コンプライアンスは何を守るのか

 職場でコンプライアンスの研修会を受ける。コンプライアンスは法令遵守と訳されるけれど、最近はコンプライアンスという考え方の中には「法令」のみならず「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」まで含まれるのだそうだ。研修会じたいは勉強になったのだけれど、その「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に対して能動的にこたえていきましょう、というあたりでちょっと引っかかった。どうもこのところ、世の中が他人の振る舞いにやたら厳しくて、息が詰まる気がしているからだ。
 
 世間には、他人に厳しい処罰を求め、職場に電凹を集め、仕事を奪ったり辞めさせり二度と社会復帰させないことですっきりしようとする人たちがいる。仕事がなくなるということがどういうことか、養うべき家族がいて路頭に迷うということがどういうことかを想像もしないで。困るのは、そういう意見もまた、「お客さまの視線」の名の下に、「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に忍び込んで来ることだ。

 法令遵守というけれど、法令は単に処罰を厳しくするためだけにあるのではない。厳しすぎる処分を求める人から当事者を守り、処罰を適切な範囲内に収める意味での「法令遵守」という考え方もある。

 もし「コンプライアンス」に「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」のようなものまで含めていったなら、そして、それらの規範の意味や程度を問わずにひたすら能動的に守っていったなら、この社会は他罰的で息苦しいものになるだろう。

 リスクマネジメントとは、リスクをゼロにはできないものとして考えるところからスタートする。誰しも間違いに関わるリスクがあり、間違いに関わった人間には、何らかの形で救いがなければならない。「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」を能動的に守る前に、それらがわたしたちの間違いのリスクを適切に許容しているかを、点検してみる必要がある。社会規範というものは明文化されておらず、目に見えない。

 最近では、SNSなどで行われる批判があたかも「世論」としてSNS内で流通したりニュースにとりあげられる場合まである。しかしネットで行われる批判とそれに対する賛意の多さが社会規範を正しく表しているという保証はない。ときに、そうした批判は一般性や持続性を欠いた単なる「炎上」として、ネットで消費されているに過ぎない場合もある。もちろん、緊急性を要する処置に、Twitterなどの即時性のあるSNSが有効な場合もある。しかし人の賞罰や処分のように、急ぐ必要のない案件について、一時的なSNSの批判を考慮に入れすぎるのはどうか。事件の直後に為される批判が果たしてどれくらい「コンプライアンス」に関わるものなのか、法令遵守を唱える者は熟慮する必要があるだろう。

 さて、その研修会で、SNSを利用するときは免責文を使うこと、と学んだので、ここに、この文章は個人の意見であって組織を代表するものではないことを記しておく。この文章に限らずブログ内の文章は、すべて、個人の意見である。

伊藤重夫『踊るミシン』新装版(青)のこと

 クラウドファンディングを経て出版された伊藤重夫『踊るミシン』の新装版を読んだ。伊藤重夫の絵は80年代にかけてあちこちで見かけているはずなのだが、マンガを読んだのは初めて。神戸の垂水が舞台になっていることも初めて知った。村上知彦氏の解説に『中国行きのスロウ・ボート』という一節があって、そうだ、80年代のぷがじゃの表紙に村上春樹の文章が載ったことがあったなと思い出した。

 一ページの中に複数の場面が割って入ってくる。それが速読を許さない。場所と場所、ことばとことばの配置がページの中で馴染むまで、目をそのページに止めなければ、ただとっちらかった印象を追うばかりになる。表題作を最初の20ページくらい読んでから、これは明らかに速く読み過ぎていると気づいて、いつもよりペースを落としてゆっくり読み直してみた。それでようやく、この作品の速さが分かってきた。遅く読まなければ速く見えない。不思議な作品だ。昨夜読んで、今日は鳥男の足もとばかりが頭に浮かぶ。

 

