阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(2)

 要するに爪がいちばんよくのびる

 阿部青鞋『ひとるたま』より。「要するに」でまずぎょっとする。要するに、とは急ぎのことばであり、要されてしまった以上この句は最後まで一気に速く読まねばならない。速く読み終えてから、なんだったのだろうともう一度読み直す。爪がいちばんよくのびる。何も難しいことは書かれていない。いないのだが、「いちばん」というのが気になる。いちばん、という結論を出すための比較や思考が要するに要約されているからだ。何と比べられ、爪が残ったのか。爪がナンバーワンだとして、ナンバーワンにならなかったものはなにか。髪か、睫毛か、産毛か、鼻毛か、はたまた陰毛か。ああ毛しか思い浮かばない。わたしたちは毛しかのばすことができないのか。いや、人体から離れよう。植物ならいくらでものびるし、みるみる育つ。わたしは最近、スーパーで豆苗を買ったのだが、こいつはスポンジに植わった豆ごと売っており、ハサミでじょきじょきと苗の部分だけ切ったあと豆に水をやると二週間ほどでまた食えるほどの大きさになる。じつによくのびるではないか。勤務先では今日も草刈りが行われたが、その刈られた草の隙間からさっそくミントの小さな芽が新しい陽当たりを得て顔をのぞかせていた。かように、のびるものはいくらでも思いつく。思いついてから、じっと手を見る。手のひらではない。手の甲だ。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手のひらは皺を寄せたりのばしたり、実に表情が豊かなのに、なぜ手の甲は無愛想なのか。動かしても動かしても、骨がひくひくと移動するだけだ。ふと爪が目に入る。そうか。爪はもっと無愛想だ。動かしても動かしても形が変わらない。やはり爪だ。爪は甲より自由にならぬ。そして爪は毛よりのびる。要するに爪がいちばんよくのびる。

 かくしてこの文章はようやく要するだけの長さを得た。得たのだが、これでもまるでこの句に書かれなかったことを言い当てた気がしない。この句には、宇宙マイナス爪の虚が広がっている。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(1)

 最近、佐藤文香さんから阿部青鞋(あべせいあい)を教えてもらい、句集を何の気なしに開いたら、一句一句、ただならぬおもしろさで、しかもこれほど視点の自由な句を作る人が大正三年の生まれと知り、驚いてしまった。阿倍青鞋の句集『ひとるたま』(現代俳句協会/昭和五七年)はなかなか手に入らないそうなのだが、一冊譲っていただいたので、この機会に少々思いついたことを書いておこうと思う。

 

 笹鳴のふんが一回湯気をたて

 

 『ひとるたま』の最初の句。もうこれだけで、わたしはやられてしまった。

 警戒心の強いうぐいすを、作者は野外で目撃したのだろうか、あるいは飼っていたのだろうか。うぐいす、というだけでも小さいが、ホーホケキョではなく「笹鳴」ということばがなんともささやかで、いっそうその主体は小さく細く感じられる。その、チャッチャとささやかな笹鳴をする生き物からさらにささやかなふんが出る。冬の冷たい空気にさらされて湯気がさっと立ち、消えてしまう。まるでその笹鳴にも小さな体温があることを示すように。

 鋭い観察眼、というだけでは済まない。作者はこの一瞬を見逃さなかったばかりでなく、その間、うぐいすに気取られなかった。よほど気配を消していたに違いない。自身の気配が消滅した空間に、針のような湯気がさっと立つ。その態度が読み手を澄ませ、読み手に小さな温度を灯す。しかも、この繊細な温度をもたらしたのは、体外に排泄された「ふん」なのだ。うぐいすからもその鳴き声からも分かたれたただの「ふん」のこと、ある日ひり出されてすぐに温度を大気に預けてしまい、ほどなくその形もありかもわからなくなってしまっただろうほんのささやかな「ふん」のことを、読み手は忘れることができない。