山の端を触る

 3月に広島の江波を訪れてからというもの、「この世界の片隅に」の読み方、態度が変わってしまった。何というか、少し沈潜気味になり、それでいて少し快活になったのだ。

 江波山の端がどこかを知り、その山の端をなでることができるようになり、海神宮の位置を知り、山の端を海が洗っていたことを知ることで、わたしにとっての広島の海が、少し近くなった。気象台の場所を知り、その屋上で風を受けることで、原民喜を読むときも、大田洋子を読むときも、城山三郎を読むときも、以前とは違う空気をかぎ取るようになった。なぜか、と問われても簡単には答えられない。ただ、江波山の端で誰かが走りはじめ、あるいは誰かの船が動きはじめ、確かな空間の中でその速さが感じられるようになった。それだけのことで、物語の読みは変わってしまう。

捜すこと

混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。

(原民喜「廃墟から」より)