ものを見て人はなぜギャアギャア言わなくなったか、あるいは、人はなぜものを見ずにギャアギャア言うようになったか

 休憩時間に、古山研の学生さんがいて、歌の起源とメルロ=ポンティの身体論と菅野さんの歌論との関係をあれこれくっちゃべっていたら、おもしろい論考ができそうな気がしてきた。
 それは、こんな考えである。

 ことばの指示機能から指示性を引き剥がして感情を優先したのが歌、逆に歌から感情を引き剥がして指示性を優先したのがことば。そして、ことばと歌との相補性によって音声コミュニケーションを行っているのがわたしたちヒトの特異なところ。ヒトはことばのおかげで、モノを指し示すたびにギャアギャア言わなくなった。そして歌のおかげで、モノを指し示さなくともギャアギャア言えるようになったのである。

 メルロ=ポンティの「環世界 Umwelt /世界 Welt 」という対比を使うならこうだ。
 人は環世界に対して、ギャアギャアと感情を込めずとも、静かにことばを発するようになった。ことばによって人は、環世界 Umwelt に対して感情を切り離して声を発するようになった。いっぽうで、人は環世界によらずともギャアギャア歌うようになった。それが世界 Weltである。歌はWeltとともに現れた。歌によって人は、世界 Welt に対して感情を立ち上げて声を発するようになった。
 ヒトは、喪ったものを現前として感じるときに発せられた音声を進化させた。それが、ヒトの歌。それは環世界に対してではなく、世界に対して発せられる点で、鳥の歌ともクジラの歌とも本質的に異なっている。

 歌は、ヒトが進化の過程で得た、喪する声である。

2009.9.21の日記から)

「を待ちながら」20170924

まだ公開中だから、内容には立ち入らないけれど、たくさん笑った。いや、おもしろかっただけでなくて、こんなできごとで人は笑うんやと思った。バンドだった。ロックンロール!いや、伝わってないな。ええとできごとの一端を。棒。白い棒、緑の棒、赤い棒。棒の一族。人はなぜ棒に語るのか。すまん、断片的かつ迂遠で。あのね、みんな、観に行ったほうがいいです。観ておこう。なぜなら一生は一生でしかない。棒の端から食べたら、棒の端で食べ終わるでしょう。食べ終わる前に観るべきだ。そしてこの劇、食べ終わったと思ったら腹からはみ出た棒みたいに頭に残る。なんだこのボー!公演終わったらなんか書くボー!

20170924 久しぶりに劇を

久しぶりに劇を見る前に緊張してきたな。こういう感じ、久しぶりだ。何か劇について前もって何かを知っているというわけではない。ただ、いくつかのできごとが、この劇を指し示しており、まだ霧がかったその場所にこっそり体を割り入れることが本当にできるのだろうかと思っている。

駒場東大前には喫茶店が少なく、満席のことも多い。今日は幸い空いていた。椅子に犬が座っていた。『愉快な百面相』に出てくる犬そっくりだった。

日記 20170920

考えてみたら、その日に起こったことをあれこれ頭の検閲を通さずに書くやり方はたくさんあって、ブログっていうのもそういうものの一つだったんだよね。Twitterでみんな、140字とアイコンによってどんな立場の人も同じフォーマットで話すってことに気持ちよさを感じてて、わたしもそれは気持ちいいなって思ってて、ずっと(ずっとって10年だよ)使ってたんだけど、もういいやって昨日思っちゃった。思っちゃったけど、何もかも止めるってほど極端に思い切ってるわけでもなくて、単に一つの場所に依存してるといつか足もとすくわれるなって危機感でこうやって別の場所に書いてるのね。書いてると、ああ、140字じゃない場所にはこれくらいだらだらしゃべれる空間があるんだって、発見をしてるわけ。

こういうテキストをTwitterさよならとか言ってるわりにTwitterに告知することについてあれこれ言う人もいるだろうけど、それがどうしたっての。わたしはTwitterにアクセスするたびにあのプロモーションとかいろいろな広告を目にしていて、それはみかじめ料だと思ってる。みかじめ払ってんだから、気まぐれにアクセスしたって何のうしろめたいものがあるものか。気ままに使って、でもそこには入り浸らないよって言うことに、なんのうしろめたさがあるっていうの。

