「わろてんか」をなぜ明日も見るか

ちりとてちん、ドイツ人、土下座、チョコレート、何本もの酒、倉庫、チンピラ、手紙…ほんの10回ほどの間に何ら深みを与えられることなく使い捨てられ燃やされてきたヒトやモノやエピソードたち、倉庫の火事がただの家族騒動にしか見えないのは、火事が深刻だからではなく、このドラマがこれまで番頭や女中頭をはじめ問屋の面々についてろくな描写をしてこなかったからであり、物語の屋台骨を欠いた問屋で父親が孤立し兄が倒れるのも無理はなく、この調子ではいま思い入れしそうになったヒトやモノやエピソードも早晩使い捨てられるに違いない、次は何が粗末にされるのだろうと、もはやヤケクソ気味に覚悟しているのだが、その中にあって、ほとんど後ろ盾のない曖昧な役どころを濱田岳と徳永えりがあまりにも好演している、これは焼け野原の上に演技一本で現実感を立ち上げる劇なのかもしれない、明日も見逃せない気になっている。

 

吉野、釜ヶ崎、西行

今日は上田假奈代さんと誠光社で釜ヶ崎の話をした。

最初に声の話をしておいたのがよかった。假奈代さんが十代の頃、吉野山で木に向かって古典を朗読してたら「声が見えた」と言うので、西行の「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」を思い出して、それって西行が木の梢や雲を見るうちに身も心もあくがれ出でる話に似てるなあという話をしたのだが、あとで、釜ヶ崎でビールの缶ハサミで切っていろんなカラクリを作るからくり博士のおっちゃんの話になり、そのからくり博士が、通天閣が自動的にビールを飲むカラクリを作ったという話をきいて、「その人、西行!」って思わず言ってしまったのが今日のヒット。通天閣は釜ヶ崎の梢。

声は我が身を放つ。その放たれる我が身は、誰に聞きとどけられるように放たれるのか。

わたしたちはつい、一人語りのおもしろさや巧みさを「表現」と呼ぶけれど、語りは一人では始まらない。いわゆる語り芸として成立する前の声、誰かに語る気になる声、声を聞きとどける耳は、それはすでに表現のたねではないのか。釜ヶ崎で誰にも過去を語らなかった人が、誰かに電話をかけ、声で語り出すときがある。語り手だけに属するのでも聞き手だけに属するのでもない声。そういう話になった。

普段は釜ヶ崎の話と表現の話は別々になってしまうんだけど今日はそれがくっついたのでよかった、とあとで假奈代さん。


土地の記憶について。

いまの釜ヶ崎近辺は明治前期は田んぼだったのだが、明治36年(1903年)に内国勧業博覧会を行うため、名護町(いまの日本橋界隈)に住んでいた人たちを立ち退かせたことで、釜ヶ崎に木賃宿が形成されたという(加藤政洋「大阪のスラムと盛り場」を白波瀬達也「貧困と地域」から孫引き)。そのあと、1970年の大阪万博で日雇い労働者の流入によって釜ヶ崎はまた変容する。假奈代さんをはじめ、内国勧業博覧会の跡地にできたフェスティバル・ゲートで活動していた面々がやがて西成でさまざまなプロジェクトを始めることまで含めると、この地は博覧会によってさまざまな影響を被ってきたのだとも言える。

天王寺から天下茶屋まではかつて南海電車天王寺線が斜めに走っていたのが、いまはあたかもこの地域の縫い目のようにフェンスで囲われた地帯となって、街のあちこちに破調をもたらしている。たとえば動物園前一番商店街の真ん中を斜めに横切っているフェンス地帯がその典型だ。ココルームの裏には意外に広い庭があるのだが、それは実はこの鉄道跡に接しており、変わった形になっている。また萩ノ茶屋の三角公園もこの鉄道に沿った形で「三角」になっている。そういう話もイントロでちょっとやった。

祭りと脱線

 アネモメトリの最新号で、福永信さんが探訪記を書いておられる。最初から脱線しておられて、実に共感をもって読んだ。芸術祭に行くのはどこか、見知らぬ土地に紛れ込むのに似ていて、わたしもずいぶん脱線を楽しんだからだ。何がどう脱線かは、福永さんの文章をどうぞ。

