松田聖子「瞳はダイアモンド」

聞き違いは詩へのステップボード。そう考える私にとって『瞳はダイアモンド』(松本隆:作詞、呉田軽穂:作曲)は忘れられない歌だ。初めて聞いたとき、確かにこう聞こえた。「いつか固形に、変わったの」。なんというイメージ。この歌でうたわれるできごとは全編、雨と涙に濡れている。映画色の街、切れ切れににじむ美しい日々、傘から飛び出した自分の身体、その体を濡らす幾千粒の雨の矢、そのすべてが「固形」に変わる。そして、固形の究極の結晶が「ダイアモンド」。語り手は、見る者をすべて石に変えてしまうメドゥーサをも越え、手に取ることができない映像や思い出すら、思い描いただけで、握りしめることのできる鉱物にしていく…。実は「いつ過去形に変わったの?」の聞き違いだとわかった今も、この「固形」のイメージは私の頭から消えず、この曲をきくたびに忍び込んでくる。

 初期の松田聖子の特徴に、高みに昇った声をさらにきゅっと高く裏返す歌い方がある。たとえば、『青い珊瑚礁』なら、「風」の真ん中を断ち切って「かーっ」、『夏の扉』なら「フレッシュ」のど真ん中、「フレーッ」で裏返す。これらの声を出すとき、松田聖子はそれまで口を開いて張り上げていた声をさっと切り上げるように口を閉じ気味にする。それが見る者をはっとさせる。

 『赤いスイートピー』の頃から、松田聖子の歌い方はささやきかけるような甘さを伴い出して、声の裏返しはここぞというとき以外には用いられなくなった。『瞳はダイアモンド』でも、前半ではその甘い声の方がフィーチャーされている。

 しかし後半になると、彼女の声は降りしきる雨を激しくするように高くなる。「ああ、泣かないでメモリー」。人に呼びかけるのではなくメモリー=記憶に呼びかけるところが、心象風景に確かなかたちを与える松本隆の詞の真骨頂なのだけれど、呉田軽穂こと松任谷由実のメロディがまたすばらしい。彼女はここで「メ↓モ↓リー」ということば本来の抑揚ではなく、あえて「メ↑モ↓リー」という旋律をあてる。この不思議な抑揚によって、「メモリー」は、もともとの普通名詞ではなく、まるで呼びかけることのできる固有名詞、特別な友達の名前であるかのように響く。

 そして、この曲で唯一、松田聖子の声が裏返るのが最後の「瞳はダイアモンド」の部分だ。彼女は「瞳は」と言ってからさっと声を裏返し、「ダイアモンド」で急に声を甘くする。かつて「青い珊瑚礁」や「夏の扉」の頃の松田聖子は、青春のまっただ中で相手を誘うように「風」や「フレッシュ」の真ん中で大胆に声を裏返し、溌剌と歌い続けた。しかし、『瞳はダイアモンド』では、感情が結晶と化す最後の一息を漏らすように、声がさっと高みに届いて、何ごともなかったかのように「ダイアモンド」になる。ああ、やっぱりこれは「固形」の物語だ。それにしても、なんてスウィートな固形なんだろう。

素敵じゃないか (“Wouldn’t it be nice” ) Beach Boys

素敵じゃない? 大人なら
もう待たなくてもいい
そして一緒に暮らせたら
ぼくらにふさわしい世界

いまよりずっといいんだろうな
おやすみのあとも一緒なんだ

素敵じゃない? 目覚めたら
朝には明日だよ
明日もずっと一緒だよ
夜もずっと抱き合うよ

しあわせを分けあうんだ
どのキスもずっと続くんだ
素敵じゃない?

考えて 望め 願え 祈れ
かなう
できないことなんてなくなって笑う
一緒になる
しあわせになる
素敵じゃない?

話せば話すほど
できないことがくるしいよ
でも話そうよ
素敵じゃない?