ああ、もうそんなこたどうでもいいや。

さてはてね。わたしはいま、人生で初めてきた羽犬塚というところで、たまたま泊まってる宿のむかいにある「集家」っていう飲み屋が、なんか夜目に店構えがおもしろいのでふらりと入ったら、ここがモルトをけっこう置いてあるし、焼き鳥を頼んだらもうたまらん美味しさで、え、なんでこんな焼き鳥おいしいんですかってたずねたら、実は福島の相馬にいたんですって言われて、わあ、浜通りにおられたんですね、って言ったら、このあたりで浜通りってことばをきいたのは初めてですって言われて、そんでいろいろ相馬のことや熊本のことを話したのでした。まあこういうことって、まだ袖振り合うも多生の縁くらいのことで、まだこの土地のことをわたしはちっともわかっちゃいないんだけど、でもわかるためのエントリーとしてはいいじゃないか。ビギナーズラックってことがあるのだ。ある場所のことを考えるいちばん最初のとっかかりにいい出会いがあるかどうかはとても重要だ。で、ラックから過去へと遡るのだ。ラックを引き当てた自分の嗅覚はまんざらでもないなって。そうやってわたしはわたしを肯定するのだ。ラックを引き当てるたびに少しずつ肯定していくのだ。足もとは危ういぞって思ってるけど。それは地震の国に生きてるからそういうもんだと思ってる。

かっぱよっぱらった

さーて酔っ払ったから酔っ払ったようにかくぞ。かっぱ酔っ払ったかっぱやっぱ酔っ払ったとてちてた。久留米のゆるきゃら「くるっぱ」は久留米のかっぱらしい。にゃ〜。ああ140文字じゃないと大広間で酔っ払ってる感じだにゃ〜。畳の端から端までごろごろ転がってもずいぶん時間がかかる。くるっぱで言うと10くるっぱくらいしてる。くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱ。ほーら、実際声にしてみるもんだ。ただ10くるっぱと言ってもそれがどれくらいくるくるぱーなのか分からない。ほんとに10回声に出して言ってみ。ことばで目が回るから。ことほどさように声は運動なのだ。くるっぱと一回言うのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回言うのとでは違うのだ。ついでに言うと文字入力でさえ運動だ。くるっぱと一回打つのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つのとではずいぶん違う。繰り返す声、繰り返す指がくるくる同じ方向に回転することに眩暈を覚える。読む人もそうだろうと思う。かくして声に出すことと文字入力と文字読書という、いっけん異なる行為は同じ眩暈を共有するのである。文字を見てその文字を発声するニューロンは賦活するのか、それは声が即頭に浮かぶ読者と速読をむねとする近代読者とで違うのか、このあたり何か研究があるのかな、あるかもな。しかし、ニューロンの話はおくとしても、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つ行為に耽溺すべきであるし、そこに無意識に体に染みついた時間、10回ということをことさら意識せずとも、声にして唱えるともうそこに10回感覚が立ち上がる時間の感覚、その感覚にいーち、にー、さーん、しー、と唱えるときのプロソディの感覚がこっそりまぎれている数え上げの感覚のことをわたしらはもっと真剣に考えねばならぬ。そこに音声と運動の秘密は埋め込まれているはずなのだ。

Twitterさん、さようなら

 かつて、1980年代末から続いていたパソコン通信のひとつ、NIFTY-Serveが1990年代後半に終焉したころ、そこにあったさまざまなフォーラムの膨大な過去ログは一切なくなった。それには、よいことも悪いこともある。よいことは、ほじくり返されるべき過去が消えてくれたことで、悪いことは、考えるべき過去が消えたことだった。わたしはあわてて自分の書いた文章をテキスト・ファイルに収めたけれど、実際のところ、それは古いフロッピーディスクに入ったまま今まで見返されることもなく、もしかしたらこのままずっと見ないで済んでしまうかもしれない。もう誰にも読まれずに済んでほっとしているものも、正直ある。

