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戦中の勤労動員:工場生活の各段階(父のノートから)

1.訓練段階?
 工場側も素人の生徒の受入には苦労した様だ。
 先ず鉄板を切り、ヤスリで所要の形に仕上げるのに必要な基本作業が、ハツリとヤスリがけだ。

 ハツリは図の様に約2mm厚位の鉄板を、切りたい線に合わせてバイスに挟み、タガネをあてて頭をハンマで叩く。近くからハンマを振り降ろせば、タガネの頭に当る確率は高いのだが、力が弱いから大きく振りかざして、ガンとタガネを打つ訓練をする。

ハツリのやり方

 ベテラン工員の中には之が上手な人が居て「彼を見習え」と云われて、大きく振り上げてゴツンとやるとタガネよりそれを握っている手に当った。当分親指は傷だらけだった。

 ヤスリがけは削る鉄材の上にヤスリを当て、左手で先の方を下に抑え、右手で握った柄を押すが、ヤスリが水平に移動しないと平に削れない。常に水平移動を保ちつつ、往きは力強く押し、帰りは左手圧力を抜いてを繰り返す。

バイスを使ったヤスリがけ

【スコヤ】
 直角ゲージ(スクウェア)の事だが、直角精度、平面精度も出すための基礎加工技術を習得するのに最適課題の作品である。

スコヤ

 何れにしても素人の中学生に何をやらせようか、工場幹部もお守りに四苦八苦した様だ。定盤、ベンガラ、シカラップ(スクレーパー? 金属削表機)等による平面仕上げ技能を習得した形*。

*注:定盤は鉄製の精密な平面台。定盤の上にベンガラをふりまいてスコヤを接触させると、凸のところには紅がつくが、凹のところにはつかない。そこで凸の部分だけシカラップで削る。これを繰り返して、精密な平面に仕上げる。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
昭和19-20年の話(注は本人からの聞き取りをもとにつけた)

戦中の勤労動員:弁当の中身、艦船工事(父のノートから)

【辨当】
 家から初めは持って来ていたが、だんだん米不足になり、工場で出るのなら、それを食べて貰わんと…と云う事で皆、工場の辨当で済ます様になった。

 容器だけは0.5mm厚位のしっかりしたアルミ製で御飯用(150×100×30mm位)おかず用(100×100×25mm位)。御飯は大豆入豆メシからメシ豆(大半が豆)になり終戦近くにはその豆が豆カスになって行った。
 お数は大抵小魚、もやし、たまねぎの組合わせであったが、それも味付けが塩水だけになった様に水っぽくなって行った。
 家に帰っても芋めしから、メシ芋になり、芋入りおかゆと御飯は変って行った。

2 艦船工事
 艦船工事は極めて少数の日本人が経験出来なかった貴重な体験であった。と云うのが航空廠で航空機の生産に携った人は多いだろうが、飛行機の仕事が軍艦にあるとは考えつきにくい程珍しい仕事であった。

西側から呉港を臨んだところ。手前が呉湾の西側、新宮にあった第十一航空廠兵器部。対岸は鎮守府と呉工廠。湾内に艦船が停泊している。

 然し航空機の時代、一寸目を転じると、航空母艦は飛行機を積み、発着させる軍艦であり、又戦艦でも巡洋艦でもカタパルトを積んで飛行機を飛ばす様になって来ているのだ。
 だから飛行機の発着に関係した機器の設置修理は艦船工事となった。
 一戦を終えて又一戦を交えるために準備する軍艦が呉軍港に停泊している。ドックに入らない限りは陸から離れた定位置の部位に繋留されて、いざと云う時は何時でも出陣出来る様に所謂“出船”の体勢をとっていた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

八つ折りの歌(父のノートから)

昭和18年4月-20年

 先の頁にも記した様に学生も次第に業を離れ工場に軍隊に戦場に駆り出されて行った。殆んどの者が「報国」との信念で出て行った。私達は第十一航空廠の兵器部で航空機搭載艦の設備を作る工場に通った。確か朝七時始りで六時過ぎに家を出、約二km余の峠道を歩くと、徴用工員の隊列に会った。16〜50才位迄、兵役検査に受からなかった人達が、中には家族と離れて、所謂る徴用されて来ていた。
 その人達も一応隊列を組んで工場迄行進なのだが、履き物が「八つ折り」であった。靴が不足し、草履の裏に分割された木が付けられ、一応足の動きに沿って曲った。行進の足音はザックザックでなくガチャガチャ、ガチャガチャと不揃いな哀愁の響であった。

