「スカーレット」、身体の使い方

 第90回、3人が久しぶりに「赤玉」ワインで語り合っている。照子(大島優子)が気安く信作(林遣都)に足を乗せ、喜美子(戸田恵梨香)もそれに乗じて身体を預ける。なんて足癖の悪さ。こんなに足癖の悪い登場人物がかつてドラマで描かれたことがあっただろうか。その、照子の足癖の悪さを描くべく、カメラはまず並んで寝そべった3人を正面から撮り、後方で照子が信作に、手のかわりに足を出すところをうつしている。3人の身体配置を見せるべく、カメラは天井にも設えられており、次のショットではその天井カメラが、足癖をきっかけに喜美子と照子が平面でおしくらまんじゅうをするように信作の身体に乗っかっていくのをとらえている。この構図で見ると、信作の身体は、もはや喜美子と照子の運動場だ。運動場が腕立て伏せをする。2人が転げ落ちる。これらの運動のあとだからこそ、「いまやから言うけど大会」にはいまだから言う勢いがつき、いまだから言ってしまったあとのしみじみした空気が流れ出す。

 いい大人がじゃれあっている図、とひとことで言ってもいい。しかし、スカーレットのじゃれあいが、単なるなれなれしさを越え、いつも何か新しいことが起きている気にさせるのは、そこに俳優の思いがけない身体の使い方があり、そして使い方を逃さずとらえるカメラワークがあるからだろう。

トットの抜け道 第3回(「トットてれび」のこと 再掲:2016.6.17)

 錦戸亮演じる坂本九は、ちょっとはかない感じがする。1961年、この前年に坂本九はすでに「恋する60才」でヒットを飛ばしていたはずなのだけれど、『夢であいましょう』のリハーサルで新井浩文演じる永六輔に「なんだその歌い方は!」と怒鳴られて、売れっ子というよりはなんだか寄る辺ない子犬のような表情になる。

 トットちゃんと同じ早食いではあるが、九ちゃんにはがつがつとした勢いがなく、「ぼく、九人兄弟の末っ子なので」と言う。その九ちゃんに、トットちゃんはまるで姉のように九ちゃんにエビチリを分けてやる。九ちゃんのはかない表情は、ちょっと泰明ちゃんを思い出させる。

 帰り道、九ちゃんが道ばたにいた子を拾い上げる。トットちゃんが矢継ぎ早に語りかける。「あらあなた、迷子なの?」「ねえ、何人兄弟?」「この人はね、九人兄弟なの。あなたは? 十人兄弟?」数を唱えることばはいつも、どこか呪文めいている。そしてこの犬はまるで、第一回でトットちゃんと鼻をつき合わせて、トットちゃんにけもののことばを教えた犬の末裔みたいだ。
 いまやけもののことばを自在に操るトットちゃんは、九ちゃんに犬をあてがう。まるで九ちゃんにけものの魔法を与えるように。「九ちゃんに抱っこしてほしいんですって」。
 九ちゃんは犬を抱いて本番で歌う。もう永六輔は怒鳴らない。きっと、犬の力だ。

 それからというもの、九ちゃんは犬と一緒にいる。セリフを覚えるときも一緒、夕食に出るときも一緒。リハーサルと本番のわずかな間、中華飯店に食べにきた九ちゃんが犬にもちゃんとご飯をやっている姿を、カメラはさりげなくとらえている。

 その九ちゃんが何者かにさらわれてしまうというのが、この日の「若い季節」の筋書き。本番、この筋書きをさらに混乱させるかのように、不吉なできごとが次々と起こる。ハナ肇の頭にはドアが激突し、トットちゃんの後ろからは壁が倒れかかる。カンペなしで臨んだ三木のり平は、このトラブルの連鎖にすっかり落ち着きを失い、セリフがとんでしまう。なんだ?とワンさん。椅子を蹴るディレクター。「終」の文字を手にするスタッフ。そのとき、トットちゃんの推理が炸裂する。三木のり平のセリフを次々と翻案し、犯人の名前を言い当て、そして九ちゃんはいまごろ…ドン!「横浜だ!」。

