かえる目の12月 2018

伊那:2017年12月かえる目ツアーにて

2018年12月14日(金)渋谷 7th FLOOR
開場19:00 / 開場19:30
前売3000円 / 当日3300円
出演:細馬宏通、宇波拓、木下和重、中尾勘二

Tickets:
7th FLOOR 店頭予約:11/1(木)〜12/13(木)(16:00-22:00)
7th FLOOR 電話予約:11/1(木)〜12/13(木)(15:00-20:00 tel:03-3462-4466)
メール予約:kaerumoku@gmail.com(メールタイトルに「かえる目の12月」とご記入の上、本文にお名前と枚数を添えてお送り下さい)

結成14年、アルバムデビュー以来11年、もはやビートルズを越える歴史を持ちながら、ベテランらしからぬ危うさを保ち続けるかえる目、東京で1年ぶりのライブ「かえる目の12月」は、未発表曲を含め、年末にふさわしい曲目の数々でお送りします。

松田聖子「瞳はダイアモンド」

聞き違いは詩へのステップボード。そう考える私にとって『瞳はダイアモンド』(松本隆:作詞、呉田軽穂:作曲)は忘れられない歌だ。初めて聞いたとき、確かにこう聞こえた。「いつか固形に、変わったの」。なんというイメージ。この歌でうたわれるできごとは全編、雨と涙に濡れている。映画色の街、切れ切れににじむ美しい日々、傘から飛び出した自分の身体、その体を濡らす幾千粒の雨の矢、そのすべてが「固形」に変わる。そして、固形の究極の結晶が「ダイアモンド」。語り手は、見る者をすべて石に変えてしまうメドゥーサをも越え、手に取ることができない映像や思い出すら、思い描いただけで、握りしめることのできる鉱物にしていく…。実は「いつ過去形に変わったの?」の聞き違いだとわかった今も、この「固形」のイメージは私の頭から消えず、この曲をきくたびに忍び込んでくる。

 初期の松田聖子の特徴に、高みに昇った声をさらにきゅっと高く裏返す歌い方がある。たとえば、『青い珊瑚礁』なら、「風」の真ん中を断ち切って「かーっ」、『夏の扉』なら「フレッシュ」のど真ん中、「フレーッ」で裏返す。これらの声を出すとき、松田聖子はそれまで口を開いて張り上げていた声をさっと切り上げるように口を閉じ気味にする。それが見る者をはっとさせる。

 『赤いスイートピー』の頃から、松田聖子の歌い方はささやきかけるような甘さを伴い出して、声の裏返しはここぞというとき以外には用いられなくなった。『瞳はダイアモンド』でも、前半ではその甘い声の方がフィーチャーされている。

 しかし後半になると、彼女の声は降りしきる雨を激しくするように高くなる。「ああ、泣かないでメモリー」。人に呼びかけるのではなくメモリー=記憶に呼びかけるところが、心象風景に確かなかたちを与える松本隆の詞の真骨頂なのだけれど、呉田軽穂こと松任谷由実のメロディがまたすばらしい。彼女はここで「メ↓モ↓リー」ということば本来の抑揚ではなく、あえて「メ↑モ↓リー」という旋律をあてる。この不思議な抑揚によって、「メモリー」は、もともとの普通名詞ではなく、まるで呼びかけることのできる固有名詞、特別な友達の名前であるかのように響く。

 そして、この曲で唯一、松田聖子の声が裏返るのが最後の「瞳はダイアモンド」の部分だ。彼女は「瞳は」と言ってからさっと声を裏返し、「ダイアモンド」で急に声を甘くする。かつて「青い珊瑚礁」や「夏の扉」の頃の松田聖子は、青春のまっただ中で相手を誘うように「風」や「フレッシュ」の真ん中で大胆に声を裏返し、溌剌と歌い続けた。しかし、『瞳はダイアモンド』では、感情が結晶と化す最後の一息を漏らすように、声がさっと高みに届いて、何ごともなかったかのように「ダイアモンド」になる。ああ、やっぱりこれは「固形」の物語だ。それにしても、なんてスウィートな固形なんだろう。

再掲:パルクールとアフォーダンス(2012.12.1)

