「スカーレット」、身体の使い方

 第90回、3人が久しぶりに「赤玉」ワインで語り合っている。照子(大島優子)が気安く信作(林遣都)に足を乗せ、喜美子(戸田恵梨香)もそれに乗じて身体を預ける。なんて足癖の悪さ。こんなに足癖の悪い登場人物がかつてドラマで描かれたことがあっただろうか。その、照子の足癖の悪さを描くべく、カメラはまず並んで寝そべった3人を正面から撮り、後方で照子が信作に、手のかわりに足を出すところをうつしている。3人の身体配置を見せるべく、カメラは天井にも設えられており、次のショットではその天井カメラが、足癖をきっかけに喜美子と照子が平面でおしくらまんじゅうをするように信作の身体に乗っかっていくのをとらえている。この構図で見ると、信作の身体は、もはや喜美子と照子の運動場だ。運動場が腕立て伏せをする。2人が転げ落ちる。これらの運動のあとだからこそ、「いまやから言うけど大会」にはいまだから言う勢いがつき、いまだから言ってしまったあとのしみじみした空気が流れ出す。

 いい大人がじゃれあっている図、とひとことで言ってもいい。しかし、スカーレットのじゃれあいが、単なるなれなれしさを越え、いつも何か新しいことが起きている気にさせるのは、そこに俳優の思いがけない身体の使い方があり、そして使い方を逃さずとらえるカメラワークがあるからだろう。

衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会のこと

 連載にも記したように「衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会」はオンラインに記録が残っている。 議事録は、田畑や川島の口調をよく伝えているほか、津島委員による先のジャカルタ大会の詳細な報告もあり、ドラマの裏舞台を知るにはうってつけの内容だ。以下のページの詳細検索で、会議名を「オリンピック」で検索すると9/12分がヒットするので興味のある方は一読されるとよい。

http://kokkai.ndl.go.jp/

 せっかくだから、実際の議事録に載っている田畑政治の発言の一部を抜き出してみよう。

 「それではあそこにどういう競技会があったかというと、これは法律的に言いますと、アジア競技会以外の競技会はないわけです。国際陸上競技大会というものは正式になりたっていないわけです。従って、何をしたかというと、あるものはやはり第四回アジア大会ということでございますから、それに立った前半の話をしたので、あとのことについてのあれがなかったので非常に混乱して、相済まぬと思っておりますが、あの点については…」

 速記録ということもあるが、笑ってしまうほどコソアドが多い。思わず阿部サダヲの口調で読んでしまいそうだ。

 ところで、実はこの「衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会」…ええい、面倒なので以下「オ特委」と呼ぶが、このオ特委は、何も田畑をつるし上げるために始まったわけではない。オ特委は、1961年9月30日、国会議員と参考人で構成される、まさに「準備促進」のための委員会として発足した。そして田畑政治や松沢一鶴は毎回のように参考人として出席し、予算増額の必要性を盛んに訴えている。スポーツと政治は別物。とはいえ、田畑自身もまた幾度も政治家と渡り合い、さまざまな手管でオリンピック予算の獲得に動いていた。その委員会が、1962年9月12日、急に津島と田畑の責任を問う内容へと豹変したのだった。

 それにしても、研究者でさえときに精読が苦痛になるようなこんなくだくだしい会議録をおもしろく読めてしまうとは、わたしたちは「いだてん」を通して相当な「オリンピック・バカ」になってしまったのに違いない。

吹浦忠正さんと森西栄一さんのこと(吹浦さんのブログから)

1964年東京オリンピックの際、式典課の国旗担当として活躍され、現在も国旗のスペシャリストで大河ドラマ「いだてん」の国旗考証をしておられる吹浦忠正さんのブログ。読みどころがいくつもあるが、その中から、聖火リレーコース探査隊として活躍し、組織委員会の職員でもあった森西栄一さんに関する記事へのリンクを集めた。

森西栄一・私が尊敬する人
森西栄一という人(2)
森西栄一という人(3)
森西栄一という人(4)
森西栄一という人(5)
森西栄一という人(6)
聖火リレー秘話
名は「サファリ」(1)
名は「サファリ」(2)
東京オリンピックの年に

聖火リレーコースの可能性を探る(「東京オリンピック」8号より

以下は、東京オリンピック組織委員会発行の「東京オリンピック」8号の記事「聖火リレーコースの可能性を探る」からの引用である。内容は1962年2月に行われた聖火リレーコース探査隊の報告会の記録で、各隊員が次の表題の文章を寄せている。ここには車両整備を担当した安達教三と車両運転を担当した森西栄一の文章を転載する。

安全正確に 麻生武治(隊長)
不順な気候 土屋雅春(医師)
沿道の熱意 矢田喜美雄(朝日新聞社員)
熱風の苦難 小林一郎(朝日放送)
砂漠と悪路 安達教三(車両整備)
歓待と拍手 森西栄一(車両運転)

