長島有里枝展 自撮りにおじゃまする感触

 東京に行った空き時間に東京都写真美術館で行われている「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」に行ってきた。

 実は長島有里枝の写真をきちんと見るのは初めてで、初期の家族写真も最近作の縫うことをテーマにした作品もとてもよかったのだけれど、けっこうあとからじわじわ思い出されたのが、スライドショー仕立てで映写されていたセルフポートレート集だった。

 一般に自撮りの写真では、多くの場合、腕が写っていたり、姿勢が少し半身に寄っている。だから自撮り写真を拡大すると、その人の腕に半ば抱かれるような感じになる。

 実を言うとわたしは、そういう位置から撮影者の表情を見るのは、あまり得意ではない。というのも、自撮りをする人はたいてい、スマホや携帯で自分の顔をモニタしながら撮影しているからだ。そうした表情の多くは、自分の表情筋とモニタとの相互作用の果てにその人が納得した結果としての表情であり、そこには他人の入り込む隙間がない。なのにその人の腕は撮影の都合上こちらに伸びており、見ているこちらは、ちょっと抱かれている。その人は抱くつもりもないのに。

 長島有里枝の自撮り写真を見て、そういう違和感がないのに驚いた。彼女はセルフポートレートで、ときおり腕を伸ばしてカメラで自分を撮影している。にもかかわらずその表情に、モニタで自分の表情を隙を見せぬようチェックするような、自己完結したものが感じられない。開けっぴろげで、見る者を抱くように撮影されている。もしかしたら彼女はスマホなどではなく、カメラで、モニタを見ずに撮影しているのかもしれない。ともかく、ポートレート用に手持ちの表情を用いるのでもなく、かといって自分の表情をモニタするのでもなく、闊達に投げ出していて、ひどく風通しがいいと思った。

 自撮りに限らず、セルフタイマーで撮影されたとおぼしきものや、誰かの手でシャッターが押されたとおぼしきものからも同じ感触があった。カメラをセットして、カメラから離れてレンズの向こう側に移動し、シャッターを待つ。その時間にこちらもお邪魔できそうな気がする。長島有里枝の写真は見る者をセルフに招き入れる。不思議な親密さだ。ただ親密なだけでなく、彼女とわたしの親密な距離のなかで、わたしに向けられているのではない彼女の親密な表情のことを考えさせる。

 帰りに「背中の記憶」(講談社文庫)を買って帰ったのだが、これがまたしみじみとよいエッセイ集だった。とりわけ、叔父の「マーニー」について綴った文章にはやられた。自分の感情を表すのが苦手で、ついその場にそぐわないことを言ったり怒ったりする人のそばにいて、その人が投げ出す表情にある、人らしさをさっと掬い上げてみせる。ああ、こんな風にこの人は写真を撮ってるのだな。


 もしかしたら、スマホのモニタを見ずに自分を撮ったら、少しはマシな写真が撮れるのではないか、と思いつき、何枚か撮ってみたら、なんだかわたしは眠たげだった。しかし、モニタを見ながら構えて撮ったときより、なんだか気ままそうで、悪くないなと思った。