ぎっくり日記 2018.01.01

1/1 足を通過する筒問題

 とりあえず椅子にある程度座っていられる方法を考える。背もたれは必要なようだ。いつものように前傾姿勢でパソコンを打っているとじきに腰痛でいやになってしまう。かといって、腕を伸ばしてキーを打つのもあまりもたない。キーボードを手前に寄せ、椅子をぐっと近づけて、背もたれながら打てる場所を探っていく。椅子の高さもあれこれ調節。いつもはこんなことは考えもしないのだが。

 靴下をはくのが面倒だ。靴下をはくにはどうやっても、片足を浮き上がらせなければならない。そして両腕をぐっと前に延ばさねばならない。これらの動作はどうしても腰をピキッとさせる。一瞬ピキッとするのはもうしょうがないとして、これが何度もくるのは避けたい。

 自分がいつもやってる靴下のはき方は、なっていなかったことに気づく。わたしは、靴下をまず踵のあたりまでぎゅっと寄せて、筒状になったのをすぽっと足先にはめるのを常としていた(図下)。このとき、じつは爪やら足裏のささくれやらで、すぽっとはいかずにひっかかることがある。腰がなんともないときはそんなことは意識にものぼらなかった。

 ところが、ギックリには、これが耐えがたい。ひっかかったならば、当然、もう一度靴下をはめ直すべく、再び爪先まで腕を伸ばさねばならぬ。伸ばせばあのビキッがまたやってくるのだ。何度か靴下をはいてようやく、このきわめて基本的な問題に気づいたので、今は靴下を先の先までぎゅっと寄せてからはくようにしている(図上)。

 もうひとつ。ギックリにとって、足を宙に浮かせたままにしているというのは意外な負担だ。靴下だけでなく、ズボンや下着をはくとき、普段は片足ずつ宙に浮かせるのだが、これはもうビリビリのビリでなんともイヤな痛みを伴う。靴下の場合は、足をまるまる浮かせるのではなく、踵をつけたまま先っぽをはめ、するすると寄せてあった部分を踵に向けて延ばしていき、踵のところにきたらそのときだけひょいと浮かして、また踵をつける。これでもだいぶん違う。

 ズボンや下着の場合も、筒の部分を寄せることができるのであれば、ぎゅっと寄せて、足裏や踵を通過する時間を一瞬に縮める。

 筒状のものが足先を通過する問題は、もう少し考えようがありそうな気がしている。

 昨日は大晦日だったのでけっこう酒を飲んだのだが、酒は腰痛によろしくないそうで、今日からは摂生。正月だというのに物足りないがしかたない。午前中、原稿。というか、先の姿勢調整を考えている時間の方が長かった。

 夕方、実は見たことのなかったキャメロンの「タイタニック」を見る。長くて閉口したし、主人公のカップルにもあまりぐっとこなかったけど、キャメロンがこのときから3Dの人だったのだということは、冒頭の海底探査のシーンをはじめ各所でわかった。

 みなもと太郎原作の「風雲児たち」。腑分けの虎松の場面が、原作の勢いを感じさせて楽しい。前野良沢の最前線の孤独。もう少し細かいところを味わいながら倍の長さくらいの連続ドラマで見たかった。それにしても神経が痛い。

ぎっくり日記 2017.12.31

12/31 ギックリがうつぶせになるときなぜイタイのか?

 何度も寝返りで目覚めてしまう。寝返りが腰にくるとは思わなかった。自分で寝返りをスローモーションでやってみる。なるほど。どうやら我が右腰は、上半身と下半身の間に急な捻りがあるとイテテテとなるらしい。

 ではなぜ寝返りごときで上下半身の間に急な捻りが生まれるのか。それは掛け布団と体の間にある摩擦のせいらしい。体が寝返ると、摩擦で掛け布団が体にくっついてくる。すると、掛け布団は寝返った方にずれる。それがいやなので、わたしは掛け布団がついてこれないほどのスピードで上半身を回転させていたのだ。すると当然、下半身がついてこれなくて捻りが生じる。そこで、片腕を尻にあて、腰に捻りが加わっていないか確かめつつ、もう片腕で掛け布団の端を引き、体の回転によってずれないようにしながらそろそろと寝返ることにした。これを意識的にやるとあまり痛くない。ただし、眠ってるときにわざわざこんな寝返りは打たないので、つい捻りが入ってしまい、また起きてしまう。