砂漠と悪路 安達教三

 道路と自動車は切っても切れない関係にある。道路はというと、これは気候あるいは天災地変によって簡単に変り得る。従って車両と道路と気候の3つは不可分の関係にある。
 ギリシアからシンガポールまで182日間を費し、6月23日から12月21日までの長期間を踏査したが、車で走った日数は夜間走行6日間を含め僅か51日間。その走行キロ数は18870余で、これは実走行キロである。1日一番多く走った日は1072キロ、一番少なかった日は、ガンジス河を小舟で渡った日で、31キロ、1日平均の走行キロは、これらを全部含めて370キロ。その間行く手には、常に試練が待ち構え、この試練こそ、この上もない良き教訓を与えてくれた。
 第1に、ギリシアとトルコ、さらにイランの砂漠の中に、りっぱな舗装道路があった。最高速度150キロぐらい出る車でなければ物足りないと痛感した。
 第2に、シリア砂漠の横断である。シリアのダマスカスからイラクのルトバまで。ジョルダンを通れば砂漠の中にりっぱな道路があるが、ジョルダンがオリンピックに加盟していないので立寄らず、あえてシリアの砂漠を横断した。案内人を雇ったおかげで無事に砂漠を横断することができた。われわれが見ると砂漠には道がないようだが、案内人によれば、道はちゃんとあるという。
 第3に、中近東諸国、特にイラク、イラン地区の真夏の気温である。7月の半ばであったが、気温は車内で摂氏60度。もっともこの暑さはこの地方でも17年振りの猛暑の由であったが、こういう猛暑の時期があることを忘れてはならない。
 第4に、砂漠でのパンクである。われわれの2台は8回もパンクした。砂漠でパンクの取替え、取外し、取付けには全く閉口した。
 第5に、アフガニスタンでスレーマン山脈の4千メートルの峠を越したが、これは富士山の3776メートルよりも高いのだ。
 第6に、雨期におけるパキスタン、インド、ネパール地区の通過である。この地方も80年振りの豪雨でガンジス河は氾濫し、長さが東京・大阪間ぐらい、幅が関東平野ぐらいに拡がっていた。そこを深さ1メートル前後の水の中を走行した。さらにネパールからインドに入る時には、氾濫しているガンジス河を小舟に車をのせ渡らなければならなかった。
 第7に、タイ緬国境を半月がかりで通ったが、昨今では印緬国境、タイ緬国境は、治安上の問題で通過することが出来ないというのが常識になっている。なおタイ緬国境の道路は、おそらく雨期には通行は不可能と思え、ここ2,3年でこの悪路が急によくなるとは絶対に考えられない。
 以上はほんの僅かな例にすぎないが、今回の体験を十分に生かして、最悪の事態を常に予想し、対策が立てられなければならないと思う。(日産自動車)

歓待と拍手(森西栄一)

五輪の旗と吹き流しの鯉のぼりをもち、歓待と拍手に迎えられ、オリンピアからシンガポールまで踏破することが出来た。あるところでは軍楽隊の演奏に、あるところでは敬礼に迎えられ、ある市民歓迎会では100歳の老人もまじえて50人くらいの人と握手し、あるところではスポーツマンからサインを求められたりした。スポーツを支える数カ国の軍人や政治家、それにスポーツマンの全部が、この陸路聖火を運ぶというロマンを非常に熱望していることがよくわかった。そして私たちはオリンピック熱が、日本ばかしではなく、中近東の至るところにもひろがり、そしてまた日本人が聖火リレーを通して偉大な人間性やオリンピック精神をともにプロモートし、アジア、世界の精神的支柱として確固とした地位を位置づけるであろうことを信じて疑わない。(オリンピック組織委嘱託)

東京オリンピック 8号 1962年2月25日より

𠮷浦の人間と呉の人の海水浴(小3年位)(父のノートから)

 𠮷浦の町は東も北も西も山、、南が海だったが、海は汽船用桟橋と艦船用の水食糧等の納入出入用の船の繋留場であった。

 ところが国道が出来、トンネルをくぐると家から約1kmで狩留賀の浜の海水浴場があった。

西:狩留賀、東:𠮷浦。このさらに東が呉港。

 浜の長い所は森沢と云う有料海水浴場だったので、私等は西隣の木村貸ボートの発着場に2−3人の友達と泳ぎに行った。
 越中フンドシと、たまにお八つと云えばガーゼの袋の中にそら豆の煎ったのを入れ腰に下げて泳ぐと軟く塩味がつくと云って喜んで食べた。

 或日門田君が「呉の姉さんが泳ぎに来るから一緒に行こう」と誘って呉れた。すると森沢の有料浜に入れて呉れて、桟敷に陣取り、カキ氷やら水瓜やら食べたり、おごって呉れたりしかけたが、どうも性に合わず途中で退散した。

 帰りトンネルの入口で湧水を飲んだのが美味かった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

水練学校

天応、狩留賀、𠮷浦

 𠮷浦は狩留賀の浜もトンネルを越えた所だったし、戦時下と云う事もあって子供の時から体を鍛える大使命?から夏休み5日位だったと思うが水練学校があった(小学校4年以上位)。

