日記 20170920

考えてみたら、その日に起こったことをあれこれ頭の検閲を通さずに書くやり方はたくさんあって、ブログっていうのもそういうものの一つだったんだよね。Twitterでみんな、140字とアイコンによってどんな立場の人も同じフォーマットで話すってことに気持ちよさを感じてて、わたしもそれは気持ちいいなって思ってて、ずっと(ずっとって10年だよ)使ってたんだけど、もういいやって昨日思っちゃった。思っちゃったけど、何もかも止めるってほど極端に思い切ってるわけでもなくて、単に一つの場所に依存してるといつか足もとすくわれるなって危機感でこうやって別の場所に書いてるのね。書いてると、ああ、140字じゃない場所にはこれくらいだらだらしゃべれる空間があるんだって、発見をしてるわけ。

こういうテキストをTwitterさよならとか言ってるわりにTwitterに告知することについてあれこれ言う人もいるだろうけど、それがどうしたっての。わたしはTwitterにアクセスするたびにあのプロモーションとかいろいろな広告を目にしていて、それはみかじめ料だと思ってる。みかじめ払ってんだから、気まぐれにアクセスしたって何のうしろめたいものがあるものか。気ままに使って、でもそこには入り浸らないよって言うことに、なんのうしろめたさがあるっていうの。

ああ、もうそんなこたどうでもいいや。

さてはてね。わたしはいま、人生で初めてきた羽犬塚というところで、たまたま泊まってる宿のむかいにある「集家」っていう飲み屋が、なんか夜目に店構えがおもしろいのでふらりと入ったら、ここがモルトをけっこう置いてあるし、焼き鳥を頼んだらもうたまらん美味しさで、え、なんでこんな焼き鳥おいしいんですかってたずねたら、実は福島の相馬にいたんですって言われて、わあ、浜通りにおられたんですね、って言ったら、このあたりで浜通りってことばをきいたのは初めてですって言われて、そんでいろいろ相馬のことや熊本のことを話したのでした。まあこういうことって、まだ袖振り合うも多生の縁くらいのことで、まだこの土地のことをわたしはちっともわかっちゃいないんだけど、でもわかるためのエントリーとしてはいいじゃないか。ビギナーズラックってことがあるのだ。ある場所のことを考えるいちばん最初のとっかかりにいい出会いがあるかどうかはとても重要だ。で、ラックから過去へと遡るのだ。ラックを引き当てた自分の嗅覚はまんざらでもないなって。そうやってわたしはわたしを肯定するのだ。ラックを引き当てるたびに少しずつ肯定していくのだ。足もとは危ういぞって思ってるけど。それは地震の国に生きてるからそういうもんだと思ってる。

かっぱよっぱらった

さーて酔っ払ったから酔っ払ったようにかくぞ。かっぱ酔っ払ったかっぱやっぱ酔っ払ったとてちてた。久留米のゆるきゃら「くるっぱ」は久留米のかっぱらしい。にゃ〜。ああ140文字じゃないと大広間で酔っ払ってる感じだにゃ〜。畳の端から端までごろごろ転がってもずいぶん時間がかかる。くるっぱで言うと10くるっぱくらいしてる。くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱ。ほーら、実際声にしてみるもんだ。ただ10くるっぱと言ってもそれがどれくらいくるくるぱーなのか分からない。ほんとに10回声に出して言ってみ。ことばで目が回るから。ことほどさように声は運動なのだ。くるっぱと一回言うのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回言うのとでは違うのだ。ついでに言うと文字入力でさえ運動だ。くるっぱと一回打つのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つのとではずいぶん違う。繰り返す声、繰り返す指がくるくる同じ方向に回転することに眩暈を覚える。読む人もそうだろうと思う。かくして声に出すことと文字入力と文字読書という、いっけん異なる行為は同じ眩暈を共有するのである。文字を見てその文字を発声するニューロンは賦活するのか、それは声が即頭に浮かぶ読者と速読をむねとする近代読者とで違うのか、このあたり何か研究があるのかな、あるかもな。しかし、ニューロンの話はおくとしても、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つ行為に耽溺すべきであるし、そこに無意識に体に染みついた時間、10回ということをことさら意識せずとも、声にして唱えるともうそこに10回感覚が立ち上がる時間の感覚、その感覚にいーち、にー、さーん、しー、と唱えるときのプロソディの感覚がこっそりまぎれている数え上げの感覚のことをわたしらはもっと真剣に考えねばならぬ。そこに音声と運動の秘密は埋め込まれているはずなのだ。