 テレビジョンの中の横浜はプランタン化粧品のすぐそばにある。いや、実は新橋だってじつはすぐそばにあるのではないか。スパーク娘がスタジオで歌う「あなたもあなたも」。ワンさんが新橋の中華飯店で歌う「あなたもあなたも」。スパーク娘が踊る。餃子がみるみる焼ける。伊集院ディレクターがコードを必死でさばく。もつれて近づきすぎた歌と餃子の距離をほどくように。しかし歌は遠くのものを近くに引き寄せてしまう。テレビジョンは遠くのものを近くに引き寄せてしまう。あなたもあなたもあなたも。

 本番はトラブル続きで大幅に押している。いや、大丈夫です!なぜなら満島ひかりのすばらしい早口がナマ放送を貫くからだ。「九ちゃんだけ誘拐したって、自分の映ってるフィルムを持っていかなきゃなーんの意味もないのに、キャメラを落としたことにも気づかないマヌケな犯人なんて、あたし、ちっともこわくないわ! それに…」突然、弟を思う姉の気持ち、子犬を九ちゃんに託した気持ちに突かれたように、トットちゃんの早口はさらに加速する。「アルバイトなのに正社員以上にプランタン化粧品のことを愛していて、拾った子犬を放っておけないような、やさしい九ちゃんのこと、わたし、このままほうってはおけないんです!」。

 セットからセットへ!この世の最短ルートを駆けて九ちゃんの救出に向かうメンバーたち。ところが幾多の窮地を乗り切ってきたこの劇中劇に最大のピンチが訪れる。なんと倉庫のセットにスタンバイしているはずの九ちゃんがいない。北村有起哉、濱田岳が二人のディレクターの精神の限界をそれぞれのテンションで好演しており、彼らの奮闘努力の甲斐もなく、もはや劇は「終」寸前まで追い込まれる。

 なのに満島ひかりは、黒柳徹子の半笑いが乗り移ったかのように、「九ちゃんは」「ちょっと九ちゃんどこ?」とピンチを意に介さない。そして不意に、トットちゃんはけもののことばを話し出す。すると、なんとしたことでしょう。ハープがぽろんぽろんと鳴り、魔法がかかる。 

 「テレとは遠い距離、ビジョンとは見ること」。テレビジョンは、遠い世界のできごとをすぐそこで起こっているように見せてくれる箱。でも、この箱には全く逆のしくみもある。トットちゃんの生きているのは、すぐそばで起こっていることを時間も場所もまるで違うできごとであるかのように見せる、テレビジョンの「ナマ放送」の世界だ。セットを仕切るドアはいつ倒れるかわからない。壁はいつ倒れてくるかわからない。セリフはいつ飛ぶかわからないし、人はいつ寝入るか分からない。そして、狭いスタジオの片隅で誰かが寝入ってしまったとしても、人間は誰も探し当てることができない。セットとセットの間には、人間ではないけものだけが見つけることのできる、こことよそとをつなぐ道がある。だからこそトットちゃんはパンダを抱え、犬と語り、けものに導かれて、こことよそを往復する道を見いだす。

 そういえば、第二回で、トットちゃんは九ちゃんの肩をとんとんと叩き、まるで泰明ちゃんとやったようにどこか遠くを見上げた。泰明ちゃんも九ちゃんも、もういない。けれど、そこにたどりつく方法を、トットちゃんは知っている。犬に教えてもらったから。

 魔法の時間。そこでは声が消え、ホーンセクションがバラードを奏で、犬はスタジオをかけてゆき、あんなにセリフが言えなかった三木のり平が、そばを高々とすする。離れたセットのかげへと、犬はメンバーを導いていく。そして、スタジオのかげで眠っている九ちゃんの上に乗る。