 細馬芳博(昭和4年生)のノートから

甲板整列(父のノートから)

 或空母で水兵さんが2-3人並ばされていた。

 何故か分からなかったが、工員さんに聞くと要は「タルンドル」と云う事で、並ばされ、上官らしいのが”直心棒”と書いた木刀で尻をどやしていた。更に飛行甲板の廻りを何回か駆け足で廻らされている人達も見た。
 気合が緩むと戦にならぬ為なのか、中学生の私には気の毒に思えて仕方なかった。

 今でもスポーツや相撲の世界にはある鍛えかも知れないが、望まなく召集された人間も一様に試練を受けたのは、ひ弱な私には軍の恐さの一面に見えた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

水と水兵と先輩(父のノートから)

 確か空母準鷹に行った時の事だった。

 工員さんから「おい水筒に水を汲んで来いといて呉れ」と頼まれ、水汲場を探して行くと沢山の水兵さん達が水汲みに来ていて、一寸水をこぼすと、傍の上官から「水一滴の大切さが分からんのかー!!」と竹で叩かれている。後でビビリ乍ら待っていると横から「何だ、お前呉一中の生徒カー!!」と声がする。「こんな所で何をしとる、一寸来い」と士官室に呼ばれ、「オイッ、これに冷却水を汲んで来てやれ」と先輩の士官の計らいに会って嬉しく、水兵さんが可哀そうだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

艦船工事、通い船(父のノートから)

艦船工事に行った艦船

 航空母艦が多く、瑞鳳、瑞鶴、海鷹、準鷹、葛城、戦艦では大和(仮令後部に1日だけだが乗る機会を得た)。

通い船

 軍艦はドッグに入る以外は直接接岸せず港の沖のブイに繋れて出船姿勢をとっていた。故に工場から軍艦へは通い船で、工員や道具辨当等を運んだ。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

海に落ちた友人と弁当(父のノートから)

 油かすが大半の飯や、塩水炊きの魚や玉ネギのおかずになって来た弁当も、艦船工事に出向いている工員さん達のエネルギー源…少なくとも空腹癒やしのお貴重な食糧であった。

 アルマイトのおかず箱、弁当箱を複数人数分、運搬用木箱に詰めて艦船の工員さんに届けるのも勤労学生徒の仕事だった。通船で或空母のタラップに接近、友人が運搬箱を持ってタラップと船端の両方に足をかけた時、波で船が離れ始め、友人は足を拡げざるを得ず、限界が来て弁当と共に海へドボン、友人は助けたが弁当はユラユラと沈んで行った。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

広島のブラジル(父のノートから)

 お父さんがたまに広島へ行く事があった。そんな時は大抵二つ三つ用事をまとめていた。それでも”連れてってやる”と云われるのは嬉しくって、とにかくほいほいついて行った。例えば福屋の横を通って銀行の様な所(後で考えると株屋だったかも)に寄り、本通の下駄屋へ行って十日市のポンプ屋へ修理の事で辿りつく頃はもう歩くのはいや、と思った。

 本通りから十日市の方へ抜ける道は電車道を渡る頃から、次第に人気が少くなり、道巾も細くなって、広島の路地裏と云った雰囲気もあった。

 その辺にブラジルと云う食堂があって「用事が済んだらあこの食堂に入ろう」と云われると重い足が一番喜んだ。長い用事の後、待望のブラジルに入るとぷーんとコーヒーの香りがして、カーテンの様なつい立で仕切られた席につくと、西洋と云うのはこんな所ではないかと見廻した。後で考えるとお父さんの「陳列館…」と云う言葉が耳に残っているから、原爆ドームのすぐそばだったに違いない。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
小学校にあがる前:昭和9-10年ごろ?