 人と人との身体関係を研究してきたユルゲン・シュトリークが記述するコロンビアのこどもたちの身体の動きは、ストリートとは何かをまざまざと実感させてくれるものだった。

 コロンビアはゲッセマナの教会の前。昼間は結婚式が行われることもある扉の前の石段が、夕暮れるとこどもたちの集う場所になり、カップルが睦み合う場所になり、携帯で話す者が束の間右往左往する場所となる。

 仲間との会話に飽きた小さな兄妹が、石段の周りをうろつき出す。兄が石塀をよじ登ると妹もよじ登る。兄が石塀を蹴ると妹も蹴る。柱にもたれかかると柱にもたれかかる。こうして兄は次々と「新しいルーティーンを試していく」。彼らはいわば、「アフォーダンスを探索し」「そこで何ができるかを『開示』していく」。 ここで、重要なのは、ただ誰かが一人孤独に環境とつきあっているだけではない、ということ。兄が動くことで、妹はいままでありふれた塀や柱に見えたものに、思いもかけないアフォーダンスがあることを発見する。

 シュトリークはこうした行為をパルクールになぞらえる。パルクールとは、階段、壁、屋根、手すりなど、街のあちこちにあるありふれた構造物を使って、ありえない方法、ありえないルートで駆け抜け、飛び越えていく運動のこと。ダヴィッド・ベルのパルクールを見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=x98jCBnWO8w&feature=fvst

 ベルの動きを見ているだけで、街の、隠されていた性質が次々と顕わになっていく。わたしたちは、ベルの身体能力にただ驚くだけでなく、そこで明らかにされるとんでもない街の姿にショックを受ける。壁は歩く方向を強制するのではなく飛び越えるためのもの。屋上は旅の終わりではなく、ギャップを飛び越える踏み台となるもの。そして手すりは歩きながらつかまるものではなく、思い切り飛んだ向こうできわどく手をかける係柱となる。  あたかもベルの動きのように、小さな兄妹の動きも、何気ない教会の構造物に隠されたアフォーダンスをあらわにし、「そこではそんなことができるのだ」ということを開示しているのだ。そうシュトリークは論じる。

 学術的なアフォーダンスの議論からしばしばコミュニケーションの問題が抜け落ちることにずっと釈然としなかったわたしは、このシュトリークの議論に胸がすく思いだった。ただわたしたちが動きさえすれば、すぐに環境の不変項が抽出され、アフォーダンスが明らかになるとは限らない。まず、誰かがそこを走り抜け、飛んでみせなければ、そもそもそこが移動できる場所だということさえわからない。そんな誰かの行為を体験したときはじめて、そのなんの変哲もない環境に、抽出しうる不変項があると意識される。ちょうど、マリオがブロックを叩くことで、そこに花があることをプレイヤーに気づかせるように。

 アフォーダンスは、世界の可能性に関する概念だ。しかし、そこにどんな可能性があるかは、単に、一個人と環境との関係に閉じているわけではない。その環境でどんな身体運動が可能かは、自分以外の他者の行為によって明らかになる。そう考えたとたんに、アフォーダンスを介したコミュニケーションの回路が開けてくる。

(2012.12.1 comics & songsに掲載)

赤毛のアン、丘を下る(再掲)

 「赤毛のアン」は、最初のものを十代の頃読んだきり、ほとんど忘却の彼方にあった。最近、英語版を読み始めたら、自分の年齢がむしろマリラやマシュウに近いこともあって、アンのみならず、年老いた二人が世界ともう一度向き合う話として感じられるようになり、おもしろく読み進めた。もちろん、アンの長々と続く話し言葉を英語で浴びるのも新鮮だった。

 読み終えてから、村岡花子訳の「赤毛のアン」の最終章を読んでみた。端正な訳だ。そしてわたしはうかつにも知らなかったのだが、実はこれは完訳ではなく、何カ所か端折られている*。たとえば、アンが墓地から丘を下るくだりがあり、村岡訳では

