聖火リレーコースの可能性を探る(「東京オリンピック」8号より

以下は、東京オリンピック組織委員会発行の「東京オリンピック」8号の記事「聖火リレーコースの可能性を探る」からの引用である。内容は1962年2月に行われた聖火リレーコース探査隊の報告会の記録で、各隊員が次の表題の文章を寄せている。ここには車両整備を担当した安達教三と車両運転を担当した森西栄一の文章を転載する。

安全正確に 麻生武治(隊長)
不順な気候 土屋雅春(医師)
沿道の熱意 矢田喜美雄(朝日新聞社員)
熱風の苦難 小林一郎(朝日放送)
砂漠と悪路 安達教三(車両整備)
歓待と拍手 森西栄一(車両運転)

砂漠と悪路 安達教三

 道路と自動車は切っても切れない関係にある。道路はというと、これは気候あるいは天災地変によって簡単に変り得る。従って車両と道路と気候の3つは不可分の関係にある。
 ギリシアからシンガポールまで182日間を費し、6月23日から12月21日までの長期間を踏査したが、車で走った日数は夜間走行6日間を含め僅か51日間。その走行キロ数は18870余で、これは実走行キロである。1日一番多く走った日は1072キロ、一番少なかった日は、ガンジス河を小舟で渡った日で、31キロ、1日平均の走行キロは、これらを全部含めて370キロ。その間行く手には、常に試練が待ち構え、この試練こそ、この上もない良き教訓を与えてくれた。
 第1に、ギリシアとトルコ、さらにイランの砂漠の中に、りっぱな舗装道路があった。最高速度150キロぐらい出る車でなければ物足りないと痛感した。
 第2に、シリア砂漠の横断である。シリアのダマスカスからイラクのルトバまで。ジョルダンを通れば砂漠の中にりっぱな道路があるが、ジョルダンがオリンピックに加盟していないので立寄らず、あえてシリアの砂漠を横断した。案内人を雇ったおかげで無事に砂漠を横断することができた。われわれが見ると砂漠には道がないようだが、案内人によれば、道はちゃんとあるという。
 第3に、中近東諸国、特にイラク、イラン地区の真夏の気温である。7月の半ばであったが、気温は車内で摂氏60度。もっともこの暑さはこの地方でも17年振りの猛暑の由であったが、こういう猛暑の時期があることを忘れてはならない。
 第4に、砂漠でのパンクである。われわれの2台は8回もパンクした。砂漠でパンクの取替え、取外し、取付けには全く閉口した。
 第5に、アフガニスタンでスレーマン山脈の4千メートルの峠を越したが、これは富士山の3776メートルよりも高いのだ。
 第6に、雨期におけるパキスタン、インド、ネパール地区の通過である。この地方も80年振りの豪雨でガンジス河は氾濫し、長さが東京・大阪間ぐらい、幅が関東平野ぐらいに拡がっていた。そこを深さ1メートル前後の水の中を走行した。さらにネパールからインドに入る時には、氾濫しているガンジス河を小舟に車をのせ渡らなければならなかった。
 第7に、タイ緬国境を半月がかりで通ったが、昨今では印緬国境、タイ緬国境は、治安上の問題で通過することが出来ないというのが常識になっている。なおタイ緬国境の道路は、おそらく雨期には通行は不可能と思え、ここ2,3年でこの悪路が急によくなるとは絶対に考えられない。
 以上はほんの僅かな例にすぎないが、今回の体験を十分に生かして、最悪の事態を常に予想し、対策が立てられなければならないと思う。(日産自動車)

歓待と拍手(森西栄一)

五輪の旗と吹き流しの鯉のぼりをもち、歓待と拍手に迎えられ、オリンピアからシンガポールまで踏破することが出来た。あるところでは軍楽隊の演奏に、あるところでは敬礼に迎えられ、ある市民歓迎会では100歳の老人もまじえて50人くらいの人と握手し、あるところではスポーツマンからサインを求められたりした。スポーツを支える数カ国の軍人や政治家、それにスポーツマンの全部が、この陸路聖火を運ぶというロマンを非常に熱望していることがよくわかった。そして私たちはオリンピック熱が、日本ばかしではなく、中近東の至るところにもひろがり、そしてまた日本人が聖火リレーを通して偉大な人間性やオリンピック精神をともにプロモートし、アジア、世界の精神的支柱として確固とした地位を位置づけるであろうことを信じて疑わない。(オリンピック組織委嘱託)

東京オリンピック 8号 1962年2月25日より