comics and songs blog

伊藤重夫『踊るミシン』新装版(青)のこと

 クラウドファンディングを経て出版された伊藤重夫『踊るミシン』の新装版を読んだ。伊藤重夫の絵は80年代にかけてあちこちで見かけているはずなのだが、マンガを読んだのは初めて。神戸の垂水が舞台になっていることも初めて知った。村上知彦氏の解説に『中国行きのスロウ・ボート』という一節があって、そうだ、80年代のぷがじゃの表紙に村上春樹の文章が載ったことがあったなと思い出した。

 一ページの中に複数の場面が割って入ってくる。それが速読を許さない。場所と場所、ことばとことばの配置がページの中で馴染むまで、目をそのページに止めなければ、ただとっちらかった印象を追うばかりになる。表題作を最初の20ページくらい読んでから、これは明らかに速く読み過ぎていると気づいて、いつもよりペースを落としてゆっくり読み直してみた。それでようやく、この作品の速さが分かってきた。遅く読まなければ速く見えない。不思議な作品だ。昨夜読んで、今日は鳥男の足もとばかりが頭に浮かぶ。

 

ものを見て人はなぜギャアギャア言わなくなったか、あるいは、人はなぜものを見ずにギャアギャア言うようになったか

 休憩時間に、古山研の学生さんがいて、歌の起源とメルロ=ポンティの身体論と菅野さんの歌論との関係をあれこれくっちゃべっていたら、おもしろい論考ができそうな気がしてきた。
 それは、こんな考えである。

 ことばの指示機能から指示性を引き剥がして感情を優先したのが歌、逆に歌から感情を引き剥がして指示性を優先したのがことば。そして、ことばと歌との相補性によって音声コミュニケーションを行っているのがわたしたちヒトの特異なところ。ヒトはことばのおかげで、モノを指し示すたびにギャアギャア言わなくなった。そして歌のおかげで、モノを指し示さなくともギャアギャア言えるようになったのである。

 メルロ=ポンティの「環世界 Umwelt /世界 Welt 」という対比を使うならこうだ。
 人は環世界に対して、ギャアギャアと感情を込めずとも、静かにことばを発するようになった。ことばによって人は、環世界 Umwelt に対して感情を切り離して声を発するようになった。いっぽうで、人は環世界によらずともギャアギャア歌うようになった。それが世界 Weltである。歌はWeltとともに現れた。歌によって人は、世界 Welt に対して感情を立ち上げて声を発するようになった。
 ヒトは、喪ったものを現前として感じるときに発せられた音声を進化させた。それが、ヒトの歌。それは環世界に対してではなく、世界に対して発せられる点で、鳥の歌ともクジラの歌とも本質的に異なっている。

 歌は、ヒトが進化の過程で得た、喪する声である。

2009.9.21の日記から)

土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社

 本書は、『君の名は』『この世界の片隅に』『聲の形』という2016年にヒットした三本を軸に、「私」の時代から「私たち」の時代への移行という大胆な見立てを行う一方で、商業アニメーション/インデペンデントという従来の二項対立を見直し、世界のアニメーション地図をとらえ直す内容。ノルシュテイン研究を土台にしながら、世界の幾多の短編/長編アニメーションに触れ、かつ、配給や上映にも携わっている土居さんでなければ書けないものだ。土居さんがこの本で考察している「私/私たち」は、これからのアニメーションを考える重要な手がかりであり、本書はこれからのアニメーションを語る上で必携となるだろう。

 ちなみに私は、「この世界の片隅に」について、土居さんとはちょっと違う意見を持っており、その手がかりは『二つの「この世界の片隅に」』の「きおく」の章に記してあるのだけれど、この問題を含めて土居さんのアニメーション世界地図の知恵を借りつつ語り合うべく、トークを行うことになりました。

ブックファースト新宿店地下2階Fゾーンイベントスペース 10/20(金)午後7時~午後9時
『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)刊行記念 土居伸彰×細馬宏通 トーク&サイン会