 ただ、そのとき、ネットワークの運営側というのは、あれだけ大量の時間を費やして人々がテキストを交わした場を、あっけなく無くしてしまうことがあるのだなという認識は持った。交わされたテキストは文脈の中で初めてある意味を持つ。その文脈をまるごと消すことに、躊躇がない。

 それなら、そんな場に頼らずにきちんと自分でテキストを紡げばいいようなものだが、わたしは自分でもおかしいくらい、書くとすぐに反応を欲しがるたちで、読んだよとかいいねと言われるとすぐに調子に乗って次を書いてしまうような単純な人間である。単純な人間だからこそ、そういう反応を提供してくれる場や文脈への依存度は高いし、そうした場にどっぷりつかって抜けられなくなることの危うさも感じている。

 そんなわけで、Twitterという場はずいぶん便利に使わせてもらってきたが、一方で、いざとなったらそういうわたしが費やした人とのやりとりなぞ、必要があればすぐさま消し去るような場でもあるのだろう、ということはいつも感じていた。これはTwitterに限ったことではなく、世のさまざまなSNSにも、同じことを感じている。

 その恩恵と危うさのバランスをどう取るかは人によってそれぞれだと思うが、わたしがもうこれは潮時だなと思ったのは、菅野完さんのアカウントが永久凍結されたという話を知ったときだった。彼とは面識もないし、彼の文章には苛烈な表現があちこちにあると思っているし、必ずしも思想を同じくしない。けれど、彼の発言を、理由を明らかにすることなくまるごと「永久」なんて名の下に「凍結」してしまうやり方には正直ぞっとした。なるほどTwitterの規約を見れば、彼の発言が抵触しそうなことはあれこれある。しかし、どんな規約にも解釈ののりしろというものがあり、実際の境界は、適用の理由を明らかにすることによって初めて明らかになる。わたしがぞっとしたのは理由もなく規約の境界を示し、人にあれこれ理由を推測させるそのやり方である。

 まだ事はすべて明らかになったわけではないし、これからTwitter社は何らかのコメントを出すかもしれない。それぞれの人のそれぞれの使い方があるだろうから、他人のことはとやかく言わない。ただ、わたしはこれをそろそろ潮時だと思った。ソーシャル・ネットワークに関心を持つ者としてアカウントは残しておくし、ときどき覗いたり告知もするだろうけれど、これからはTwitterからは軸足をはずして、こんな風に書くことが増えるだろう。まあ、このブログのサイトも過去に何度かクラッシュしたりしているし、わたしの支払いが止まれば停止される。それまでゆるゆると、ということだ。

Deacon Bluesについて(M. Myers “Anatomy of a Song” より)

 ウォール・ストリート・ジャーナルで健筆を振るうマーク・マイヤーズの「Anatomy of a Song: The Oral History of 45 Iconic Hits That Changed Rock, R&B and Pop.」はタイトル通り、ロック、R&B、ポップ史に残る45曲を取り上げたもので、一曲一章で構成されており、それぞれマークによる簡単な紹介のあとに当事者のインタビューが収められている。インタビュー自体はさほど長い分量ではないけれど、ミュージシャンのことやアルバムのことを幅広くきくのではなく一曲を集中的に取り上げることで、当事者の思わぬひらめきがあちこちに顕れており、読み応えがある。

 この本、選曲がまたぐっとくるのだが、どんな曲が入っているのかは、マーク自身のwebを参照してもらうとして、ここではスティーリー・ダンの「ディーコン・ブルース」の章から、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーのやりとりをいくつか訳出してみた。サウンド作りについてもサックスのピート・クリストリーブ自身の発言など、ここに訳出した以外にもいろいろおもしろいことが書いてある(そしてあちこちのブログに出典なしで引用されている)ので、興味のある方は原著をあたるといいと思う。