翌日の夕方、アンはマシュウの墓に植えたばらに水をやってから、美しいアヴォンリーの夕景色を楽しみながら丘をおりてきた。

と短く抄訳されている。村岡花子がなぜこの美しい箇所を略すことに決めたのかはわからない。ともあれ、ここを飛ばすのはもったいない気がしたので、村岡訳の調子を崩さない程度に、以下に訳を試みてみた。あるいは同様の試みがすでにいくつもあるのかもしれないけれど、個人の英文和訳練習としてご笑覧いただきたい。

 翌日の夕方、アンはアヴォンリーの小さな墓地に行き、マシュウの墓前に新しい花を供え、ばらに水をやった。暗くなるまで、その小さな場所の静けさと穏やかさにひたっていると、かさつくポプラはまるでひそひそと親しく語りかけてくるようで、ささやく草たちは墓地のいたるところで思うままに伸びていた。アンはようやくそこから立ち去り、長い丘を下って輝く湖水へと歩いて行った。もう日は落ちてアヴォンリー一帯は夢のような夕映えに包まれていた。「いにしえの平穏のたまり」だ。大気には新鮮さがあって、風がつめくさの蜜の甘い匂いを吹き寄せている。家々の灯が木々に囲まれてあちこちまたたいていた。さらに向こうは海で、紫色にもやっており、たえることないそのつぶやきが耳をそばだてさせる。西の空は柔らかい黄昏色に染まっており、池に映ったそのかげは元の空にもまして柔らかい。その美しさにアンの心は震え、魂の扉をよろこびとともに開いた。
「親愛なる世界よ」彼女はつぶやいた。「なんて愛しいのだろう。あたし、あなたの中で生きることができてうれしいわ」

(赤毛のアン 第38章より)

*あとからわかったのだが、私の手元にあったのは古い新潮文庫で、2008年に出版された新装版の文庫では、村岡美枝による補訳がなされており、上記の箇所も補われていた。興味のある方はぜひ新装版の方をどうぞ。それにしても新版を持っていればこのような試みはしなかっただろうから、不思議なものだ。

* 高畑勲演出によるテレビアニメ版「赤毛のアン」でも、最後の丘を下る場面はごくあっさりと描かれている。高畑勲「映画を作りながら考えたこと」には、終盤のプロダクション状況が過酷であったことが記されているのでそのせいかもしれないが、あるいは村岡訳に沿った演出だったのかもしれない。

(2014.5.9の記事を再掲)

See more glass(ねずみくん、ごもっとも!)

左に笑ってる子 そして
右には泣いてる子
しらないふりしていたら
どっちも(どっちも!)走りだしてしまった
こりゃおどろいた
こりゃおどろいた
そりゃもっとも もっとも
じゃ出かけよう
見てごらん もっと見てごらん
もっともっともっともっともっともっと
 
左にはバケモノ そして
右にはおんなのこ
そのままうとうとしていたら
どっちも(どっちも!)手をつないでしまった
こりゃおどろいた
こりゃおどろいた
そりゃもっとも もっとも
じゃ踊ろう
見てごらんもっと見てごらん
もっともっともっともっともっともっと
 
左にネコがいて そして
右にもネコがいる
そのまましずかにしていたら
どっちも(どっちも!)ねむりこけてしまった
こりゃおどろいた
こりゃおどろいた
そりゃもっとも もっとも
じゃ夢見よう
見てごらんもっと見てごらん
もっともっともっともっともっともっと
 
(作詞・作曲:細馬宏通)

ムービーメモ・起動ツール「Shiori_numbers」

ムービーメモ・起動ツール「Shiori_numbers」(QuickTime Player, Numbers用)

ムービーメモ・起動ツール「Shiori」

ダウンロードはこちらから

【できること】

・Numbersにムービーの情報、ムービー名、ムービーの再生位置を書き込みます。
・Numbersに書き込まれたムービーを指定位置から再生します。

【基本的な使い方】

まず、Numbersで何か文書を立ち上げ、適当にセルを選びます。QuickTime Playerで何かムービーファイルを再生(停止)しながら、Shiori_Writer.appを実行して下さい。選んだセルから右三つにムービー・ファイルのパ ス、ファイル名、時刻の三つが書き込まれます。これらを以下「栞」と呼びます。この栞の先頭を選んでShiori_Reader.appを実行すると、今度は指定したムービーをその時刻から再生します。