Twitterさん、さようなら

 かつて、1980年代末から続いていたパソコン通信のひとつ、NIFTY-Serveが1990年代後半に終焉したころ、そこにあったさまざまなフォーラムの膨大な過去ログは一切なくなった。それには、よいことも悪いこともある。よいことは、ほじくり返されるべき過去が消えてくれたことで、悪いことは、考えるべき過去が消えたことだった。わたしはあわてて自分の書いた文章をテキスト・ファイルに収めたけれど、実際のところ、それは古いフロッピーディスクに入ったまま今まで見返されることもなく、もしかしたらこのままずっと見ないで済んでしまうかもしれない。もう誰にも読まれずに済んでほっとしているものも、正直ある。

 ただ、そのとき、ネットワークの運営側というのは、あれだけ大量の時間を費やして人々がテキストを交わした場を、あっけなく無くしてしまうことがあるのだなという認識は持った。交わされたテキストは文脈の中で初めてある意味を持つ。その文脈をまるごと消すことに、躊躇がない。

 それなら、そんな場に頼らずにきちんと自分でテキストを紡げばいいようなものだが、わたしは自分でもおかしいくらい、書くとすぐに反応を欲しがるたちで、読んだよとかいいねと言われるとすぐに調子に乗って次を書いてしまうような単純な人間である。単純な人間だからこそ、そういう反応を提供してくれる場や文脈への依存度は高いし、そうした場にどっぷりつかって抜けられなくなることの危うさも感じている。

 そんなわけで、Twitterという場はずいぶん便利に使わせてもらってきたが、一方で、いざとなったらそういうわたしが費やした人とのやりとりなぞ、必要があればすぐさま消し去るような場でもあるのだろう、ということはいつも感じていた。これはTwitterに限ったことではなく、世のさまざまなSNSにも、同じことを感じている。

 その恩恵と危うさのバランスをどう取るかは人によってそれぞれだと思うが、わたしがもうこれは潮時だなと思ったのは、菅野完さんのアカウントが永久凍結されたという話を知ったときだった。彼とは面識もないし、彼の文章には苛烈な表現があちこちにあると思っているし、必ずしも思想を同じくしない。けれど、彼の発言を、理由を明らかにすることなくまるごと「永久」なんて名の下に「凍結」してしまうやり方には正直ぞっとした。なるほどTwitterの規約を見れば、彼の発言が抵触しそうなことはあれこれある。しかし、どんな規約にも解釈ののりしろというものがあり、実際の境界は、適用の理由を明らかにすることによって初めて明らかになる。わたしがぞっとしたのは理由もなく規約の境界を示し、人にあれこれ理由を推測させるそのやり方である。

 まだ事はすべて明らかになったわけではないし、これからTwitter社は何らかのコメントを出すかもしれない。それぞれの人のそれぞれの使い方があるだろうから、他人のことはとやかく言わない。ただ、わたしはこれをそろそろ潮時だと思った。ソーシャル・ネットワークに関心を持つ者としてアカウントは残しておくし、ときどき覗いたり告知もするだろうけれど、これからはTwitterからは軸足をはずして、こんな風に書くことが増えるだろう。まあ、このブログのサイトも過去に何度かクラッシュしたりしているし、わたしの支払いが止まれば停止される。それまでゆるゆると、ということだ。