとした形で意識されて、わたしは久しくこういう感じを忘れていたことを気づかされました。

 そして、場所の力。目の前に広々とした観客席がある。今は空席だけれど。その広い空間に向かって歌うことによって、私は今まさに歌うべきところで歌っているのだという確信が生まれる。それは決して気のせいではない。わたしが歌う声の反響が、眼の前に拡がっている空間の広さに見合った響きで跳ね返ってくる。これは確かに、広々とした、何人もの人が座っていられる空間だ。私は「ライブハウス」が持っている、ごくごく基本的な、屋台骨のような力をまざまざと感じました。

 今や政治家も誰もかも、「ライブハウス」ということばをまるで仕分けのための記号のように使うけれど、本来「ハウス」とは、信頼によって支えられた、人が集い居心地のよい広さを持つ「家」のことなのだ。そして「ライブハウス」は、ライブを行うことによって生まれる。その夜のために準備をして、その夜の音を鳴らす。そのことによって、そこがどんな場所かが、毎夜明らかになる。試聴室の根津さんも、そうやって長い間やってこられた。そういう「ライブハウス」のあり方を、この生きづらい時代にあっても、なんとか持続することができればいいと思います。そのためには、何が必要なのか。営業が難しい今、補償はぜひとも大事だと思います。その一方で、わたしは、やはり、演奏が行われること、たとえ一人でも、その演奏を見届ける人がいること、そして演奏によってそこが「ライブハウス」であると明らかになることが大事だと、今回思いました。

 昨晩は、たくさんのご視聴、そして投げ銭をありがとうございました。

かえるさん/細馬宏通(2020.4.9)

Time after time (何度でも)

Time after time
by Cindi Lauper and Rob Hyman
 
眠れなくてきくチックタックで君思う
思いは回り こんがらがってふりだし
そうだ、ぬくい夜 忘れてたな
スーツケースに思い出 何度目?
 
君の見るわたし 歩いてるずっと先
君は呼ぶけど わたしにはきこえない
で「ついてゆけない」 背中に声
秒針は遡る
 
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
 
わたしが消えてくらがりがぼやける
君は窓越しにわたしを心配してる
深く深く盗まれて
ドラムが乱れて
 
迷ったらよく見て ここだよ
何度でも
落ちたら抱きとめる いつだって
何度でも
 

 

 
(試訳:細馬)

火を守る時間 —『映像研』のマンガ空間・アニメーション時間—

 マンガを読むとき、読者はコマという単位の中でテキストと静止画とを何度も往復し、詩的な構造を創り上げていく。

 たとえば、『映像研には手を出すな!』第二巻 p142、五徳を囲んでカップ麺を食いながら、金森が読者モデルとしての水崎を売り込む策謀を語る一コマを見てみよう。

『映像研には手を出すな!』第二巻 p142より

 原作では、焚き火の前で金森が二つの吹きだしを用いて言う。「せっかく注目を浴びる「明るい場所」を獲得したんです。」「可能な限り煽って効果を最大限引き出す。」この二つの吹きだしにはさまれて、向こうでは金森が団扇で火をダパダパと「煽って」おり、手前では五徳の火がボウボウバチバチと燃えている。読者であるわたしはまず、激しく燃える火から「明るい場所」を、ダパダパから「可能な限り煽って」を、ボウボウバチバチから「最大限」の効果を読み取ろうとする。火を煽ることを、可能性を煽ることの比喩として読む。

 もちろんこれは、コマを右から左に眺めながら、一つの記号が一つの対象を指し示すという前提によって引き出した、極めて単純な読みに過ぎない。何度もこのコマを眺め直すうちに、ダパダパだからボウボウなのか、バチバチだからダパダパなのか、「明るい場所」を獲得したから煽るのか、煽ったから「明るい場所」になったのか、原因と結果の時間順序は混濁していく。燃えさかる火を手前に、そしてその火に照らし出される金森を向こうに配した『映像研』独特の三次元的な構図の中で、因果の時間から自由になった、火の空間が浮かび上がってくる。『映像研』を読む楽しみは、単なる図式的な比喩を越えて、このような「設定」的空間、空想の居座ることのできる空間を見いだしていくことだろう。

 では、このをアニメーション化するとしたら、どんな演出が可能だろう。すぐに思いつくのは「煽って」という台詞と団扇の動作のカット、次にボウボウバチバチと勢いを増す火と「効果を最大限引き出す」というカット割りだろう。しかしこれは、判り易くはあるものの、当たり前でおもしろくない。原作のおもしろさは、先にも述べたように、単に吹きだしに対応する現象がコマの中に見つかるということではなく、吹きだしと絵によって作られた奥行きが読み手の時間の因果を狂わせ、動作の時間からひととき自由になる「設定」的空間を作り出すところにある。