おやすみベイビー
ぐっすりベイビー
おやすみベイビー
ぐっすりベイビー

(“Wouldn’t it be nice” by Brian Wilson / 試訳:細馬)


 ”Wouldn’t it be nice if we were older” という言い方ができるんだな。大人になるということは「未来」のできごとだけれど、それを仮定法の「過去」で考える。そういえば日本語でも「大人『だったら』素敵だろうな」と言える。いま現在、実現していないことは、それが未来のことだろうと過去にあったことだろうと、仮定の上では過去になりうる。

 曲のほとんどはこの「〜だったら素敵だろうな」という夢で占められているのだが、最後にゆっくりと現在が歌われる。「話せば話すほど/今それなしで生きていること(live without it)がくるしい」。しかしその現在の「live」は、コーラスによってとてつもなく甘く響く。曲は、現在を夢に誘うように「おやすみ」で閉じられる。もしかしたら、イントロのメリーゴーラウンド音楽のようなリバーブは夢の合図で、この曲全体が夢なのかもしれない。

“Shout To The Top!” by The Style Council

ぼくは半分いない、ぼくは半分いる
雨がざんざんぶり跪いて祈る
お願い清めてちょうだいタマシイ
紹介される仕事まるで子どもだまし

ぼくは半分正気で半分狂気
どこのショウウィンドウ見ても全部おんなじじゃん
お願い死なないで済む合図ちょうだい
まるでどうしようもない何もあてにならないじゃん

これっておそるべきことじゃないのかな
生まれてからずっとこの調子だわ
頼まれもしないけど黙れもしない だって
心ん中じゃまいにち言ってんだ

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 だから上向いて
叫べ、ざけんなよ !
そう偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ !
偉いさん、ざけんなよ!

これっておそるべきことじゃないのかな
生まれてからずっとこの調子だわ
頼まれもしないけど黙れもしないだって
心ん中じゃまいにち言ってんだ
叫べ、ざけんなよ!(シャウト)
そう偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底だから上向いて
叫べ、ざけんなよ、(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 どうする?上向いて

背中ドンって蹴られて頭ゴン
ここはどん底 どうする?上向いて
叫べ、ざけんなよ、(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)
偉いさん、ざけんなよ!(シャウト)

(“Shout To The Top!” by Paul Weller/試訳:細馬)

Paul McCartney「I Don’t Know」のこと

 先行発売された「I Don’t Know」をきいて、ちょっと驚いたのはこの曲に見られるメランコリックな気分だ。若い人が「どこで間違えたんだろう?」と自問自答する歌をうたっているのなら、まあまたやり直しがきくじゃないかと慰めることはできる。でも、もう64才をはるかに過ぎ、70代後半になるポールが、行き先も見えずに迷う歌をうたうとき、それはもう取り返しがつかない感じがする。男女の人形が並んだPVを見ながら、わたしは、ベルリンで我が身を振り返るデヴィッド・ボウイの「Where are we now?」のことをちょっと思い出したりもした。


 いや待て。わたしは「ポール・マッカトニー詩集」を読んでいるのじゃない、ポールの歌をきいているのだ。これはただのゆううつな歌じゃない。周到に踏んでいくBbとEbのあとに「もう無理」でさっと声が高くなってGbに飛躍するとき、そしてその「もう無理」というメロディをベースラインがなぞるとき、そこには逃げ場のない確かさがある。その逃げ場のなさをまたなぞりたくなる。BbとEb。カラスを窓に。BbとEb。犬をドアに。ほら、もう無理だ。詰め将棋の行方をたどり直すとき、もう詰んでいるのはわかっているのに、ひとつひとつ置かれていくコマが示す手の鮮やかさに惚れ惚れとしてしまうように、「I don’t know」の足取りの確かさは何度もこの歌をきき直させる。


