再掲:パルクールとアフォーダンス(2012.12.1)

 人と人との身体関係を研究してきたユルゲン・シュトリークが記述するコロンビアのこどもたちの身体の動きは、ストリートとは何かをまざまざと実感させてくれるものだった。

 コロンビアはゲッセマナの教会の前。昼間は結婚式が行われることもある扉の前の石段が、夕暮れるとこどもたちの集う場所になり、カップルが睦み合う場所になり、携帯で話す者が束の間右往左往する場所となる。

 仲間との会話に飽きた小さな兄妹が、石段の周りをうろつき出す。兄が石塀をよじ登ると妹もよじ登る。兄が石塀を蹴ると妹も蹴る。柱にもたれかかると柱にもたれかかる。こうして兄は次々と「新しいルーティーンを試していく」。彼らはいわば、「アフォーダンスを探索し」「そこで何ができるかを『開示』していく」。 ここで、重要なのは、ただ誰かが一人孤独に環境とつきあっているだけではない、ということ。兄が動くことで、妹はいままでありふれた塀や柱に見えたものに、思いもかけないアフォーダンスがあることを発見する。

 シュトリークはこうした行為をパルクールになぞらえる。パルクールとは、階段、壁、屋根、手すりなど、街のあちこちにあるありふれた構造物を使って、ありえない方法、ありえないルートで駆け抜け、飛び越えていく運動のこと。ダヴィッド・ベルのパルクールを見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=x98jCBnWO8w&feature=fvst

 ベルの動きを見ているだけで、街の、隠されていた性質が次々と顕わになっていく。わたしたちは、ベルの身体能力にただ驚くだけでなく、そこで明らかにされるとんでもない街の姿にショックを受ける。壁は歩く方向を強制するのではなく飛び越えるためのもの。屋上は旅の終わりではなく、ギャップを飛び越える踏み台となるもの。そして手すりは歩きながらつかまるものではなく、思い切り飛んだ向こうできわどく手をかける係柱となる。  あたかもベルの動きのように、小さな兄妹の動きも、何気ない教会の構造物に隠されたアフォーダンスをあらわにし、「そこではそんなことができるのだ」ということを開示しているのだ。そうシュトリークは論じる。

 学術的なアフォーダンスの議論からしばしばコミュニケーションの問題が抜け落ちることにずっと釈然としなかったわたしは、このシュトリークの議論に胸がすく思いだった。ただわたしたちが動きさえすれば、すぐに環境の不変項が抽出され、アフォーダンスが明らかになるとは限らない。まず、誰かがそこを走り抜け、飛んでみせなければ、そもそもそこが移動できる場所だということさえわからない。そんな誰かの行為を体験したときはじめて、そのなんの変哲もない環境に、抽出しうる不変項があると意識される。ちょうど、マリオがブロックを叩くことで、そこに花があることをプレイヤーに気づかせるように。

 アフォーダンスは、世界の可能性に関する概念だ。しかし、そこにどんな可能性があるかは、単に、一個人と環境との関係に閉じているわけではない。その環境でどんな身体運動が可能かは、自分以外の他者の行為によって明らかになる。そう考えたとたんに、アフォーダンスを介したコミュニケーションの回路が開けてくる。

(2012.12.1 comics & songsに掲載)