 「九ちゃんいたよ!九ちゃんいた!」九ちゃんの命運を知っている者には胸が詰まるようなディレクターのことば。そしてなぜだろう、「九ちゃん最近忙しくて疲れてるから、このまま寝かしといてあげましょ」という、姉のようなトットちゃんのセリフで、九ちゃんはとても親密で、でもけして手が届かなくて、そして手を届かせないことで親密な存在になる。わたしは、まるで長い間見失っていた九ちゃんを見つけ直したような気になった。

 植木等が決めぜりふを放つや、ギターが1,2,3、ピアノが1,2,3、そして「スーダラ節」の大団円に全員が巻き込まれていく。中華飯店に、まるで広々としたスタジオで鳴らされているような深い反響の手拍子が響く。歌も餃子も、一つの天井をいただき、踊っている。トットちゃんは、まるで木の上にいながら木の下にもいることができるかのように、櫓の上で歌いながら櫓の下で踊る。そして踊りの渦中にいながらまるでこの世にひとときまぎれこんだかのような絶妙な距離感でこう言う。

 「楽しそうね、みなさん!いいことだわ。」

「こまどりは死に、うたが始まる」補遺

 Kindle版ユリイカ臨時増刊「総特集・魔夜峰央」(2019.3)所収の
細馬宏通「こまどりは死に、うたが始まる」の中で、図5が他の図と入れ替わっていたので、ここに訂正しておきます。ちなみに本文では、マンガから想像される「クック=ロビン音頭」(図2)、電磁人間プラズマXの「ビービッビ…」から想像される「クック=ロビン音頭」(図4:実はアニメ版『ぼくパタリロ!』エンディングで歌われた「クック=ロビン音頭」とほぼ同じ)、そしてアニメ版の初期で歌われた「クック=ロビン音頭」(図5)の三通りを区別して論じております。

 アニメ版の「クック=ロビン音頭」は、大きく分けて第二回〜第八回の劇伴なし「ロービン」の時代、第九回から第十一回の劇伴付き「ロービン」の時代、そして第十二回以降の劇伴付き「ロッビン」の時代に三分割できるかと思います。詳しい論は、本文をどうぞ。

図2. わたしがマンガ版を初めて読んだときに考えた「クック=ロビン音頭」
図4. プラズマXの歌う「クック=ロビン音頭」
図5. 白石冬美がアニメ版第二回で歌ったときの「クック=ロビン音頭」

ほうろうへの道

1.
丘は 東にも西にも開けているのに
どうしてかな日暮ればかり見てしまう
おひさまがのぼるのを見て下るより
おひさまもわたしも下りてゆく方が好き

だって三軒隣は酒屋 三軒隣は酒屋
東に登ればお墓 でも三軒隣は酒屋

2.
日曜にはラーメン屋に行列ができる
しのばず通りでなくてもラーメン屋はあるのに
よみせ通りに抜ける小さな道には
女性だけカラオケがただになる店もある
紙かつはとてもうすい でも叩いてのばせばでかい
衣はあくまでさくさく
それはとんかつの店の「みづま」

3.
富士山はどこに見えるのか
富士見坂
蛍はどこで光ってる 
蛍坂
今日のわざをなしおえて選ぶ坂
空からは夕焼けがだんだんおりてくる

道潅山下めざし しのばず通りをゆけば
おやこんなところに本屋さん
そして三軒隣は酒屋

三軒隣は酒屋 三軒隣は酒屋
東に登ればお墓
でも三軒隣は酒屋

(2011.5.29 かえる目「三軒隣は酒屋」@古書ほうろう ライブ前に作詞作曲)

佐藤幸雄×細馬宏通:「洋楽・ロック訳詞集とその先」ツアー

ボウイにスターマンは見えたのか。ジョナサン・リッチマンにアイスクリーム売りのチャイムはどう聞こえたのか。フレディはユーをいかにロックするのか。洋楽のイマジネーションを求めて繰り出される日本語の冒険! 佐藤幸雄と細馬宏通、理屈のポエジーのふたりから、やけに親密な言葉で次々と明らかにされる古今の洋楽のタマシイと、その先の消息。是非、聴き届けにおいでください。

2/8(金)佐藤幸雄×細馬宏通/ロック訳詞集ライブ 旧グッゲンハイム邸(塩屋)
2/9(土)佐藤幸雄×細馬宏通/ロック訳詞集ライブ 外(京都)
2/11(月)佐藤幸雄×細馬宏通/ロック訳詞集ライブ KDハポン(名古屋)

佐藤幸雄(さとうゆきお)歌とエレキギター。ひとりだったり、バンド「わたしたち」と一緒だったり。
79年頃よりすきすきスウィッチ、PUNGO、くじら、などのオリジナルメンバー。93年頃から長い隠遁。2011年3月11日以降、関係と生活を立て直すうち「歌と演奏など」が再開。爾来あちこちでいろいろと。2019年2月に「わたしたち2(ワタシタチノジジョウ)/佐藤幸雄とわたしたち」(POP鈴木ds、柴草玲pfと)発売予定。
https://watashitachi5.wordpress.com/演奏の記録


細馬宏通(ほそまひろみち)/かえるさん
 バンド「かえる目」にて作詞・作曲・ボーカルを担当。アルバムに「切符」「拝借」「惑星」「主観」。2018年には澁谷浩次との共作集「トマト・ジュース」を発表。かえるさん名義で、各地で歌をうたっている。また、『うたのしくみ』(ぴあ)や連載「うたうたうこえ」(GINZA)など音楽に関する文章多数。その一端はうたのしくみ Season 2 (http://modernfart.jp/2014/05/12346/) で。

劇団・地点『駈込ミ訴ヘ』
(KAAT神奈川芸術劇場)2013.3.7 (2013.3.13掲載)

 このところ、『CHITENの近現代語』『光のない』そして今回の『駆込ミ訴ヘ』を見て、わたしにとっての「地点」の劇はますますはっきり像を結んできている。それは、短く言えば、「代名詞句の劇」ということだ。ただ、代名詞句がキーになっているというだけではない。代名詞句によって、観客と演じ手の立場をがらりと変え、それまで積み上げてきた会話をがらりと別物に変換してしまう。
 『駆込ミ訴ヘ』では、それは、「あの人」であり「あなた」であり「あいつ」だ。

——-以下、内容に触れています。これから観たい方は見終わってからどうぞ——

 今回の『駆込ミ訴ヘ』は、原作を読んでから観た。劇で用いられることばはすべて原作のものだったが、原作を読んだときとはまるで違う感覚を引き起こされた。

 原作の『駆込ミ訴ヘ』は、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。」という声から始まる。題名を裏付けるように、駆け込んできた1人の男が「旦那さま」に訴えるかのように始まるのだ。
 ところが、地点の劇の始まりはちょっと違う。まず冒頭から5人の登場人物が、あたかもマラソンの練習でもしているかのように、前後しながら舞台上で駆けている。5人は常に観客の方を向いており、お互いにことばを交わしあうことなく、語る細胞のように離合集散する。彼らのことばは掛け声をかけたり奇声を発したりしながらあちこち重なっており、最初の「申し上げます。旦那様。」という文言は言ったのか言われなかったのかはっきりと聞き取れない。気がつくと、「あの人は、酷い。酷い。」と、語りはもう、旦那さまをすっとばして「あの人」の話を始めている。