 そして、もう無理、の確かさと同じくらい、大丈夫、ぐっすり眠ろう、ということばもまた、確かに響く。もちろん痛みはきえないし、やり直しはできない。でも、「alright」の「ight」が「sleep tight」の「ight」と響き合うことから逃れられないように、大丈夫であることはぐっすり眠ることから逃れられない。Gmを鳴らしたなら、たとえ次がDmであろうともベースラインはFへ降りていくしかないように、このタイトな確かさこそが、「I don’t know」という事態を受け入れる最善のやり方なのだ。だから、終盤に女声コーラスまで入って、どうしてしまったんだろう、わからない、ととどめを刺すように歌っても、この曲はけしてどこにも救いのない絶望的な歌には響かない。わからない、というこのどうしようもなく避けられない事態は解決しないし、痛みも消えないけれど、眠りの確かさによって(まさに「ゴールデン・スランバー」によって)、きっと大丈夫になる。

(ミュージックマガジン2018年9月号 細馬宏通[『エジプト・ステーション』を読み解く」より)

再掲:パルクールとアフォーダンス(2012.12.1)

 人と人との身体関係を研究してきたユルゲン・シュトリークが記述するコロンビアのこどもたちの身体の動きは、ストリートとは何かをまざまざと実感させてくれるものだった。

 コロンビアはゲッセマナの教会の前。昼間は結婚式が行われることもある扉の前の石段が、夕暮れるとこどもたちの集う場所になり、カップルが睦み合う場所になり、携帯で話す者が束の間右往左往する場所となる。

 仲間との会話に飽きた小さな兄妹が、石段の周りをうろつき出す。兄が石塀をよじ登ると妹もよじ登る。兄が石塀を蹴ると妹も蹴る。柱にもたれかかると柱にもたれかかる。こうして兄は次々と「新しいルーティーンを試していく」。彼らはいわば、「アフォーダンスを探索し」「そこで何ができるかを『開示』していく」。 ここで、重要なのは、ただ誰かが一人孤独に環境とつきあっているだけではない、ということ。兄が動くことで、妹はいままでありふれた塀や柱に見えたものに、思いもかけないアフォーダンスがあることを発見する。

 シュトリークはこうした行為をパルクールになぞらえる。パルクールとは、階段、壁、屋根、手すりなど、街のあちこちにあるありふれた構造物を使って、ありえない方法、ありえないルートで駆け抜け、飛び越えていく運動のこと。ダヴィッド・ベルのパルクールを見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=x98jCBnWO8w&feature=fvst

 ベルの動きを見ているだけで、街の、隠されていた性質が次々と顕わになっていく。わたしたちは、ベルの身体能力にただ驚くだけでなく、そこで明らかにされるとんでもない街の姿にショックを受ける。壁は歩く方向を強制するのではなく飛び越えるためのもの。屋上は旅の終わりではなく、ギャップを飛び越える踏み台となるもの。そして手すりは歩きながらつかまるものではなく、思い切り飛んだ向こうできわどく手をかける係柱となる。  あたかもベルの動きのように、小さな兄妹の動きも、何気ない教会の構造物に隠されたアフォーダンスをあらわにし、「そこではそんなことができるのだ」ということを開示しているのだ。そうシュトリークは論じる。

 学術的なアフォーダンスの議論からしばしばコミュニケーションの問題が抜け落ちることにずっと釈然としなかったわたしは、このシュトリークの議論に胸がすく思いだった。ただわたしたちが動きさえすれば、すぐに環境の不変項が抽出され、アフォーダンスが明らかになるとは限らない。まず、誰かがそこを走り抜け、飛んでみせなければ、そもそもそこが移動できる場所だということさえわからない。そんな誰かの行為を体験したときはじめて、そのなんの変哲もない環境に、抽出しうる不変項があると意識される。ちょうど、マリオがブロックを叩くことで、そこに花があることをプレイヤーに気づかせるように。

 アフォーダンスは、世界の可能性に関する概念だ。しかし、そこにどんな可能性があるかは、単に、一個人と環境との関係に閉じているわけではない。その環境でどんな身体運動が可能かは、自分以外の他者の行為によって明らかになる。そう考えたとたんに、アフォーダンスを介したコミュニケーションの回路が開けてくる。

(2012.12.1 comics & songsに掲載)