 なお、フィルムアート社のウェブサイトから『21世紀のアニメーションがわかる本』に関連する動画を見ることができるので、すでに読んでいる方も注目を。

 

松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 2017.8.27、第七藝術劇場での映画『さよならも出来ない』上映後に松野泉監督とトークをしました。撮影現場の騒音をどうやって作品に取り入れたか、劇伴音楽と音響の境目は? キャラクターと人生の話など、なかなかおもしろい内容になったと思います。

 その内容が詳細に書き起こされたノートができましたのでご覧下さいな。→松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 鈴木卓爾さん×松野泉監督のトークもよいです。

 見逃した!という方、神戸元町映画館で10/7-10/13までやってますよ。

 

「を待ちながら」20170924

まだ公開中だから、内容には立ち入らないけれど、たくさん笑った。いや、おもしろかっただけでなくて、こんなできごとで人は笑うんやと思った。バンドだった。ロックンロール!いや、伝わってないな。ええとできごとの一端を。棒。白い棒、緑の棒、赤い棒。棒の一族。人はなぜ棒に語るのか。すまん、断片的かつ迂遠で。あのね、みんな、観に行ったほうがいいです。観ておこう。なぜなら一生は一生でしかない。棒の端から食べたら、棒の端で食べ終わるでしょう。食べ終わる前に観るべきだ。そしてこの劇、食べ終わったと思ったら腹からはみ出た棒みたいに頭に残る。なんだこのボー!公演終わったらなんか書くボー!

20170924 久しぶりに劇を

久しぶりに劇を見る前に緊張してきたな。こういう感じ、久しぶりだ。何か劇について前もって何かを知っているというわけではない。ただ、いくつかのできごとが、この劇を指し示しており、まだ霧がかったその場所にこっそり体を割り入れることが本当にできるのだろうかと思っている。

駒場東大前には喫茶店が少なく、満席のことも多い。今日は幸い空いていた。椅子に犬が座っていた。『愉快な百面相』に出てくる犬そっくりだった。

日記 20170920

考えてみたら、その日に起こったことをあれこれ頭の検閲を通さずに書くやり方はたくさんあって、ブログっていうのもそういうものの一つだったんだよね。Twitterでみんな、140字とアイコンによってどんな立場の人も同じフォーマットで話すってことに気持ちよさを感じてて、わたしもそれは気持ちいいなって思ってて、ずっと(ずっとって10年だよ)使ってたんだけど、もういいやって昨日思っちゃった。思っちゃったけど、何もかも止めるってほど極端に思い切ってるわけでもなくて、単に一つの場所に依存してるといつか足もとすくわれるなって危機感でこうやって別の場所に書いてるのね。書いてると、ああ、140字じゃない場所にはこれくらいだらだらしゃべれる空間があるんだって、発見をしてるわけ。

こういうテキストをTwitterさよならとか言ってるわりにTwitterに告知することについてあれこれ言う人もいるだろうけど、それがどうしたっての。わたしはTwitterにアクセスするたびにあのプロモーションとかいろいろな広告を目にしていて、それはみかじめ料だと思ってる。みかじめ払ってんだから、気まぐれにアクセスしたって何のうしろめたいものがあるものか。気ままに使って、でもそこには入り浸らないよって言うことに、なんのうしろめたさがあるっていうの。