 観客はしばし「あの人」の話につきあわされる。おかしなことだ。これは「訴え」なのに。
 「あの人」ということばは、聞き手を待たせる。「あの」ということばは、話し手と聞き手を非対称にする。「この」と言われればそこに注意を向ければいいし、「その」と呼ばれたら過去の会話を探せばよい。けれど、「あの」と語り手が呼ぶならば、聞き手は、語り手がその「あの」を思い出すまで待つよりほかない。聞き手は、訴えられているというよりは、待たされているのだ。
 語りには、「あの人」という呼称とは別にもう一つ、聞き手を揺らす装置が仕組まれている。それは語尾変化だ。語りは、「です」と報告をするように丁寧語を使うかと思えば、「だ」と独白するように断定する。「あの人」を想起しようとして報告と独白の間で揺れる語りを聞きながら、聞き手である観客はただ壁パスの壁よろしく、語り手が思い出すための壁にさせられるかのようだ。

 この、観客にとってもやもやとした時間が、突然、変化したように思えたのは、安部聡子が「私はあなたを愛しています」といったときだった。突然、語りが軽くなった。

 わたしはあなたをあいしています。あちこち屈曲するイントネーション。傀儡のように上半身をこつ、こつと倒しながら(しかも駆けながら)安部聡子が語るその台詞には、「愛しています」ということばの素直さも陳腐さも響いていない。そのかわりに、その軽い語りの中で浮き出しているのは、「あなた」という二人称の響きだ。これは告白だ。
 告白なら、もっと重いはずだ。しかしこの告白は軽い。「あ↑な↓たはわ↑た↓しをあい『し』ています」。聞き手にその内容を聞かせるためとは到底思えない、変形されたことば。ことばのイントネーションだけを届けるようなことば。「あなた」は観客ではない。語り手はまるで観客のことなどお構いなしに、頭の中でありありと「あなた」を想念している。もはや聞き手のわたしは「あの人」を待つ必要がなくなった。待たされる役から離れて軽くなり、いまや「あなた」に耽溺する語り手たちの目撃者となっている。
 この軽さには驚いた。

 あとで、原作のこの箇所を読み返して、二度驚いてしまった。

 一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容《おももち》をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏《あぶら》を塗り、微笑《ほほえ》んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。(『駆込ミ訴ヘ』)

 原作でも、このとき語り手はまさに、「あの人」のことばを想起した直後に、「あの人」を「あなた」と呼び変えている。しかし読んだときには、このさりげない変化に正直気づかなかった。そして原作では、この語り口の変化は「軽さ」として感じられるどころか、むしろ想念が真に迫っていくように響いている。地点の劇を観て、初めて、「あなた」という呼びかけから「軽さ」が生じうることに気づいたのだ。

 語り手は、「あの人」の行為をただ評するのではなく、「あの人」が自分に向けて語ったことばを思いだそうとして、もはや「あの人」を「あの人」と呼ぶ距離を保てなくなっている。「あの人」のことばに応えるように、語り手は「あの人」を「あなた」と呼ばざるをえない。そのような、「あの人」と「私」の距離の変化が露頭のように剥き出しになったのが「わたしはあなたをあいしています」だった。「あなた」のほうが語り手に近く切実なはずなのだが、観客にとっては「あなた」の方が軽い。それはたぶん、もう待たなくてよくなったからだ。「あの人」がどのような人であるか、その報告を待つことから解放される軽さは、劇の発明だ。(「ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い。」と唱えるときの、安部聡子による猩々寺のたぬきばやしのような韻律の軽さが忘れられないのだけれど、これも「あなた」の軽さによるものだ)。

 劇中、オープンリールのテープレコーダーを持った男が歌いながらやってきて、この劇で繰り返される「得賞歌」を生の声で歌う。「ダビデの子」を称える歌。それは、キリストのエルサレム入場を迎える讃美歌だ。

