甲板整列(父のノートから)

 或空母で水兵さんが2-3人並ばされていた。

 何故か分からなかったが、工員さんに聞くと要は「タルンドル」と云う事で、並ばされ、上官らしいのが”直心棒”と書いた木刀で尻をどやしていた。更に飛行甲板の廻りを何回か駆け足で廻らされている人達も見た。
 気合が緩むと戦にならぬ為なのか、中学生の私には気の毒に思えて仕方なかった。

 今でもスポーツや相撲の世界にはある鍛えかも知れないが、望まなく召集された人間も一様に試練を受けたのは、ひ弱な私には軍の恐さの一面に見えた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

水と水兵と先輩(父のノートから)

 確か空母準鷹に行った時の事だった。

 工員さんから「おい水筒に水を汲んで来いといて呉れ」と頼まれ、水汲場を探して行くと沢山の水兵さん達が水汲みに来ていて、一寸水をこぼすと、傍の上官から「水一滴の大切さが分からんのかー!!」と竹で叩かれている。後でビビリ乍ら待っていると横から「何だ、お前呉一中の生徒カー!!」と声がする。「こんな所で何をしとる、一寸来い」と士官室に呼ばれ、「オイッ、これに冷却水を汲んで来てやれ」と先輩の士官の計らいに会って嬉しく、水兵さんが可哀そうだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

艦船工事、通い船(父のノートから)

艦船工事に行った艦船

 航空母艦が多く、瑞鳳、瑞鶴、海鷹、準鷹、葛城、戦艦では大和(仮令後部に1日だけだが乗る機会を得た)。

通い船

 軍艦はドッグに入る以外は直接接岸せず港の沖のブイに繋れて出船姿勢をとっていた。故に工場から軍艦へは通い船で、工員や道具辨当等を運んだ。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

海に落ちた友人と弁当(父のノートから)

 油かすが大半の飯や、塩水炊きの魚や玉ネギのおかずになって来た弁当も、艦船工事に出向いている工員さん達のエネルギー源…少なくとも空腹癒やしのお貴重な食糧であった。

 アルマイトのおかず箱、弁当箱を複数人数分、運搬用木箱に詰めて艦船の工員さんに届けるのも勤労学生徒の仕事だった。通船で或空母のタラップに接近、友人が運搬箱を持ってタラップと船端の両方に足をかけた時、波で船が離れ始め、友人は足を拡げざるを得ず、限界が来て弁当と共に海へドボン、友人は助けたが弁当はユラユラと沈んで行った。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから