呉の勤労動員、木炭バス、省営バス(父のノートから)

【動員の工場生活】

 中学三年生にもなって間もなく(昭和19年)、勤労作業は遂に本格化し、所謂勤労動員となって授業は中止、工場へ行く事になった。先ず広の彌生の寮に集められ、導入訓練があった。呉一中の三年生は第十一航空廠行で住所により分工場が決り、吉浦組は新宮の兵器部配属となった(中略)。
 
 兵器部と云うのは直接飛行機を作るのではなく飛行機の発着基地関係の設備を作る工場だった。

 場所は家(注:吉浦)から新宮の峠を越えた東側で約1.5kmの所である。呉港を臨む西岸にあり、飛行機を積んだ航空母艦や戦艦にも出向き易い位置にあり、鉄筋4階建相当だがブリキトタン板で地味な濃い緑色の外装の角な建物であった。傍の通勤道路は木炭バスが峠を上るのに喘ぎ喘ぎ10km/h位の速さで人と競走した。

 話が飛ぶがバスにも話題がある。

 そう云えば小学校低学年の昭和15年位迄はバスもガソリンで走っていた様に思う。所が呉一中に入る頃(注:昭和17年)は殆どが木炭車に変っていた。又呉市が戦時下では最先端だったのか電気バスが走り出した(充電電池で動く)。

 戦時下で我が呉市が重視されている様な妙な嬉しさは、昭和17年頃それ迄吉浦と呉の間しか走っていなかったバスが何と広島から鉄道省の省営バスが呉迄来る様になった事だ。あのいつも歩くか自転車でしか通った事のない狩留賀の国道トンネルを堂々と省営バスが走るのだ。初日姿を現わしたバスは今迄より二回りも大きく席も2人づつのクロスシートで、とにかくデカク、デラックスに見えた。

 一中の帰り、汽車の定期があったのに省営バスに乗って見た。車掌も男性で(注:通常のバスは女性の車掌だった)鉄道の帽子を被り、切符も各駅名が入った3廻りも大きな物だった。

 ここで丁度前頁の上り坂のバスの話に戻る。市バスが木炭バスなら省営バスはマキを炊いて(後の釜もデカかった)走っていた。…が上り坂にかかると省営バスはすさまじい勢で上って行った。それは勇壮とも云え市バスはみじめだった。それはマキと木炭の差でなく運転席で上り坂にかかると省営バスは木炭とガソリンの切替レバーをガソリン側に倒したからだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。
本人の校閲のもと、注を補い文章を少し改変した。

魚と蟹と手押車(父のノートから)

 𠮷浦(注:呉市𠮷浦)の漁師さん達は特に蟹をとるのが上手だったのだそうな。これは後でお父さんから聞いたことで。
 
 子供の頃は手拭を頭に巻いたおばさんが、手押車の中に活きの良い魚や蟹を入れて売りに来てたのを家から出て行って見た。「サカナー、イリマヘンカ、カニャー、イリマヘンカ」と遠くから呼び声が聞えて、ゴロゴロゴロと鉄の車輪をつけた木の手押車の音が響いて来た。

手押車の上はまな板代わりになっていて、その上でメバルなどをさばいていた。とったはらわたは、そばの畑に放り投げられて肥やしになることもあった。

 お祖母さんは佛さんの精進の日に肉魚は食べなかったから、車を呼び止める日は限られていた。車は上が半分蓋が開く様になっていて、中から魚を掴み出したら「今日は蟹も生きちょりますが、メバルも活きがエエンですで」と板の上ではねさせた。そう云えば、私は苦手だったが、メバルの様な白身の魚の煮付けが多かった様に思う。然し、何たって蟹が一番、甲羅が菱形をしてて長径が20cm位、脚は短いが、胸厚が厚く、おばさんが甲羅をはさんで持つと、バタバタと脚を動かし眼の近くから泡をふいた。沸した鍋湯に抛り込まれた蟹は三日市等への土産となった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
昭和8年〜昭和14年?ごろの思い出。
図キャプションは本人の解説。