【こんな人にお勧め】

・パソコンのあちこちにムービーファイルが散らばっていて、どこに何が入ってるのかさっぱりわからない。整理しようにも方法を思いつけない。

・カメラを何台も使って記録を撮ったものの、どのファイルのどの時刻が同じ場面なのかわからない。メモをとってもあとでいちいちムービーを探すのが面倒。

・細かい分析はおいといて、とりあえずムービーを次々と見て思いつきを記録したい。

・映像のメモをとったあと、メモ部分にあたるムービーファイルと該当箇所をさっと立ち上げたい。

・グループで撮影した自分たちのムービーをいくつか使って振り返り(リフレクション)を行い、そこで出た意見を集約したい。

【何をするツールか?】

QuickTime Playerで再生中の動画のファイル名、再生時刻をNumbersに「栞」として記録しメモをとるツールです。また、Numbers上の栞をクリックすると、動 画ファイルを記録された時刻から再生します。ファイル形式はQuickTime Playerで再生できるものなら何でもよく、mov、mpeg4、mp3、m4a、MTSなど動画でも音声でも栞を記録することができます。

【応用編】

たとえば、あるムービーを再生していて、気になったことをNumbers上にメモしたいときは、Shiori_Writerを実行し、書き込まれた栞のそばのセルに、思いつきをメモしておきます。メモはどこに書き込んでも構いません。あとで、メモに該当する箇所を見直したくなったら、栞の先頭を選んでShiori_Readerを実行します。

シンプルなツールなので使い方はアイディア次第。具体的な使用例としてNumbersのサンプルファイル sample.numbersを用意しました。メモの取り方やレイアウトのコツ、時刻表示の仕方など、いくつか工夫を埋め込んであるのでご覧下さい。

【使用環境】
Macintosh OS X (High Sierraで動作確認)
Numbers (2018年版で動作確認)
QuickTime Player (10.4で動作確認)

【開発言語】
AppleScript

【パッケージ内容】

Shiori_Reader.scpt

Shiori_Writer.scpt

Shiori_Read.app
Shiori_Writer.app
sample.numbers

shiori_manual.rtf(この文書)

シェイプ・オブ・ウォーター:声の記憶(3):ことばの栓

 

  ニューヨークとサンフランシスコとの大陸横断電話、といっても、それは狭いヴォードヴィル劇場の舞台の上でのこと、上手にはフラット・アイアン・ビルに電話機が直接取り付けてあってそれがニューヨーク、下手には崖っぷちに立つクリフ・ハウスの向こうに陽が沈まんとしておりそれがサンフランシスコ、二つの書き割りの間には電線らしきワイヤが渡してありこれがアメリカ大陸横断線という趣向。ジョン・ペイン演じるジョニーはニューヨークで、アリス・フェイ演じるトラディはサンフランシスコで受話器を握っている。二人は「ハロー・フリスコ」をコミカルに演じるのだが、そのあと照明は暗くなり、スポットライトのなかでアリス・フェイは一人、静かに歌い出す。
 
You’ll never know just how much I miss you…
 あなたにはわかりっこない、どんなにわたしがさびしいか。アリス・フェイは低い、クルーナー・ヴォイスで、Youで始まり、youで結ばれることばを歌う。
 彼女はいままさに握りしめている最新のテクノロジーによって、相手の耳にダイレクトに届く声を得たはずであり、相手から自分の耳にダイレクトに届く声を得たはずだった。しかし、いまや彼女の歌声を聞いているのは暗がりばかりで、相手のあいづちすら聞こえない。長く引き延ばされるyouは、スポットライトから暗がりへと染み入っていくようだ。
 アリス・フェイは、受話器を耳元に当てたまま、ゆっくりと歌いながら立ち上がり、クリフハウスの向こう、太平洋に沈む夕陽の書き割りにもたれかかり、歌い続ける。歌い手の思いは「You’ll never know(あなたにはわかりっこない)」ということばによって栓をされており、相手には届かない。それでも、栓をされたバスタブに水を惜しげもなく注ぎ込むように歌は思いを溢れさせる。「どんなにあがいても隠せやしない、あなたへの恋心」「もうあなたに何百万回言ったかしら」「願い事をするたびに唱えているあなたの名前」。
 彼女が背にした書き割りでは、太陽が日没の最後の光をたらたらと波間に漏らしており、相手に向けて語りかけるはずだった「恋心」もまた、相手もなく外へと溢れ出している。まるで受話器に「You’ll never know」という栓がはまってしまったかのように。

