阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(4)

螢火は螢の下を先づてらす

 阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。

 ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(3)

手の甲を見れば時間がかかるなり

 阿部青鞋『ひとるたま』より。暇つぶしならば、時間は「経つ」はずだ。けれど青鞋は、時間が「かかる」と書く。どうもこれは、単なる暇つぶしではない。むしろ何かに「取り組んでいる」のだ。しかし、たかが手の甲を見るくらいのことに人は「取り組む」だろうか。おそらく最初は、何の気なしに始まったのではないか。たとえばてのひらを見るように。しかし、いざ始めてみると、てのひらのようにはいかなかった。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手の甲について何か考えようとして手の甲を動かす。しかし変化といえば、手の甲に浮き出した骨が、指とともにその浮き方をわずかに変えるくらいで、なかなか手の甲は正体を現さない。気がつくと、本格的に「取り組んでいる」。手の甲をどうにかしてやりたい。指に隷属する動きではなく、手の甲自体に手の甲の意志を浮き立たせるような積極的な表現を持たせてやりたい。そんな親心をよそに、手の甲はただわたしの年齢並みの皺やらがさつきやらを纏っているばかりだ。たぶん、わたしの顔も、いま、手の甲のようになっている。

『カーネーション』再見 #53

 山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
 「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
 「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
 ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。

 実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。