小田香「セノーテ」

 いやすごかった。音がとにかくすごかった。最初からもう耳をつんざくような音、水がこの受け入れがたい身体を取り込む音か、身体がこの水中に在りがたいことを示す音か。そこに声、いくつもの声が遠くで。黄泉の声?
 
 そして前後不覚になる。
 
 わたしは、水中にいるときに面を求めている。水面という面と水底という面と。上下2つの面を見定めることによってようやく自分がどこにいるのかわかる。だけどこの映画の水中に現れる面はカーテン、オーロラのようなカーテン、それは水中に差し込む光によって作られていくカーテン、水中には上と下以外にも面がある。その光の面に近づいていくと面はふいに失われて粒、粒の空間。奥行きを持った粒が、面になる。面になった粒を見出し、水面を見出し、助かったと思う。しかし水上にも粒。滝壺のような場所で生じる、水銀のような水。高速度撮影で遅められた水しぶきの動き、水銀のようにあちこちでつながる動きがぼたぼた落ちてきて、画面の手前でべたりと染みになる。フィルム自体が感光したような粒、粒が顕すフィルムという面。水上と水中、似た遅さを持つ粒たち、水の中なのか外なのかわからなくなる。そして幾度もふいに現れるもう一つの面、顔。わたしは水中に面を見出すように顔を見出す。じっと動かない顔、もの言わぬ顔を見つめているとまたしても水。水中に声を持った面。水上に声を持たない顔。黄泉の国に行くことは、深く潜ることではない。深さを忘れること、面に出会うこと、面に惹かれたまま呼吸を忘れること。
 
(2020.10.2 K’s シネマ/新宿三丁目を歩きながら録音したものを編集)