 しかし、アニメーションには、動作の時間がある。むしろ動作の時間によって空間が構成される。それはどのようなものか。

 アニメーション版第8話の同じ場面はこうだ。

【カット1: 金森を横から捉えた構図。金森・水崎の足下が照らされている】
金森「せっかく注目を浴びることができる「明るい場所」を獲得したんです。
金森「可能なかぎりあおって効果を最大限に引き出す」

【カット2: 原作とほぼ同じ構図。手前に火、向こうに金森】
金森「不本意でも、それが今後の制作環境を向上させるならやるべきです」

 原作では、ボウボウ燃えさかる火と金森を奥行きのある空間の中に配置し、金森の身体をトーンの陰影で照らすことによって「明るい場所」ということばを引き立てていた。一方、アニメーション版の【カット1】では、同じ台詞で、金森と水崎の姿を横から捉え、しかも五徳の火の本体はフレームアウトしている。そのおかげで、原因である火ではなく、照らされている人間の方が強調される。しかも火は、金森だけではなく水崎の足下も照らしており、獲得された「明るい場所」は2人に共有されたものであることが印象づけられる。さらに「明るい場所」ということばでいったん手にとった薪を持ったまま動作を止めるので、動作自体よりも、照らされている身体の方が強調される。

 そして、何より引き込まれるのが、ここからの台詞と動作の同期のなめらかさだ。「可能な」で持っていた薪を放り、「限り」で手元の団扇をとり、「煽って効果を最大限に引き出す」でゆっくりと団扇を煽ぐ。ここで、金森は不必要に激しく団扇をあおぐのでなく、むしろ一定のペースでゆっくりと動かしている。常識的に「煽る」「効果を最大限を引き出す」ということばから連想されるような、動作の激しさはない。このことは、金森のどのようなキャラクターを表しているだろうか。

 それは続く【カット2】で、よりはっきりする。原作と同じ構図の中で金森は「不本意でも、それが今後の制作環境を向上させるならやるべきです」と語る。そして、この間も、金森の団扇を煽ぐペースは変わることがなく一定を保っている。「不本意でも」「やるべきです」ということばと、動作の安定ぶりとが同期している。そして火はバチバチと燃えさかるのではなく、ヤカンを温めるにふさわしいほどのよさで燃え続けている。団扇を煽ぐさかさかという音が響く。

 薪をくべてから団扇であおぐまでの無駄のないスムーズな動作の移行、そして「不本意」さの中で「やる」ときの動作のブレのなさ、その結果、頃合いのよい強さで燃え続ける火。以上の2つのカットで起こる一連の動きから、鑑賞者は金森というキャラクターに、情動にまかせてひたすら勢いのある火を燃やす「激しさ」ではなく、無駄な動作を省いて持続性の高い火を引き出す「冷徹な計算高さ」を感じ取ることになるのだ。もちろん、田村睦心の抑えた口調がこの印象を高めていることは言うまでもない。

 アニメーションは、マンガの設定空間から3人の静かな時間を引き出した。ペグで五徳を組んだ浅草が火の発明者なら、金森は3人の夜を守る火守りだ。金森の語り続けることばの時間によって、3人の囲む火は絶やされることなく燃え続ける。夜明けが近づき、火に照らされた水崎に、決断のときが来る。

小森はるか+瀬尾夏美 「《二重のまち/交代地のうたを編む》—民話の誕生に立ち会う」を観たあとに

昔話は、いつ昔話になるのだろう。

最初の物語はたぶん、とても個人的なものだったに違いない。どこへいって、なにをして、どうなったか。いった理由もした理由もそうなった理由も、その人の来歴、その人の癖にまつわるものだったろう。それが無類におもしろく、かなしく、おそろしく、だから誰かに話さずにはいられなかったとして、けれど、その個人的な語りを、わたしは語り直す資格があるのだろうか。その来歴も癖も持ち合わせないわたしが、語り手と同じ情動をこの身に立ち上げ、わたしがきいたときの情動を他の誰かに立ち上げることができるだろうか。できたとしても、それは来歴も癖もない、空虚な語りではないだろうか。だとしたら、わたしの語りで情動を立ち上げてしまった人は、わたしの空虚に誘われるしかないのではないか。

それでもわたしは、わたしのきいたその語りを語り直してしまう。きいたわたしも語っているわたしもただの幻ではなかろうかとおそれながら。そのとき不思議なことに、わたしは物語から個人的な痕跡を抹消し普遍的な語りへと向かうのではなく、むしろ、わたしはわたしをまさぐりはじめる。体をもぞもぞと動かす。手で手を擦りはじめる。わたしではない誰かの動かしたからだをわたしに立ち上げるために、わたしのからだをわたしではない誰かのからだとして使い始める。わたしはわたしを上下させ、わたしでわたしを擦り、わたしではないわたしへとわたしを分かとうとする。そしてようやくわたしは、わたしではない誰かのことを、おずおずと語りはじめる。