スターマン(訳)

“Starman” by David Bowie

何時だったっけ灯を暗くして
わたしがよりかかってたのはラジオ
誰かがロックンロールに針を落として「なんともソウル!」って叫んだ
そのとき大きな音がすっと消えたと思ったら
ゆっくりした声が電波に乗ってうなりはじめて
それはDJなんかじゃない、宇宙の音楽だったんだ

ほらあそこスターマンが空で待ってる
わたしたちに会いに来たいんだけど
興奮させちゃまずいなと思ってる
ほらあそこスターマンが空で待ってる
興奮をおさえてって言ってる
そしたらすごいことが起こるからって
あのひとわたしにこう言ったんだ
コドモタチヲカイホウセヨ
コドモタチニテワタセ
コドモタチミンナオドラセヨ

誰かに電話しなくちゃと思ってかけたのがきみ
わあすごいな、あの声が聞こえたんだきみにも!
テレビつけてみよう、あのひとが映るかも、チャンネル2で
見て窓の外、見えるよきらきらさせてる
わたしたちもきらきらしよう、あのひと、今夜降りてきちゃうかも
パパには内緒だよ、ぎょっとしてわたしたち閉じ込めちゃうから

ほらあそこスターマンが空で待ってる
わたしたちに会いに来たいんだけど
興奮させちゃまずいなと思ってる
ほらあそこスターマンが空で待ってる
興奮をおさえてって言ってる
そしたらすごいことが起こるからって
あのひとわたしにこう言ったんだ
コドモタチヲカイホウセヨ
コドモタチニテワタセ
コドモタチミンナオドラセヨ

(試訳:細馬)

劇団・地点 京都公演「CHITENの近現代語」 2012.11.27(再掲)

 劇団・地点の京都公演「CHITENの近現代語」を京都に見に行った。『光のない。』の熱演のあと、どんな上演なのかと思ったけれど、あれだけの複雑なテキストを駆使した上演のあとも、まったく異なるテキストを正確に演じる安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平の力量は並々ならぬものだった。
 玉音放送(口語訳)、大日本帝国憲法、朝吹真理子『家路』、別役実『象』、犬養毅の演説、日本国憲法前文という、硬軟とりまぜたテキストが、独特のことばの区切りと抑揚によって唱えられる。

 中でも玉音放送の口語訳は、先の『光のない。』を想起させる挑発的な内容だった。
 玉音放送の原文では「朕」という主語が使われる。地点の演じた脚本は口語訳を使っていたが、冒頭、この「朕」ということばを、一音一音区切るように奇怪なイントネーションで発音し印象づけていた。朕は一人称ではあるが、それを発することができるのは一人だけ、その意味で固有名詞的でもある。
 一方、玉音放送の口語訳では「わたし」ということばが使われる。「朕」を一人称として用いている原文では意識されにくいことだが、「わたし」と言ったとたんに「わたしの臣民」「わたしの陸海將兵」といったことばが、強い所有格となって浮き立ってくる。
 二人称もまた、独特のひびきをおびる。原文では「爾」という二人称の呼称が単数複数の区別をあいまいにすることによって、臣民一人一人に語りかけるような調子をもたらしているのだが、それが口語訳では「あなたがた」と訳される。「あなたがた」になると、とたんにそれは、複数の相手に呼びかけられており、「臣民」がとりまとめられているかのような調子を帯びる。
 「光のない。」では、執拗な「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という、一人称/二人称、単数/複数の対比によって、そこに含まれているわたしやあなたやわたしたちが誰のことなのかを問いかけ、俳優の配置の変化によってその答えを揺さぶっていた。一方、玉音放送口語訳は、「朕/爾」を「わたし/あなたがた」に変換することで、そこに無意識に埋めこまれていた一人称の固有名詞性、二人称の単数性を剥ぎ取り、日本語の所有格や目的格がもたらす酷薄な関係を剥き出しにしていた。
 二つの劇を見比べることで、三浦基がこれらの一人称に極めて自覚的な作劇をしていること、そして一聴すると奇怪なイントネーションは、けして奇をてらったものではなく、これら一人称をいったん音に解体した上で、あらためて音や抑揚の相似性によって結びつけ、ふだんは意識されにくい分の構造を浮かび上がらせていることに、あらためて気づかされた。

 朝吹真理子の『家路』には、年単位の時間が流れているのだが、同じ所作、同じ抑揚を唱え、行為の繰り返しを強調することで、不思議な抒情が流れる。繰り返しは意味的なものというより、たとえば助詞の「と」を唄うように唱えることによって強められる文構造的なものなのだが、それが、台詞の情感ではない分、かえって抒情が生まれるのが意外だった。わずか数分の間に幾度も違う夏が訪れるよう。人と人との間をすいと入ってまた出てくる時間の見立てもおもしろかった。
 小道具は網でさげられたスイカ。この時期、スイカは高くてデパートで3000円したそうだ。箱入りで売られてたのだが、それじゃ気分が出ないというので網に入れたのだとか。それだけの効果は感じた。もう京都は紅葉も散って戸外は冬なのだが、あのスイカのおかげでひととき夏だった。

 別役実の「象」のテキストは戦後の被爆者のあり方について書かれた部分で、そこだけ取り出すと、安部公房の『他人の顔』を想起させる。「象」はもうずいぶん前に脚本を読んだことがあるが、そのときはそんな風に感じなかったので驚いた。以前見た『ワーニャ伯父さん』にも時折そういう部分があったが、地点の台詞は、メカニックな抑揚に演劇人特有の発声が乗って、際立って酷薄な憎悪に聞こえるときがある。心理学では情動を、感情価(ポジティヴ/ネガティヴ)と覚醒度(高い/低い)の二軸で説明することがあるが、彼らの残酷な声と台詞には、感情価は押し殺されながらしかし覚醒度だけは高いという、奇妙なねじれが感じられる。実は、この点については、未だにどう受け止めてよいかわからず、戸惑っている。

 犬養毅の演説の中に、「一個人」ということばが混じる。一個人なのだから、一人の声によって語られることばのはずだが、それが群読されることで、一が増殖する。あたかも、ブラボーブラボーと演劇を称える拍手が増殖して、一個人の賞賛が増えていくように。三浦基の演出は、一を全体に変換するのではなく、むしろ、一が一つずつ増えていき「わたしたち」や「あなたがた」になるその過程のおぞましさを腑分けしていくようだ。

 Cafe Montageの落ち着いた雰囲気もよく、上演後、客にワインがふるまわれ、三浦さんや出演俳優と親しく話す時間があったのもよかった。京都ならではかもしれない。東京だと、より集客は楽だったろうけど、「光のない。」評判後のこと、もっとざわざわした密集空間になっただろう。

(2012.11.27)