戦中の勤労動員:弁当の中身、艦船工事(父のノートから)

【辨当】
 家から初めは持って来ていたが、だんだん米不足になり、工場で出るのなら、それを食べて貰わんと…と云う事で皆、工場の辨当で済ます様になった。

 容器だけは0.5mm厚位のしっかりしたアルミ製で御飯用(150×100×30mm位)おかず用(100×100×25mm位)。御飯は大豆入豆メシからメシ豆(大半が豆)になり終戦近くにはその豆が豆カスになって行った。
 お数は大抵小魚、もやし、たまねぎの組合わせであったが、それも味付けが塩水だけになった様に水っぽくなって行った。
 家に帰っても芋めしから、メシ芋になり、芋入りおかゆと御飯は変って行った。

2 艦船工事
 艦船工事は極めて少数の日本人が経験出来なかった貴重な体験であった。と云うのが航空廠で航空機の生産に携った人は多いだろうが、飛行機の仕事が軍艦にあるとは考えつきにくい程珍しい仕事であった。

西側から呉港を臨んだところ。手前が呉湾の西側、新宮にあった第十一航空廠兵器部。対岸は鎮守府と呉工廠。湾内に艦船が停泊している。

 然し航空機の時代、一寸目を転じると、航空母艦は飛行機を積み、発着させる軍艦であり、又戦艦でも巡洋艦でもカタパルトを積んで飛行機を飛ばす様になって来ているのだ。
 だから飛行機の発着に関係した機器の設置修理は艦船工事となった。
 一戦を終えて又一戦を交えるために準備する軍艦が呉軍港に停泊している。ドックに入らない限りは陸から離れた定位置の部位に繋留されて、いざと云う時は何時でも出陣出来る様に所謂“出船”の体勢をとっていた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。