 ここでも我等が中村先生は水泳の段持ちとかで、一寸泳いでも抜手を切って、波をけ立てて進む力動感があり、仲々格好良かった。私もやっと泳げると云う段階で、水泳の習い始めには丁度良い時機だった。

 基本形として先ず「横泳ぎ」と云うのを習った(良く考えると生涯水泳はこの基本以上は習って居ない)。先ず①の様に手を拝む様に合わせ脚をかがめ、②の様に左右の手を前後に伸ばし左脚で水を蹴る様に伸ばし一寸遅れて右足で蹴る。伸ばした右手で水を掻く。

 最後の日はテストがあり、浜沿いに200m泳ぐと4級、更に沖へ出て池崎の浜迄行くと3級、更に帰って来ると2級、天応まで約3km泳ぐと1級であった。私は4級で留めた。

蝉の季節

 春が暖くなって暫くした頃、奥の鍋土(なべつち/注:現在の焼山吉浦線の奥)の方へ山を登って行くと、姿が見えぬのに林の間から「ゲース、ゲース」と春蝉の大合唱が聞えて来る。それから一ヶ月位、どこへ行っても蝉の声はパタッと聞えなくなる。

 7月に入って夏休みが待たれるなあと思う頃、「チーッ、チーッ」と2段トーンのチイチイ蝉が庭の木の隅の方で先ず鳴き出す。小型で羽が茶鼠色で少しすばしっこい。次に「ケリ、ケリ、ケリ」と茶色の油蝉が登場して来る頃は夏休も始った頃で最も夏が楽しい頃だ。

 「シャン、シャン、シャンシャン…ジュジュジュウ」と熊蝉が鳴く頃は暑さばかりがこたえて宿題等思いだしたくない頃である。この頃三日市へ行くと「カナ、カナ、カナ…」と日ぐらしが聞けて子供心に文学的な品のある自然に思いをはせる。

 𠮷浦へ帰った頃「オーシ、ツクツク、オーシツクツク、……」とつくつく法師が鳴くと「アア夏休が終るなあ」と悲哀を感じた。この蝉はそれを知ってか終頃に「ツクリン、ヨーシ……(𠮷浦地区の表現)」と転調をして泣き終いをする。

現在の焼山吉浦線沿い、𠮷浦から山手に向かう道はあちこちU字型に屈曲している。鍋土峠はその焼山𠮷浦線の途中にある。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

呉の勤労動員、木炭バス、省営バス(父のノートから)

【動員の工場生活】

 中学三年生にもなって間もなく(昭和19年)、勤労作業は遂に本格化し、所謂勤労動員となって授業は中止、工場へ行く事になった。先ず広の彌生の寮に集められ、導入訓練があった。呉一中の三年生は第十一航空廠行で住所により分工場が決り、吉浦組は新宮の兵器部配属となった(中略)。
 
 兵器部と云うのは直接飛行機を作るのではなく飛行機の発着基地関係の設備を作る工場だった。

 場所は家(注:吉浦)から新宮の峠を越えた東側で約1.5kmの所である。呉港を臨む西岸にあり、飛行機を積んだ航空母艦や戦艦にも出向き易い位置にあり、鉄筋4階建相当だがブリキトタン板で地味な濃い緑色の外装の角な建物であった。傍の通勤道路は木炭バスが峠を上るのに喘ぎ喘ぎ10km/h位の速さで人と競走した。

 話が飛ぶがバスにも話題がある。

 そう云えば小学校低学年の昭和15年位迄はバスもガソリンで走っていた様に思う。所が呉一中に入る頃(注:昭和17年)は殆どが木炭車に変っていた。又呉市が戦時下では最先端だったのか電気バスが走り出した(充電電池で動く)。

 戦時下で我が呉市が重視されている様な妙な嬉しさは、昭和17年頃それ迄吉浦と呉の間しか走っていなかったバスが何と広島から鉄道省の省営バスが呉迄来る様になった事だ。あのいつも歩くか自転車でしか通った事のない狩留賀の国道トンネルを堂々と省営バスが走るのだ。初日姿を現わしたバスは今迄より二回りも大きく席も2人づつのクロスシートで、とにかくデカク、デラックスに見えた。

 一中の帰り、汽車の定期があったのに省営バスに乗って見た。車掌も男性で(注:通常のバスは女性の車掌だった)鉄道の帽子を被り、切符も各駅名が入った3廻りも大きな物だった。

 ここで丁度前頁の上り坂のバスの話に戻る。市バスが木炭バスなら省営バスはマキを炊いて(後の釜もデカかった)走っていた。…が上り坂にかかると省営バスはすさまじい勢で上って行った。それは勇壮とも云え市バスはみじめだった。それはマキと木炭の差でなく運転席で上り坂にかかると省営バスは木炭とガソリンの切替レバーをガソリン側に倒したからだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。
本人の校閲のもと、注を補い文章を少し改変した。