『ゴドーを待ちながら』の静かに狂ったおもしろさは、いったん気づき出すとそこかしこに発見できるのだが、それは一つの発話にあからさまに表れているというよりは、発話と発話の関係にさりげなく埋め込まれている。たとえば次の部分のように。
ウラディミール:ゴドーのところで働いているのかね?
男の子:はい
ウラディミール:君によくしてくれるかね?
男の子:はい
ウラディミール:君をぶたないかね?
男の子:はい、わたしをぶたないです
ウラディミール:誰をぶつのかね?
男の子:わたしの兄をぶちます
ウラディミール:ああ、お兄さんがいるのかね
男の子:はい
ウラディミールの「誰をぶつのかね?」という発話がまずおかしいのだが、なぜおかしいかといえばそれは、「君をぶたないかね?」という発話を遡っておかしくさせるからだ。なぜ「君をぶたないかね?」があとから遡っておかしくなるかといえば、この質問は最初、単にゴドーがやさしいかどうかをきいているように聞こえるからだ。ところが「誰をぶつのかね?」から遡ると、「君をぶたないかね?」は突然、「ゴドーはとにかく誰かをぶつようなやつなのだが、それは「君」ではないのか?」という問いとして読み替えられる。
そんな問い方は狂っている。狂っているのだが、男の子が「わたしの兄をぶちます」と答えるために、この狂った問いは図星だったことが明らかになる。しかも、ウラディミールは図星だったことには関心を示さず「ああ、お兄さんがいるのかね」とまるで別のことに注意を向ける。
こんな風にベケットは、のちの発話から遡って前の発話の狂気を明らかにする。明らかにしておいて知らん顔をする。そういうことが『ゴドーを待ちながら』のそこここで起こっている。
会話分析では当事者の発話を一行ずつ追うことで、ある時点でどのような未来が予測できるかということと、実際に未来にどのような発話がなされるかということを区別する。この、未来に対する厳格さは、分析ではわりあいよく意識されている。
一方、過去についてはどうか。過去の発話の内容は変わることはない。しかし、ある時点の発話は、その都度、過去の発話の意味を書き換える。どの行(発話のどの部分)がどのように過去の発話の意味を書き換えたかに気づかなければ、会話の深さを十分に分析したとは言えない。とくにベケットの書く会話をたどるには。