 途中でウォルター・ベッカーが「天窓」についてさらりと発言していてはっとさせられる。この天窓のイメージは、まるでフェイゲンの「ナイトフライ」のラストではないか。確かにこの二人は、どれがどちらの考えなのか分かちがたいほど、イメージを分かち合っている。

 


フェイゲン:ウォルターとぼくで「ディーコン・ブルース」を書いたのはカリフォルニアのマリブで、1976年にはそこに住んでたんだ。ウォルターがぼくの家に来て、二人でピアノの前に座ったりしてね。ある日ぽつんとコーラスを思いついたんだ。もしアメフトのチーム、アラバマ大学なんかが「クリムゾン・タイド(真紅の潮流)」なんておおげさな名前になるなら、まぬけや負け犬にも同じくらいおおげさな名前があってもいいなってね。
ベッカー:ドナルドの家は砂丘のてっぺんにあって、小さな部屋にピアノが置いてあったんだ。窓からは他の家の向こうに太平洋が見えた。「クリムゾン・タイド」ってことばはぼくたちにはただただ勝者に授けられたずいぶんとごたいそうな名前にしか思えなかった。「ディーコン・ブルース」はそれに匹敵する敗者向けの名前だったんだ。
フェイゲン:ウォルターが来て曲を作りながら物語にあうようにさらに詞を埋めていったんだ。そのころ、ロサンゼルス・ラムズとサンディエゴ・チャージャーズのラインマンにディーコン・ジョーンズって選手がいた。ぼくたちは熱心なアメフト・ファンってわけじゃなかったけど、ディーコン・ジョーンズの名前は1960年代から70年代はじめにかけてよくニュースで口にされていて、ぼくたちは名前の音が気に入ってた。「クリムゾン」と同じ二音節でちょうどよかったしね。ウェイク・フォレスト大のデーモン・ディーコンズとか他の負けがこんでるチームとはまったく関係ないよ。ぼくらがその頃アメフトでなじんでた唯一のディーコンが「ディーコン・ジョーンズ」だったんだ。
ベッカー:他の作曲チームとは違って、ぼくらは曲と詞を同時に作っていくんだ。ことばと音楽は別々じゃなくて、一つの思考の流れなんだ。たくさんのリフをいったりきたりして、二人とも結果に満足がいくまで、ことばと音楽をすりあわせていく。二人ともいつも考え方やユーモアのセンスが似てるからね。

(中略)

フェイゲン:「ディーコン・ブルース」は郊外に住んでるミュージシャン志望の男の話だと思ってる人も多いだろうね。実を言えば、男が夢を達成したかどうかは定かではない。楽器さえ吹いてないかもしれない。これはある種のサブカルチャーから来た郊外に住む男の幻想なんだ。ぼくたちの歌にはジャーナリスティックなものが多いけど、この曲はもっと自伝的で、ぼくたち自身がかつて思い描いていた夢のことなんだ。ぼくはニュージャージー、ウォルターはニューヨークのウェストチェスター・カウンティ、二人とも場所は違うけど郊外育ちだからね。
ベッカー:ディーコン・ブルースの主人公はトリプル級の負け犬、LLL級のLoserなんだ。夢をかなえた奴のことじゃない、夢破れた破れ者の破れかぶれな人生のこと。
フェイゲン:この曲は「今日こそ the expanding man の日/あの幻はおれの影、かつてはあそこにいた」と始まるんだけど、この「the expanding man」ってのはアルフレッド・ベスターの「破壊された男 The Demolished Man」から思いついたって感じかな。ウォルターもぼくもSFファンだからね。歌の主人公は、自分が進化のレベルをあがっていくとともに、意識や精神の可能性や人生の選択肢を「拡張 expanding」できると空想してるんだ。
ベッカー:男自身の来歴はたいしたことはない、だから彼にがんと叫ばせてちょっとした未来予想図を与えてやったのさ。
フェイゲン:たとえば郊外で両親の同居してる奴がいるとする。31歳のある日、彼は目覚めると、生き方を変えてガツンといくと決める。
ベッカー:あるいは、ガレージに作った自分の部屋に天窓を作ろうと穴を開けたら、心が波立って、天啓を得るとか。一人チェスで本の通りにコマを動かしていてふとズルをするとか。何か不思議なことが起こって、突然、自分のまわりや人生のことに気づいて、自分の選択肢について考え出すんだ。この曲に「fine line」って出てくるだろう。「問うても無駄さ/キスを投げてさよならしておくれ/今度こそやってやる/fine line を越える覚悟はできている」のfine line ってのが敗者と勝者の分かれ目なんだ、少なくとも彼の決めたルールではね。彼は明らかに以前越えようとして、うまく行かなかった。