ああ、もうそんなこたどうでもいいや。

さてはてね。わたしはいま、人生で初めてきた羽犬塚というところで、たまたま泊まってる宿のむかいにある「集家」っていう飲み屋が、なんか夜目に店構えがおもしろいのでふらりと入ったら、ここがモルトをけっこう置いてあるし、焼き鳥を頼んだらもうたまらん美味しさで、え、なんでこんな焼き鳥おいしいんですかってたずねたら、実は福島の相馬にいたんですって言われて、わあ、浜通りにおられたんですね、って言ったら、このあたりで浜通りってことばをきいたのは初めてですって言われて、そんでいろいろ相馬のことや熊本のことを話したのでした。まあこういうことって、まだ袖振り合うも多生の縁くらいのことで、まだこの土地のことをわたしはちっともわかっちゃいないんだけど、でもわかるためのエントリーとしてはいいじゃないか。ビギナーズラックってことがあるのだ。ある場所のことを考えるいちばん最初のとっかかりにいい出会いがあるかどうかはとても重要だ。で、ラックから過去へと遡るのだ。ラックを引き当てた自分の嗅覚はまんざらでもないなって。そうやってわたしはわたしを肯定するのだ。ラックを引き当てるたびに少しずつ肯定していくのだ。足もとは危ういぞって思ってるけど。それは地震の国に生きてるからそういうもんだと思ってる。

かっぱよっぱらった

さーて酔っ払ったから酔っ払ったようにかくぞ。かっぱ酔っ払ったかっぱやっぱ酔っ払ったとてちてた。久留米のゆるきゃら「くるっぱ」は久留米のかっぱらしい。にゃ〜。ああ140文字じゃないと大広間で酔っ払ってる感じだにゃ〜。畳の端から端までごろごろ転がってもずいぶん時間がかかる。くるっぱで言うと10くるっぱくらいしてる。くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱ。ほーら、実際声にしてみるもんだ。ただ10くるっぱと言ってもそれがどれくらいくるくるぱーなのか分からない。ほんとに10回声に出して言ってみ。ことばで目が回るから。ことほどさように声は運動なのだ。くるっぱと一回言うのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回言うのとでは違うのだ。ついでに言うと文字入力でさえ運動だ。くるっぱと一回打つのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つのとではずいぶん違う。繰り返す声、繰り返す指がくるくる同じ方向に回転することに眩暈を覚える。読む人もそうだろうと思う。かくして声に出すことと文字入力と文字読書という、いっけん異なる行為は同じ眩暈を共有するのである。文字を見てその文字を発声するニューロンは賦活するのか、それは声が即頭に浮かぶ読者と速読をむねとする近代読者とで違うのか、このあたり何か研究があるのかな、あるかもな。しかし、ニューロンの話はおくとしても、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つ行為に耽溺すべきであるし、そこに無意識に体に染みついた時間、10回ということをことさら意識せずとも、声にして唱えるともうそこに10回感覚が立ち上がる時間の感覚、その感覚にいーち、にー、さーん、しー、と唱えるときのプロソディの感覚がこっそりまぎれている数え上げの感覚のことをわたしらはもっと真剣に考えねばならぬ。そこに音声と運動の秘密は埋め込まれているはずなのだ。

Twitterさん、さようなら

 かつて、1980年代末から続いていたパソコン通信のひとつ、NIFTY-Serveが1990年代後半に終焉したころ、そこにあったさまざまなフォーラムの膨大な過去ログは一切なくなった。それには、よいことも悪いこともある。よいことは、ほじくり返されるべき過去が消えてくれたことで、悪いことは、考えるべき過去が消えたことだった。わたしはあわてて自分の書いた文章をテキスト・ファイルに収めたけれど、実際のところ、それは古いフロッピーディスクに入ったまま今まで見返されることもなく、もしかしたらこのままずっと見ないで済んでしまうかもしれない。もう誰にも読まれずに済んでほっとしているものも、正直ある。

 ただ、そのとき、ネットワークの運営側というのは、あれだけ大量の時間を費やして人々がテキストを交わした場を、あっけなく無くしてしまうことがあるのだなという認識は持った。交わされたテキストは文脈の中で初めてある意味を持つ。その文脈をまるごと消すことに、躊躇がない。

 それなら、そんな場に頼らずにきちんと自分でテキストを紡げばいいようなものだが、わたしは自分でもおかしいくらい、書くとすぐに反応を欲しがるたちで、読んだよとかいいねと言われるとすぐに調子に乗って次を書いてしまうような単純な人間である。単純な人間だからこそ、そういう反応を提供してくれる場や文脈への依存度は高いし、そうした場にどっぷりつかって抜けられなくなることの危うさも感じている。

