かつて、1980年代末から続いていたパソコン通信のひとつ、NIFTY-Serveが1990年代後半に終焉したころ、そこにあったさまざまなフォーラムの膨大な過去ログは一切なくなった。それには、よいことも悪いこともある。よいことは、ほじくり返されるべき過去が消えてくれたことで、悪いことは、考えるべき過去が消えたことだった。わたしはあわてて自分の書いた文章をテキスト・ファイルに収めたけれど、実際のところ、それは古いフロッピーディスクに入ったまま今まで見返されることもなく、もしかしたらこのままずっと見ないで済んでしまうかもしれない。もう誰にも読まれずに済んでほっとしているものも、正直ある。
ただ、そのとき、ネットワークの運営側というのは、あれだけ大量の時間を費やして人々がテキストを交わした場を、あっけなく無くしてしまうことがあるのだなという認識は持った。交わされたテキストは文脈の中で初めてある意味を持つ。その文脈をまるごと消すことに、躊躇がない。
それなら、そんな場に頼らずにきちんと自分でテキストを紡げばいいようなものだが、わたしは自分でもおかしいくらい、書くとすぐに反応を欲しがるたちで、読んだよとかいいねと言われるとすぐに調子に乗って次を書いてしまうような単純な人間である。単純な人間だからこそ、そういう反応を提供してくれる場や文脈への依存度は高いし、そうした場にどっぷりつかって抜けられなくなることの危うさも感じている。
そんなわけで、Twitterという場はずいぶん便利に使わせてもらってきたが、一方で、いざとなったらそういうわたしが費やした人とのやりとりなぞ、必要があればすぐさま消し去るような場でもあるのだろう、ということはいつも感じていた。これはTwitterに限ったことではなく、世のさまざまなSNSにも、同じことを感じている。
その恩恵と危うさのバランスをどう取るかは人によってそれぞれだと思うが、わたしがもうこれは潮時だなと思ったのは、菅野完さんのアカウントが永久凍結されたという話を知ったときだった。彼とは面識もないし、彼の文章には苛烈な表現があちこちにあると思っているし、必ずしも思想を同じくしない。けれど、彼の発言を、理由を明らかにすることなくまるごと「永久」なんて名の下に「凍結」してしまうやり方には正直ぞっとした。なるほどTwitterの規約を見れば、彼の発言が抵触しそうなことはあれこれある。しかし、どんな規約にも解釈ののりしろというものがあり、実際の境界は、適用の理由を明らかにすることによって初めて明らかになる。わたしがぞっとしたのは理由もなく規約の境界を示し、人にあれこれ理由を推測させるそのやり方である。
まだ事はすべて明らかになったわけではないし、これからTwitter社は何らかのコメントを出すかもしれない。それぞれの人のそれぞれの使い方があるだろうから、他人のことはとやかく言わない。ただ、わたしはこれをそろそろ潮時だと思った。ソーシャル・ネットワークに関心を持つ者としてアカウントは残しておくし、ときどき覗いたり告知もするだろうけれど、これからはTwitterからは軸足をはずして、こんな風に書くことが増えるだろう。まあ、このブログのサイトも過去に何度かクラッシュしたりしているし、わたしの支払いが止まれば停止される。それまでゆるゆると、ということだ。