さーて酔っ払ったから酔っ払ったようにかくぞ。かっぱ酔っ払ったかっぱやっぱ酔っ払ったとてちてた。久留米のゆるきゃら「くるっぱ」は久留米のかっぱらしい。にゃ〜。ああ140文字じゃないと大広間で酔っ払ってる感じだにゃ〜。畳の端から端までごろごろ転がってもずいぶん時間がかかる。くるっぱで言うと10くるっぱくらいしてる。くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱ。ほーら、実際声にしてみるもんだ。ただ10くるっぱと言ってもそれがどれくらいくるくるぱーなのか分からない。ほんとに10回声に出して言ってみ。ことばで目が回るから。ことほどさように声は運動なのだ。くるっぱと一回言うのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回言うのとでは違うのだ。ついでに言うと文字入力でさえ運動だ。くるっぱと一回打つのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つのとではずいぶん違う。繰り返す声、繰り返す指がくるくる同じ方向に回転することに眩暈を覚える。読む人もそうだろうと思う。かくして声に出すことと文字入力と文字読書という、いっけん異なる行為は同じ眩暈を共有するのである。文字を見てその文字を発声するニューロンは賦活するのか、それは声が即頭に浮かぶ読者と速読をむねとする近代読者とで違うのか、このあたり何か研究があるのかな、あるかもな。しかし、ニューロンの話はおくとしても、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つ行為に耽溺すべきであるし、そこに無意識に体に染みついた時間、10回ということをことさら意識せずとも、声にして唱えるともうそこに10回感覚が立ち上がる時間の感覚、その感覚にいーち、にー、さーん、しー、と唱えるときのプロソディの感覚がこっそりまぎれている数え上げの感覚のことをわたしらはもっと真剣に考えねばならぬ。そこに音声と運動の秘密は埋め込まれているはずなのだ。