ものを見て人はなぜギャアギャア言わなくなったか、あるいは、人はなぜものを見ずにギャアギャア言うようになったか

 休憩時間に、古山研の学生さんがいて、歌の起源とメルロ=ポンティの身体論と菅野さんの歌論との関係をあれこれくっちゃべっていたら、おもしろい論考ができそうな気がしてきた。
 それは、こんな考えである。

 ことばの指示機能から指示性を引き剥がして感情を優先したのが歌、逆に歌から感情を引き剥がして指示性を優先したのがことば。そして、ことばと歌との相補性によって音声コミュニケーションを行っているのがわたしたちヒトの特異なところ。ヒトはことばのおかげで、モノを指し示すたびにギャアギャア言わなくなった。そして歌のおかげで、モノを指し示さなくともギャアギャア言えるようになったのである。

 メルロ=ポンティの「環世界 Umwelt /世界 Welt 」という対比を使うならこうだ。
 人は環世界に対して、ギャアギャアと感情を込めずとも、静かにことばを発するようになった。ことばによって人は、環世界 Umwelt に対して感情を切り離して声を発するようになった。いっぽうで、人は環世界によらずともギャアギャア歌うようになった。それが世界 Weltである。歌はWeltとともに現れた。歌によって人は、世界 Welt に対して感情を立ち上げて声を発するようになった。
 ヒトは、喪ったものを現前として感じるときに発せられた音声を進化させた。それが、ヒトの歌。それは環世界に対してではなく、世界に対して発せられる点で、鳥の歌ともクジラの歌とも本質的に異なっている。

 歌は、ヒトが進化の過程で得た、喪する声である。

2009.9.21の日記から)

土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社

 本書は、『君の名は』『この世界の片隅に』『聲の形』という2016年にヒットした三本を軸に、「私」の時代から「私たち」の時代への移行という大胆な見立てを行う一方で、商業アニメーション/インデペンデントという従来の二項対立を見直し、世界のアニメーション地図をとらえ直す内容。ノルシュテイン研究を土台にしながら、世界の幾多の短編/長編アニメーションに触れ、かつ、配給や上映にも携わっている土居さんでなければ書けないものだ。土居さんがこの本で考察している「私/私たち」は、これからのアニメーションを考える重要な手がかりであり、本書はこれからのアニメーションを語る上で必携となるだろう。

 ちなみに私は、「この世界の片隅に」について、土居さんとはちょっと違う意見を持っており、その手がかりは『二つの「この世界の片隅に」』の「きおく」の章に記してあるのだけれど、この問題を含めて土居さんのアニメーション世界地図の知恵を借りつつ語り合うべく、トークを行うことになりました。

ブックファースト新宿店地下2階Fゾーンイベントスペース 10/20(金)午後7時~午後9時
『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)刊行記念 土居伸彰×細馬宏通 トーク&サイン会

 なお、フィルムアート社のウェブサイトから『21世紀のアニメーションがわかる本』に関連する動画を見ることができるので、すでに読んでいる方も注目を。

 

松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 2017.8.27、第七藝術劇場での映画『さよならも出来ない』上映後に松野泉監督とトークをしました。撮影現場の騒音をどうやって作品に取り入れたか、劇伴音楽と音響の境目は? キャラクターと人生の話など、なかなかおもしろい内容になったと思います。

 その内容が詳細に書き起こされたノートができましたのでご覧下さいな。→松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 鈴木卓爾さん×松野泉監督のトークもよいです。

 見逃した!という方、神戸元町映画館で10/7-10/13までやってますよ。