Life On Mars? by David Bowie (試訳)

「火星に生き物はいるのかな?」

ほんとにどうでもいいこと
髪がねずみ色の女の子には
なのにママはダメって叫ぶし
パパは出て行けっていうし
なのに友達はどこにも見あたらない
というわけでその子は深い夢へと歩いて行く
ばっちり見える座席にすわって
銀幕に見入る

でも映画は悲しいほど退屈
だってもう10回以上も見てるんだもの
あのバカどもの目にツバをはくことだってできる
なにがよく見ろだ

水兵、喧嘩するダンスホール
あらまあ、見てよあの原始人のヨイショ
なんてでたらめなショウ
ちょっとみて、保安官がなぐる無実の人
おやまあ、保安官は知るよしもない
これが大人気のショウってことを
火星に生き物はいるのかな?

アメリカの苦しそうな額見ればわかる
ねずみのミッキーは牛になっちゃったんだ
いまや労働者は名声のために闘う
だってレノンがまた売り出し中
ほらねずみが大挙して
イビザからノースフォーク・ブロードまで
「統べよ、ブリタニア」は歌えない
うちの母にも犬にも道化にも

で、映画は悲しいほど退屈
だってわたしが10回以上も書いた脚本だから
また書いてるところだよ
ほらご覧あれ

水兵、喧嘩するダンスホール
あらまあ、見てよあの原始人でヨイショ
なんてでたらめなショウ
ちょっとみて、保安官がなぐる無実の人
おやまあ、保安官は知るよしもない
これが大人気のショウってことを
火星に生き物はいるのかな?

Life On Mars? by David Bowie (試訳:細馬)

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(4)

螢火は螢の下を先づてらす

 阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。

 ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。

わろてんかがわからない

 もう「わろてんか」について真面目に考えないほうがいいとは思っているのだが、つい筋のつじつまを追い始めてしまったので、書き留めておく。

 先週末の話。亡くなった兄の論文は、これからは「この日本でしかできない新しい薬を作る」という主旨であり、栞はその「本当の新しい挑戦」に感銘して出資を申し出たのではなかったか。だから藤岡家は、てっきり新薬開発の研究所でも作り始めるのかと思っていた。ところが今日見たら、薬種問屋は洋薬の専門店となっており、父がニコニコ笑っている。

 それ、兄の夢やのうて父の夢や!

 先週末の話に戻るが、どうやらこの店は薬種問屋だというのに、明治37,8年に大量の戦没者や病死者を出した日露戦争など関係なかったみたいだし、征露丸だの毒滅だの仁丹だのの話も出てこない。兄は「人間は…戦争もする、アホないきものや。人生いうんは思い通りにならん、辛いことだらけや」とてんに言うのだが、これでは「戦争」が何のことかもわからないし、病弱な兄の屈託も、そのことばの重みも伝わらない。せめて少しでも日露戦争の描写をしておけばよかった。

 その兄は「家族の笑顔に包まれ」亡くなったとナレーションで告げられたのだが、いくら「つらいときこそ笑うんや」と兄妹が約束したからといって、跡取り息子を若くしてなくすというそのときに家族が笑顔になるなどということがあり得るだろうか。まさかてんが今際の際に「あーっはっははは」と笑いだしたわけでもないだろうから、その笑顔が生まれる過程をきちんと描いてくれたらよかった。

 栞と会った日に出資の話がまとまり、その日に藤吉と逢い、その翌日にてんがぼーっとしているときには、もう店は洋薬の店になっており、しかもまだ藤吉はじめ一座は京都にいるらしいのだが、いったい今は何年何月何日なのだろう。

 まあ、このドラマに関しては、以上のようなことをいちいち考える態度がそもそも間違っているので、毎日毎週新しい話が始まるのだと思って(それは連続テレビ小説ではないと思うのだが)、気楽に見るのがよいのかもしれない。