(中略)

ベッカー:ディーコン・ブルースはぼくには特別な曲。一日中録音をミックスして、いったん出来上がったら何度も何度も聞き返したくなった。あんなことはあれっきりだ。何もかも完璧な音だった。音楽自体も、登場する人物も、楽器の鳴り方も、トム・スコットのタイトなホーン・アレンジもぴったりだ。
フェイゲン:ディーコン・ブルースも他のすべてのレコードの場合も、ぼくたちが正しかったと思うのは、商業的におもねろうと決してしなかったことだね。自分たちのために作る。今もそうだ。

Marc Myers “Anatomy of a Song: The Oral History of 45 Iconic Hits That Changed Rock, R&B and Pop. ” 2016 より。


 

キャラバンを見るまで13’31”

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(16) 93/10/13 02:04

 1曲めでいきなり違和感を感じずにはいられなかった。ぼくはいままで小山田圭吾と小沢健二のどちらが歌っているのかなんて考えるほど熱心なフリッパーズ・ギターのファンではなかったし、このソロアルバムにも、あの細いけれど妙に透明感のある声の重なりを予想していたわけだ。

 「犬は吠えるがキャラバンは進む (TOCT-8183)」

 で、とりあえず思ったのは、「声が妙に低くて太い」ということで、さらに「すごく下手っくそだ」ということで、そのあまりに不安定な音程がぼくの神経を確実に逆撫でした。歌の下手さについてどうこう感じることなど滅多になくなったけれども、久々に癇に触る歌声だった。
 その声によってあちこちで突き出してくる独特の単語。急ぎすぎていることば。毎日毎日毎日という英語がつたない発音で、性急に歌われる。かつてフリッパーズ・ギターはアルバム一枚まるまる英語の詞を、ごくすっきりと歌ったこともあった。それがウソのようだ。
 「向日葵はゆれる」を聴きながら、なんだこれは、まるで吉田美奈子ではないかと思う。それにしてはやけにあっさりと終わるように感じる。そのように感覚はまるで落ち着かない。やがて、「天使のルール」が鳴り始めても、なにかもったりとしたリズムだと思うくらいで、ジェイク・H・コンセプションのあまりに快適なサックスソロにいたっては、なにかがっかりしたような感じさえする。そのまま仕事をすることにする。

 で、2度めのサックスソロにさしかかる頃、急に「あれ」が来た。

 ある種の曲を聴いたときに感じる否応のない推進力。どうあろうと進んでいるとしかいいようのないリズムの力。神様が現れ消えて、しかしその神様に関することばどもは吉田美奈子のある種の歌のように、あるいはフライング・キッズのある種の歌のように、視点を変化させ、確かな距離を持って響いてくる。それにしてもそれらに比べて、まったくなんて下手っくそで無防備な声なんだろう。

 そして、その無防備さとか、個人的なことどもを恥ずかしげもなく盛り込んだ詞とかを、ようやく「タフ」だと感じるようになる。

 そして何回か聞き直すうちに、若すぎる声に相変わらずあちこちでつっかかりながらも、ときおりそれがつっかかりとしてではなく、ある種の輝きとして感じられることがあることに気づく。あの、毎日毎日毎日、ということばすらも。

 たぶん個人的なゴスペル、というおおよそありえない表現に、ぼくは会ってしまったのだろうと思う。そしてそのように口にされる「神様」ということばが放つ強さについて、考えなければならないだろう。