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『ゴドーを待ちながら』/過去の意味を書き換える

 『ゴドーを待ちながら』の静かに狂ったおもしろさは、いったん気づき出すとそこかしこに発見できるのだが、それは一つの発話にあからさまに表れているというよりは、発話と発話の関係にさりげなく埋め込まれている。たとえば次の部分のように。

ウラディミール:ゴドーのところで働いているのかね?
男の子:はい
ウラディミール:君によくしてくれるかね?
男の子:はい
ウラディミール:君をぶたないかね?
男の子:はい、わたしをぶたないです
ウラディミール:誰をぶつのかね?
男の子:わたしの兄をぶちます
ウラディミール:ああ、お兄さんがいるのかね
男の子:はい

 ウラディミールの「誰をぶつのかね?」という発話がまずおかしいのだが、なぜおかしいかといえばそれは、「君をぶたないかね?」という発話を遡っておかしくさせるからだ。なぜ「君をぶたないかね?」があとから遡っておかしくなるかといえば、この質問は最初、単にゴドーがやさしいかどうかをきいているように聞こえるからだ。ところが「誰をぶつのかね?」から遡ると、「君をぶたないかね?」は突然、「ゴドーはとにかく誰かをぶつようなやつなのだが、それは「君」ではないのか?」という問いとして読み替えられる。

 そんな問い方は狂っている。狂っているのだが、男の子が「わたしの兄をぶちます」と答えるために、この狂った問いは図星だったことが明らかになる。しかも、ウラディミールは図星だったことには関心を示さず「ああ、お兄さんがいるのかね」とまるで別のことに注意を向ける。

 こんな風にベケットは、のちの発話から遡って前の発話の狂気を明らかにする。明らかにしておいて知らん顔をする。そういうことが『ゴドーを待ちながら』のそこここで起こっている。

 会話分析では当事者の発話を一行ずつ追うことで、ある時点でどのような未来が予測できるかということと、実際に未来にどのような発話がなされるかということを区別する。この、未来に対する厳格さは、分析ではわりあいよく意識されている。

 一方、過去についてはどうか。過去の発話の内容は変わることはない。しかし、ある時点の発話は、その都度、過去の発話の意味を書き換える。どの行(発話のどの部分)がどのように過去の発話の意味を書き換えたかに気づかなければ、会話の深さを十分に分析したとは言えない。とくにベケットの書く会話をたどるには。

DVD版『この世界の片隅に』オーディオ・コメンタリ/キャスト編、目鱗だらけ

 DVD版『この世界の片隅に』、オーディオ・コメンタリ/キャスト編 出演:片渕須直(監督)・尾身美詞(黒村径子役)・潘めぐみ(浦野すみ役)・新谷真弓(北條サン役)がもうもう楽しく、発見が多い。物語の中に声で入り込んだ方々の視点は実に新鮮。

 たとえば駅員さんの「呉」のイントネーションについて、駅員さんらしさをとるか地元らしさをとるか。あるいは婚礼の日のキセノの「『だいじょうぶかいね』のカンペキさたるや!」とか(そうそう、津田真澄さんの突き放した広島弁は実にかっこいい)。あるいはあるいは干し柿を食べる音に対して「ちょっと干し柿食べたくなりますよねー」など。そしてもちろん、尾身さん、潘さん、新谷さんご自身の声の当て方や方言の問題、録音の過程、細かいガヤの声にいたるまで…おっと、このままだと全部書いてしまいそうなので、あとはDVDで確かめてみて下さい。

ユリイカ「蓮實重彦」特集を読みながら

あ、ここもここも、とメモを取り、かつ一方で吉増剛造の自伝にインスピレーションを得ているというのは節操がないにもほどがあるのだが、そうなってしまう。この二人は全くことばに対する感性というものが違っているし、戦後の捉え方も違っているけれど、それを、相容れぬ思想の違いというよりは、人の来歴の違いと考えている。ユリイカの「蓮實重彦」特集を読みながら。島尾敏雄は正直長すぎて過去に何度もあきらめた。安岡章太郎の正直さには感じ入るところがあった。安岡章太郎はなんとか読み通すことがなんとかできる。しかし、実をいえば詩だけでも頭の中が音でいっぱいになってしまうのだ。