 そんなわけで、Twitterという場はずいぶん便利に使わせてもらってきたが、一方で、いざとなったらそういうわたしが費やした人とのやりとりなぞ、必要があればすぐさま消し去るような場でもあるのだろう、ということはいつも感じていた。これはTwitterに限ったことではなく、世のさまざまなSNSにも、同じことを感じている。

 その恩恵と危うさのバランスをどう取るかは人によってそれぞれだと思うが、わたしがもうこれは潮時だなと思ったのは、菅野完さんのアカウントが永久凍結されたという話を知ったときだった。彼とは面識もないし、彼の文章には苛烈な表現があちこちにあると思っているし、必ずしも思想を同じくしない。けれど、彼の発言を、理由を明らかにすることなくまるごと「永久」なんて名の下に「凍結」してしまうやり方には正直ぞっとした。なるほどTwitterの規約を見れば、彼の発言が抵触しそうなことはあれこれある。しかし、どんな規約にも解釈ののりしろというものがあり、実際の境界は、適用の理由を明らかにすることによって初めて明らかになる。わたしがぞっとしたのは理由もなく規約の境界を示し、人にあれこれ理由を推測させるそのやり方である。

 まだ事はすべて明らかになったわけではないし、これからTwitter社は何らかのコメントを出すかもしれない。それぞれの人のそれぞれの使い方があるだろうから、他人のことはとやかく言わない。ただ、わたしはこれをそろそろ潮時だと思った。ソーシャル・ネットワークに関心を持つ者としてアカウントは残しておくし、ときどき覗いたり告知もするだろうけれど、これからはTwitterからは軸足をはずして、こんな風に書くことが増えるだろう。まあ、このブログのサイトも過去に何度かクラッシュしたりしているし、わたしの支払いが止まれば停止される。それまでゆるゆると、ということだ。

「この世界の片隅に」Blu-ray版を観る

 仕事場に届くようにしていたので、発売日から少し遅れていまごろ見ている「この世界の片隅に」Blu-ray版。まず14分のメイキングディスクから見始めたのだが、この14分で泣かされるとは思わなかった。

 本編について。画面の大きさ、誰かと見ることがもたらす感覚、離れたスピーカーから鳴る音など、劇場には劇場の、固有の体験があって、それと自室のモニターで見る体験は比べるべくもない。

 とは言え、間近なスピーカーから鳴る音は、音量は小さいものの細部がよく響き、これはこれで楽しい。たとえばすずの婚礼のあと、父母が帰り際に重ねるように声をかけるところで、劇場では二人の言っている内容をはっきり聞き分けるのは難しかったけれど、自室ではそれが分離して聞こえるのでちょっと驚いた。他にも、こんなところでこんな音がと、今まで気づかなかった音に気づかされた。

 画角が劇場より小さいせいか、全体から来る印象が少し違う。たとえば、波のうさぎの、松葉が風にあおられて、あちこちでぱたぱたと動く場面。あそこは劇場だと、江波山の雰囲気を味わうような大きさを感じるのだが、モニタだと、松葉や地面の草があちこちで、まるでのちに描かれるであろう波を予兆し、見ているこちらに合図を送っているかのような愛らしさが出る。なんというか、松葉のひとつひとつの揺れから、それが人によって描かれた感じが発せられており、挨拶をされているような気になるのだ。波のうさぎの一匹一匹からもそんな感じがした。もしかしたら、このモニタがちょうど人の描く画面のサイズに見合っているからなのかもしれない。

 このディスクでは、こんな風にあちこちの場面で印象が新しくなる。すでに劇場では10回観ているのだが、なんというか、新鮮な体験だった。しばらくして劇場に行ったなら、劇場の印象のほうもまた変わるかもしれない。

 特典映像の方はまた改めて時間のあるときに。