海に落ちた友人と弁当(父のノートから)

 油かすが大半の飯や、塩水炊きの魚や玉ネギのおかずになって来た弁当も、艦船工事に出向いている工員さん達のエネルギー源…少なくとも空腹癒やしのお貴重な食糧であった。

 アルマイトのおかず箱、弁当箱を複数人数分、運搬用木箱に詰めて艦船の工員さんに届けるのも勤労学生徒の仕事だった。通船で或空母のタラップに接近、友人が運搬箱を持ってタラップと船端の両方に足をかけた時、波で船が離れ始め、友人は足を拡げざるを得ず、限界が来て弁当と共に海へドボン、友人は助けたが弁当はユラユラと沈んで行った。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

広島のブラジル(父のノートから)

 お父さんがたまに広島へ行く事があった。そんな時は大抵二つ三つ用事をまとめていた。それでも”連れてってやる”と云われるのは嬉しくって、とにかくほいほいついて行った。例えば福屋の横を通って銀行の様な所(後で考えると株屋だったかも)に寄り、本通の下駄屋へ行って十日市のポンプ屋へ修理の事で辿りつく頃はもう歩くのはいや、と思った。

 本通りから十日市の方へ抜ける道は電車道を渡る頃から、次第に人気が少くなり、道巾も細くなって、広島の路地裏と云った雰囲気もあった。

 その辺にブラジルと云う食堂があって「用事が済んだらあこの食堂に入ろう」と云われると重い足が一番喜んだ。長い用事の後、待望のブラジルに入るとぷーんとコーヒーの香りがして、カーテンの様なつい立で仕切られた席につくと、西洋と云うのはこんな所ではないかと見廻した。後で考えるとお父さんの「陳列館…」と云う言葉が耳に残っているから、原爆ドームのすぐそばだったに違いない。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
小学校にあがる前:昭和9-10年ごろ?

魚と蟹と手押車(父のノートから)

 𠮷浦(注:呉市𠮷浦)の漁師さん達は特に蟹をとるのが上手だったのだそうな。これは後でお父さんから聞いたことで。
 
 子供の頃は手拭を頭に巻いたおばさんが、手押車の中に活きの良い魚や蟹を入れて売りに来てたのを家から出て行って見た。「サカナー、イリマヘンカ、カニャー、イリマヘンカ」と遠くから呼び声が聞えて、ゴロゴロゴロと鉄の車輪をつけた木の手押車の音が響いて来た。

手押車の上はまな板代わりになっていて、その上でメバルなどをさばいていた。とったはらわたは、そばの畑に放り投げられて肥やしになることもあった。

 お祖母さんは佛さんの精進の日に肉魚は食べなかったから、車を呼び止める日は限られていた。車は上が半分蓋が開く様になっていて、中から魚を掴み出したら「今日は蟹も生きちょりますが、メバルも活きがエエンですで」と板の上ではねさせた。そう云えば、私は苦手だったが、メバルの様な白身の魚の煮付けが多かった様に思う。然し、何たって蟹が一番、甲羅が菱形をしてて長径が20cm位、脚は短いが、胸厚が厚く、おばさんが甲羅をはさんで持つと、バタバタと脚を動かし眼の近くから泡をふいた。沸した鍋湯に抛り込まれた蟹は三日市等への土産となった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
昭和8年〜昭和14年?ごろの思い出。
図キャプションは本人の解説。