まちと芸術祭

 それで、わたしもあれこれ脱線したのだけれど、それについては、10/7発売の新潮に「風の一撃:札幌国際芸術祭から」と題して短文を記したのでよかったら読んでみて下さい。吉増剛造、砂澤ビッキ、そして毛利悠子の作品を取り上げています。

DVD版『この世界の片隅に』オーディオ・コメンタリ/キャスト編、目鱗だらけ

 DVD版『この世界の片隅に』、オーディオ・コメンタリ/キャスト編 出演:片渕須直(監督)・尾身美詞(黒村径子役)・潘めぐみ(浦野すみ役)・新谷真弓(北條サン役)がもうもう楽しく、発見が多い。物語の中に声で入り込んだ方々の視点は実に新鮮。

 たとえば駅員さんの「呉」のイントネーションについて、駅員さんらしさをとるか地元らしさをとるか。あるいは婚礼の日のキセノの「『だいじょうぶかいね』のカンペキさたるや!」とか(そうそう、津田真澄さんの突き放した広島弁は実にかっこいい)。あるいはあるいは干し柿を食べる音に対して「ちょっと干し柿食べたくなりますよねー」など。そしてもちろん、尾身さん、潘さん、新谷さんご自身の声の当て方や方言の問題、録音の過程、細かいガヤの声にいたるまで…おっと、このままだと全部書いてしまいそうなので、あとはDVDで確かめてみて下さい。

ユリイカ「蓮實重彦」特集を読みながら

あ、ここもここも、とメモを取り、かつ一方で吉増剛造の自伝にインスピレーションを得ているというのは節操がないにもほどがあるのだが、そうなってしまう。この二人は全くことばに対する感性というものが違っているし、戦後の捉え方も違っているけれど、それを、相容れぬ思想の違いというよりは、人の来歴の違いと考えている。ユリイカの「蓮實重彦」特集を読みながら。島尾敏雄は正直長すぎて過去に何度もあきらめた。安岡章太郎の正直さには感じ入るところがあった。安岡章太郎はなんとか読み通すことがなんとかできる。しかし、実をいえば詩だけでも頭の中が音でいっぱいになってしまうのだ。

「希望という名の党」、にしたらどうか

もうこれで民進党もなくなったも同然だ。いま出来合いの政策、出来合いの政敵、出来合いの「希望」にすがって小池氏についた人たちはあとで煩悶することになるだろう。煩悶せずに済む人たちはそれだけの人たちだったということで。今回どのように振る舞うかは旧(ともう書いてしまうが)民進党のそれぞれの人の考え方を表すことになるだろう。

新潮11月号(10/7発売)に展評「風の一撃:札幌国際芸術祭から」

 芸術祭を語るやり方にはいろいろあるが、わたしの場合それは、よい旅だったかどうか、というのを語るのに似ている。芸術祭の名の下に普段行かないところへ行き、そこで作品に出会い、その作品によって生みだされた自分のことばに導かれてまた別の場所へ行き、作品に出会う。そうした連鎖の果てにある一連なりの考えが見いだせたなら、それはよい旅であり、よい芸術祭だったということになるし、特段何も得られなければ、くたびれもうけだったと恨み言の一つも言うかもしれない。誰もが同じルートですべての場所を巡るというわけにはいかないだろうから、芸術祭がおもしろかった、つまらなかったといった語りについて考えるには、その語り手がどこをどうたどったのかを知らなければならないだろう。

 さて、8月17日から18日にかけて、札幌国際芸術祭の展示のごく一部を1日半かけて観たのだが、これはよい旅であり、あとで思いつきをいろいろ書き付けることになる経験だった。それがどんな旅だったかは、新潮11月号に短い文章を書いてますのでそちらを。

 また、KBS京都「大友良英のJAMJAMラジオ」を半ばジャックする形で2回分くっちゃべっていますので、そちらもどうぞ。

吉増剛造『火の刺繍-「石狩シーツ」の先へ』展について

芸術の森美術館:クリスチャン・マークレー展について