「この世界の片隅に」Blu-ray版を観る

 仕事場に届くようにしていたので、発売日から少し遅れていまごろ見ている「この世界の片隅に」Blu-ray版。まず14分のメイキングディスクから見始めたのだが、この14分で泣かされるとは思わなかった。

 本編について。画面の大きさ、誰かと見ることがもたらす感覚、離れたスピーカーから鳴る音など、劇場には劇場の、固有の体験があって、それと自室のモニターで見る体験は比べるべくもない。

 とは言え、間近なスピーカーから鳴る音は、音量は小さいものの細部がよく響き、これはこれで楽しい。たとえばすずの婚礼のあと、父母が帰り際に重ねるように声をかけるところで、劇場では二人の言っている内容をはっきり聞き分けるのは難しかったけれど、自室ではそれが分離して聞こえるのでちょっと驚いた。他にも、こんなところでこんな音がと、今まで気づかなかった音に気づかされた。

 画角が劇場より小さいせいか、全体から来る印象が少し違う。たとえば、波のうさぎの、松葉が風にあおられて、あちこちでぱたぱたと動く場面。あそこは劇場だと、江波山の雰囲気を味わうような大きさを感じるのだが、モニタだと、松葉や地面の草があちこちで、まるでのちに描かれるであろう波を予兆し、見ているこちらに合図を送っているかのような愛らしさが出る。なんというか、松葉のひとつひとつの揺れから、それが人によって描かれた感じが発せられており、挨拶をされているような気になるのだ。波のうさぎの一匹一匹からもそんな感じがした。もしかしたら、このモニタがちょうど人の描く画面のサイズに見合っているからなのかもしれない。

 このディスクでは、こんな風にあちこちの場面で印象が新しくなる。すでに劇場では10回観ているのだが、なんというか、新鮮な体験だった。しばらくして劇場に行ったなら、劇場の印象のほうもまた変わるかもしれない。

 特典映像の方はまた改めて時間のあるときに。

Chuck E’s in Love (リッキー・リー・ジョーンズ「恋するチャック」)

どうしてもうしないの? ぶらぶらとか
さそってみても
どうして消しちゃうのTV?
で部屋に入るなってもう
行こうよ行こう 
みんなでさそっても
へい、誘惑はだめっぽい かわっちゃったんだ

あぜん、すらすらしゃべってんじゃんいつもの
あのど、どもったりもなしで
ほんとほんと
なんかさまになってる かっこつけた身のこなしで
どこいったいつものぼろぼろジーンズ
健全、なんなんだなんかこざっぱりしちゃってキミ
だって

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるよ
チャッキーは恋してる
チャッキーは

ああもう信じない みんなが言っても 
わたしもう自分で確かめる
いないなあ?
いないよビリヤード
いないなあ?
いないよドラッグストア
いないなあ?
もうここにはこないそうおもう

ほんとはね 知ってんだ
すわってたんだそこのうしろあの店で
もう彼がなにたくらんでてもいいけど
なにかの病気じゃなきゃいいけど
相手は誰? あそこのこかな?
あぜん、櫛まで使ってんじゃない?
あのこかな 名前は何?
もう前みたいにはつきあえない
でもそのこじゃない
しってるもの
だってチャッキーがほれてるのはこれうたってるだれかさん
だっちゅうの

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるしてるしてるしてる
チャッキーは恋してるよ わたしに

(試訳 細馬)


 リッキー・リー・ジョーンズの「恋するチャック」。いろんな訳し方が可能だと思うが、歌えるように訳してみた(といってもこれを歌う人がいるとも思えないが)。

 最初はところどころに「we」が入っており、チャック E.に対する仲間の噂話に聞こえる。It’s true, it’s true というのも、いかにも別の仲間が話に割って入る感じにもきこえる。

I don’t believe what you’re saying to me
This is something I gotta see.

 というところで、噂話は収束して、中の一人が噂を確かめようとブルースコードの抜き足差し足であちこちをこっそり覗いていくが、チャックは見つからない。この一人は、語り手とは別人のようでもあるし、語り手がしらばっくれて探偵ごっこをしているようでもある。

 そこからまた歌は噂話となるのだが、「でもそのこじゃない But that’s not her 」とひときわ声が高くなったところでいよいよご本人から種明かし。

 声は語呂を楽しみながら次々と語りを変え、まさに噂そのものになってから、最後は一人の語り手へと歌を預ける。楽しい多声の歌。

バビロン・シスターズ (Steely Dan “Gaucho” 1980より)

飛ばせ西へサンセット通り
そして海へ
ちょっとそのジャングル・ミュージック小さくして
街を出るまでの辛抱だから
これは一夜限りじゃない本格的なやつ
目を閉じればほらもうそこにいる
足りないものはない
パーフェクトな一日の終わり
そこに来る遠い光、湾の向こうから

バビロン・シスターズ シェイク・イット
バビロン・シスターズ シェイク・イット
ああ美しい 若い
「ねえ、わたしだけだって言って」

ああ、あのサンタ・アナの乾いた砂風がまた…

ハリウッドの連中とジョギングする砂浜
チェリー・ブランデーを貝殻からすすり
サンフランシスコ風できめる、か
さてそろそろ気づいてもいいんじゃないか
これは束の間のオーガズム
ティファナの日曜みたいなもの
それに安いと言ってもただではなし
昔のおれならいざ知らず
わかってるだろう、恋は三人でするもんじゃない

バビロン・シスターズ シェイク・イット
バビロン・シスターズ シェイク・イット
ああ美しい 若い
 「ねえ、わたしだけだって言って」

友達はみなやめとけって言う
綿菓子みたいな女だが
おまえ、ありゃ火傷するぜ
何事も経験ってか
橋が焼け落ちてからじゃ
後戻りはきかないぜ

(試訳:細馬)


 スティーリー・ダン「ガウチョ」(1980)冒頭の一曲。初めてきいた頃は、ろくに歌詞も読まずにただそのタイトで妖しいサウンドに魅了されていたのだが、改めて逐一歌詞を追っていくと、これほどまでに墜ちるままに墜ちる男の歌だったのかとちょっと驚いてしまう。

 歌詞と合わせてきくと、2コーラス目から入るランディ・ブレッカーによる弱音器付きのフリューゲルは、1コーラス目のドライブの果てに広がる虚飾の世界であり、サンタモニカかヴェニスあたりの砂浜でのくつろぎを暗いユーモアで飾りたてている。もしかしたらそこにはティファナ(T.J.)ブラスのハープ・アルバートのイメージも混入しているかもしれない。

 「さてそろそろ気づいてもいいんじゃないか」と自分で気づきながらも、そして「友達はみなやめとけって言う」と周囲に言われながらも、語り手は危うい世界へあえて耽溺していく。ここにドラッグの影を見るのはたやすい。

(2015.1.8掲載の訳詩に追記)