吉野、釜ヶ崎、西行

 今日は上田假奈代さんと誠光社で釜ヶ崎の話をした。

 最初に声の話をしておいたのがよかった。假奈代さんが十代の頃、吉野山で木に向かって古典を朗読してたら「声が見えた」と言うので、それはふと西行の「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」を思い出して、それって西行が木の梢や雲を見るうちに身も心もあくがれ出でる話に似てるなあという話をしたのだが、あとで、釜ヶ崎でビールの缶ハサミで切っていろんなカラクリを作るからくり博士のおっちゃんの話になり、そのからくり博士が、通天閣が自動的にビールを飲むカラクリを作ったという話をきいて、「その人、西行!」って思わず言ってしまったのが今日のヒット。通天閣は釜ヶ崎の梢。

 声は我が身を放つ。その放たれる我が身は、誰に聞きとどけられるように放たれるのか。

 わたしたちはつい、一人語りのおもしろさや巧みさを「表現」と呼ぶけれど、語りは一人では始まらない。それがいわゆる語り芸になる前に、誰かに声で語る気になること、語りを聞きとどけることは、それはすでに表現のたねではないのか。釜ヶ崎で誰にも過去を語らなかった人が、誰かに電話をかけ、声で語り出すときがある。語り手だけに属するのでも聞き手だけに属するのでもない声。そういう話になった。

 普段は釜ヶ崎の話と表現の話は別々になってしまうんだけど今日はそれがくっついたのでよかった、とあとで假奈代さん。


 土地の記憶について。

 いまの釜ヶ崎近辺は明治前期は田んぼだったのだが、明治36年(1903年)に内国勧業博覧会を行うため、名護町(いまの日本橋界隈)に住んでいた人たちを立ち退かせたことで、釜ヶ崎に木賃宿が形成されたという(加藤政洋「大阪のスラムと盛り場」を白波瀬達也「貧困と地域」から孫引き)。そのあと、1970年の大阪万博で日雇い労働者の流入によって釜ヶ崎はまた変容する。假奈代さんをはじめ、内国勧業博覧会の跡地にできたフェスティバル・ゲートで活動していた面々がやがて西成でさまざまなプロジェクトを始めることまで含めると、この地は博覧会によってさまざまな影響を被ってきたのだとも言える。

 天王寺から天下茶屋まではかつて南海電車天王寺線が斜めに走っていたのが、いまはあたかもこの地域の縫い目のようにフェンスで囲われた地帯となって、街のあちこちに破調をもたらしている。たとえば動物園前一番商店街の真ん中を斜めに横切っているフェンス地帯がその典型だ。ココルームの裏には意外に広い庭があるのだが、それは実はこの鉄道跡に接しており、変わった形になっている。また萩ノ茶屋の三角公園もこの鉄道に沿った形で「三角」になっている。そういう話もイントロでちょっとやった。