テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は

 テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は、どこをとってもやり直しのきかない過去と、現在の喜びと、そこに重なる未来の痛みとに満ちあふれている。「わたし」の心は人類の逐次的言語の鋳型で形成されており、しかもエイリアンの目的的言語のパースペクティブでその心に起こることを想起するのだが、小説はまさに、この脱臼してしまった言語で書かれており、「あなた」という代名詞も「おとうさん」という名詞も未来に属していながら、想い出の対象になる。

 この作品の最後の3パラグラフの時制はひときわ美しいのだが、その、終わりから2パラグラフめはこうだ。

From the beginning I knew my destination, and I chose my route accordingly. But am I working toward an extreme of joy, or of pain? Will I achieve a minimum, or a maximum?

 巧妙にもこのパラグラフには、過去形と現在進行形と未来形があって、現在形がない。そしてこの疑問を主人公が思い浮かべるまさにいま、最後のパラグラフには、現在形しかない。

山の端を触る

 3月に広島の江波を訪れてからというもの、「この世界の片隅に」の読み方、態度が変わってしまった。何というか、少し沈潜気味になり、それでいて少し快活になったのだ。

 江波山の端がどこかを知り、その山の端をなでることができるようになり、海神宮の位置を知り、山の端を海が洗っていたことを知ることで、わたしにとっての広島の海が、少し近くなった。気象台の場所を知り、その屋上で風を受けることで、原民喜を読むときも、大田洋子を読むときも、城山三郎を読むときも、以前とは違う空気をかぎ取るようになった。なぜか、と問われても簡単には答えられない。ただ、江波山の端で誰かが走りはじめ、あるいは誰かの船が動きはじめ、確かな空間の中でその速さが感じられるようになった。それだけのことで、物語の読みは変わってしまう。

捜すこと

混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。

(原民喜「廃墟から」より)