 日本の表彰式で決まって流される『得賞歌』は、歴史的にいくつものレイヤーを持っている。まず、『得賞歌』はもともと、ヘンデルのオラトリオ『ユダス・マカベウス』の中で歌われる『見よ勇者は帰る』というタイトルである。(オラトリオのタイトルは「ユダ」を、『見よ勇者は帰る』というタイトルは『走れメロス』を想起させる)。さらに、それは19世紀に「よろこびやたたえよや」というイエスのエルサレム入場を迎える讃美歌となった。讃美歌は、原作の『駆込ミ訴ヘ』で語り手が告げる「私たちは愈愈あこがれのエルサレムに向い、出発いたしました。」というエルサレム入場の場面を歌っており、歌い手の入場は、あたかも想念されている「あの人」の入場を先導するようだ。
先導するようだ、と書いたけれど、歌い手のあとから「あの人」がついてくるわけではない。そのかわりに、歌い手はオープンリールのテープレコーダーを携えてきており、そこでは陰陽師の用いるヒトガタのような紙の十字架が、くるくる回っているのである。観客にとっての「あの人」、語り手の想念の中だけにあって観客には手の届かない記号のような「あの人」よろしく、ぺらぺらの紙の十字架は、周回することをやめない駆けっこのように回り続けている。まるで、「あの人」を待つことの空しさと終わりのなさを示すように。

 劇の後半、観客の立場は、再び変化させられる。
 それは窪田史恵が、「旦那さま」ということばを高らかに発したときだった。
 「旦那さま」ということばを聞いて、そこまで「あの人」と「あなた」の往復にはまっていたわたしの頭はにわかに冴えた。劇を観ているうちに、わたしはこれが「訴え」だということをすっかり忘却の彼方においていた。それが「旦那さま」ということばで急に思い出された。そうそう、この語りのすべては「訴え」だった。「あなた」によって軽くなった告白は、「旦那さま」という相手を得てまた重くなる。「あの人」は、もはや「あいつ」とまでにののしられる。これは「訴え」が諄々と行われる劇ではない。告白の情動が、訴えへと形を為していく、その時間をそっくりそのまま、劇にしたものだ。語りの形式が情念を駆動し、訴えを産み出し、観客を産み出していく。

 訴えはさらに緊張を帯びる。語り手は、訴えの報酬である金を受け取ろうとして思わず、床にたたきつける。「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ!」硬貨のばらばらと散る、硬い音とともに、訴えが一瞬、独白へと引き戻る。ここにはパンも血もない。訴えの対象は血肉を持たない。乾いた金の音だけがある。「いいえ、ごめんなさい、いただきましょう」。語り手は、また下卑た丁寧語を発して、いったんはたたきつけた金を受け取る。訴えがいよいよ押し詰まったとき、語り手は自らの名前を名乗る。「はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。」と丁寧なことばづかいのあと「旦那さま」に対して発せられるその名前は、原作では訴えの終わりにぽつんと置かれている。

 イスカリオテのユダ。

 原作では、その名前は、訴えに釣り合う重みを持って、物語の終結に置かれる。その名前は、物語では唱えられないもう一つの名前、イエス・キリストのことを想起させる。

 しかし、小林洋平はこの名前を、「ユ、だー」と、あたかも断定の助動詞を口にするように発音する。まるで下卑たバカ丁寧な報告から、独白へととつぜん想念の向きを変えるかのように。そして同時に、旦那さまという報告の相手を消去し、観客へととつぜん想念の向きを変えるかのように。ユダとイエス・キリストを想起させる代わりに、舞台と客席の関係を想起させるかのように。
 5人の語り手は、今やへっへと笑い、訴え手であることを辞めて、語りのオブジェのように突っ立っている。傾斜のついた高い天井のある舞台でぽつんと立っている5人は、埋まらない空間を、巨大な空白を空白のまま、さし示すかのようだ。オープンリールを抱えた歌手が「あの人」の入場を称える歌を歌っている。紙の十字架が回っている。「あの人」はいない。ここに「あの人」がいないからこそ、「あの人」を語るこの独白は訴えになる。訴えは訴え先を必要としている。それはあなただ観客さま、と、終わりのことばはわたしのことを言いあてるようだ。「ユ、だー」。