魚と蟹と手押車(父のノートから)

 𠮷浦(注:呉市𠮷浦)の漁師さん達は特に蟹をとるのが上手だったのだそうな。これは後でお父さんから聞いたことで。
 
 子供の頃は手拭を頭に巻いたおばさんが、手押車の中に活きの良い魚や蟹を入れて売りに来てたのを家から出て行って見た。「サカナー、イリマヘンカ、カニャー、イリマヘンカ」と遠くから呼び声が聞えて、ゴロゴロゴロと鉄の車輪をつけた木の手押車の音が響いて来た。

手押車の上はまな板代わりになっていて、その上でメバルなどをさばいていた。とったはらわたは、そばの畑に放り投げられて肥やしになることもあった。

 お祖母さんは佛さんの精進の日に肉魚は食べなかったから、車を呼び止める日は限られていた。車は上が半分蓋が開く様になっていて、中から魚を掴み出したら「今日は蟹も生きちょりますが、メバルも活きがエエンですで」と板の上ではねさせた。そう云えば、私は苦手だったが、メバルの様な白身の魚の煮付けが多かった様に思う。然し、何たって蟹が一番、甲羅が菱形をしてて長径が20cm位、脚は短いが、胸厚が厚く、おばさんが甲羅をはさんで持つと、バタバタと脚を動かし眼の近くから泡をふいた。沸した鍋湯に抛り込まれた蟹は三日市等への土産となった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
昭和8年〜昭和14年?ごろの思い出。
図キャプションは本人の解説。

劇団・地点「三人姉妹」のこと(KAAT 神奈川芸術劇場, 2019.07.10)

 地点の三人姉妹を見てきた。圧倒的だった。

 もう十数年前、初めて地点のチェーホフを京都で見たときから、この劇団の公演を折りに触れて見ているのだけれど、前回の「三人姉妹」KAAT公演は見逃していた。びっくりした。今や、劇団員全員の個性が途轍もなく突出してきて、もう三人姉妹が組んず解れつしながら喋ってるところとか、頭がどうかしそうだった。安部聡子、石田大、伊東沙保、小河原康二、岸本昌也、窪田史恵、黒澤あすか、小林洋平、田中祐気、誰もがすばらしかった。

 神奈川芸術劇場の広い舞台を横切るように、透明で頑丈な壁。そこに俳優たちがときにはへばりつき、ときには体ごとぶつかっていく。1番後ろは舞台に備え付けの鏡、その向こうには観客席も写っている。俳優たちがどしんと壁にぶつかり、遠い観客の姿も揺らされる。

 そして、壁を人力で動かす。常に人力だった、この劇の大半で、俳優たちは地べたを這いずりまわるか壁によりかかっているのだが、その彼らが、人力で、思い立ったように壁を動かしていく、透明な壁を。そしていくら人力で動かしても、この世の中は変わらない。いくら人力で動かしても、いくら地面を這いずりまわって、誰かとくっついたり離れたりしても、この生の意味がわからない。 しかし壁を動かすのだ。革命だ、どうしようもない生の。

 いつか、もっと、この生が楽になるのだろうか、誰かが楽にしてくれるんだろうか。そういう願いは、叶えられる事は無い。いくら組んずほぐれつしても、わたしたちの生は報われることがない、いくら声をからしていくら会話をしても、この生は報われることはない、なのに、わたしたちはどうして、声を出すんだろう。

 ドアが叩かれる。壁が叩かれる。ラストのドアを叩く音は、100年前から響いていたように聞こえた。100年前からドアを突き破って、この現在に、叩く音だけが聞こえているように見えた。それぐらいすさまじかった。冗談じゃない、ここでのたうち回っているこの生はここで終わるなんて、何の意味もない諍いで、この生が終わるなんて、国と国との諍いに、いつ呼び出されるかもわからずのうのうと暮らしていたら、いきなりズドンとやられてそれっきり。冗談じゃない。冗談じゃないということを、100年前にドアで叩いたのが、チェーホフだった。そのことを、この劇は一気にわからせてくれる。

 つっかえながら、「○○する、わけじゃない」「○○、べきはずはない」、肯定文を言った後に「のじゃない」と否定する日本語の構文、それを存分に活かして、肯定で止めて、肯定を宙に浮かせて、それをズドンと否定する。これは日本語だけれど、チェーホフだ。「三人姉妹」に本当にこんな可能性があったっけ、あの台詞はこんな風に声になりうるんだっけ、帰りの電車の中でずっと、文庫本を読みたくてしょうがなかった。夜中まで空いてる本屋にたまたま置いてあった神西清訳の文庫本を買って帰り、書棚を見たら、全く同じ本がすでにあった。どうやら十数年前、地点を初めて見たときに、自分が買ったものらしかった。