「希望という名の党」、にしたらどうか

もうこれで民進党もなくなったも同然だ。いま出来合いの政策、出来合いの政敵、出来合いの「希望」にすがって小池氏についた人たちはあとで煩悶することになるだろう。煩悶せずに済む人たちはそれだけの人たちだったということで。今回どのように振る舞うかは旧(ともう書いてしまうが)民進党のそれぞれの人の考え方を表すことになるだろう。

新潮11月号(10/7発売)に展評「風の一撃:札幌国際芸術祭から」

 芸術祭を語るやり方にはいろいろあるが、わたしの場合それは、よい旅だったかどうか、というのを語るのに似ている。芸術祭の名の下に普段行かないところへ行き、そこで作品に出会い、その作品によって生みだされた自分のことばに導かれてまた別の場所へ行き、作品に出会う。そうした連鎖の果てにある一連なりの考えが見いだせたなら、それはよい旅であり、よい芸術祭だったということになるし、特段何も得られなければ、くたびれもうけだったと恨み言の一つも言うかもしれない。誰もが同じルートですべての場所を巡るというわけにはいかないだろうから、芸術祭がおもしろかった、つまらなかったといった語りについて考えるには、その語り手がどこをどうたどったのかを知らなければならないだろう。

 さて、8月17日から18日にかけて、札幌国際芸術祭の展示のごく一部を1日半かけて観たのだが、これはよい旅であり、あとで思いつきをいろいろ書き付けることになる経験だった。それがどんな旅だったかは、新潮11月号に短い文章を書いてますのでそちらを。

 また、KBS京都「大友良英のJAMJAMラジオ」を半ばジャックする形で2回分くっちゃべっていますので、そちらもどうぞ。

吉増剛造『火の刺繍-「石狩シーツ」の先へ』展について

芸術の森美術館:クリスチャン・マークレー展について

コンプライアンスは何を守るのか

 職場でコンプライアンスの研修会を受ける。コンプライアンスは法令遵守と訳されるけれど、最近はコンプライアンスという考え方の中には「法令」のみならず「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」まで含まれるのだそうだ。研修会じたいは勉強になったのだけれど、その「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に対して能動的にこたえていきましょう、というあたりでちょっと引っかかった。どうもこのところ、世の中が他人の振る舞いにやたら厳しくて、息が詰まる気がしているからだ。
 
 世間には、他人に厳しい処罰を求め、職場に電凹を集め、仕事を奪ったり辞めさせり二度と社会復帰させないことですっきりしようとする人たちがいる。仕事がなくなるということがどういうことか、養うべき家族がいて路頭に迷うということがどういうことかを想像もしないで。困るのは、そういう意見もまた、「お客さまの視線」の名の下に、「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に忍び込んで来ることだ。

 法令遵守というけれど、法令は単に処罰を厳しくするためだけにあるのではない。厳しすぎる処分を求める人から当事者を守り、処罰を適切な範囲内に収める意味での「法令遵守」という考え方もある。

 もし「コンプライアンス」に「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」のようなものまで含めていったなら、そして、それらの規範の意味や程度を問わずにひたすら能動的に守っていったなら、この社会は他罰的で息苦しいものになるだろう。

 リスクマネジメントとは、リスクをゼロにはできないものとして考えるところからスタートする。誰しも間違いに関わるリスクがあり、間違いに関わった人間には、何らかの形で救いがなければならない。「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」を能動的に守る前に、それらがわたしたちの間違いのリスクを適切に許容しているかを、点検してみる必要がある。社会規範というものは明文化されておらず、目に見えない。

 最近では、SNSなどで行われる批判があたかも「世論」としてSNS内で流通したりニュースにとりあげられる場合まである。しかしネットで行われる批判とそれに対する賛意の多さが社会規範を正しく表しているという保証はない。ときに、そうした批判は一般性や持続性を欠いた単なる「炎上」として、ネットで消費されているに過ぎない場合もある。もちろん、緊急性を要する処置に、Twitterなどの即時性のあるSNSが有効な場合もある。しかし人の賞罰や処分のように、急ぐ必要のない案件について、一時的なSNSの批判を考慮に入れすぎるのはどうか。事件の直後に為される批判が果たしてどれくらい「コンプライアンス」に関わるものなのか、法令遵守を唱える者は熟慮する必要があるだろう。

 さて、その研修会で、SNSを利用するときは免責文を使うこと、と学んだので、ここに、この文章は個人の意見であって組織を代表するものではないことを記しておく。この文章に限らずブログ内の文章は、すべて、個人の意見である。