ギックリがうつぶせになるときの、イタイやり方、イタクナイやり方。

 もう一つ不思議だったのは、横向けからうつぶせになろうとするときに痛いことだ。そろそろと体を回転させているのに、最後の最後でぴりっと痛い。これもスローモーションでやってみると原因がわかった。横向きからうつぶせになるときには、下側の腕がじゃまになる。横向けからうつぶせになる最後の瞬間に、わたしはこの腕を抜こうとして上半身だけをひねっていたのだ(図)。冷静に考えてみれば、別に腕に怪我をしているのではないのだから、下側の腕には束の間下敷きになってもらい、むしろ上半身と下半身の回転を連動させることに意識を向ければよい。そこで、上側になった腕を尻に当て、上半身と下半身の間で捻れがないことを確認しながらそろそろと体軸を回転させる。このとき、下の腕は下敷きになるがかまわない。顔が完全にうつぶせになったら、尻にあてていた腕を前に出してちょっとつっぱりながら、下敷きになった腕を静かに抜く。これで、ほぼ無痛でうつむくことができる。

 それにしても、上下半身のほんのちょっとの捻りがこれだけ明確な痛みを生むとはきづかなかった。腰痛を抱える高齢者の介護でもこの点は注意するといいのかもしれない。

 夕方、熊谷晋一郎さんと少しツイートしたら、痛みの時間スケールをズームイン/アウトする話になり、なんだか楽しくなってきた。

「動作の踊り場」という句を思いつく。動作が翻る場所で、これまでの痛みに対する感覚、予測誤差の履歴が検討され、次の動作のもたらす結果に対する予測が更新される(つまり、痛みが更新される)。そしてこうした踊り場は、介助の場面では相互行為的に発生するはずだ。お互いの発声と動作のタイミングのずれから、相互行為的な痛みが発生し、それは動作の踊り場において更新される、という具合に。

ぎっくり日記 2017.12.30

12/30 ぎっくりが来た

 朝、原稿執筆。午後から書棚の整理。自室から学校へと運び込むべくホームセンターで段ボールを買ってくる。ここで一つ失敗をした。これまでは10Lの段ボールを買っていたのだが、今回なぜか間違えて一回り大きい12Lを買ってしまった。このサイズは判型違いの書物も楽々入るので便利なのだが、つい詰めすぎてしまうのが難点だ。案の定、一箱運ぶごとに明らかに腰にきているのがわかる。結局、7箱分を詰めて運んだ。学校では台車を使って二回に分けたので、直に運ぶよりはマシだったが、上げ下ろしでそれなりに体力を使った。

 帰ってきて、ようやく空いた本棚に目指す本を入れようと屈んだとき、びりびりっときた。立とうとするが這いつくばってしまう。よく腰が抜けるというが、抜けるというよりは、立ち上がろうとするたびに四方八方で痛みが群発して、どうしていいかわけが解らなくなってしまうという感じ。

 ああ、これが「ぎっくり腰」というやつなのか。

「ぎっくり腰」という症状名が思い浮かぶと、なぜか這いつくばっている自分に理由がついた気がして、わあだめだー、と声に出して床をそのまま這ってひとまず敷きっぱなしの蒲団にたどりつく。しかし、寝転ぼうとするとすでに痛い。ひどいことになった。

 寝転んでしばらくすると、やはり痛いのだが、それは手なずけることのできる痛みであるように思われてきた。そしてその鈍痛がベースラインになって、どっちの方向に動かすとより痛いか、ということに気が向くようになった。どうやら右の臀部のあたりのようだ。這ってスマホをとってきて検索。「ぎっくり腰」で引くと、いろいろ出てくる。とりあえず年末だし、医者にかかってすぐによくなるものでもなさそうだ。いろいろやり残したことがあるし書かねばならぬものもあるが、寝る。

【試訳】セサミ・ストリートのテーマ

はれて くもをはらって
あるけばほら いいにおい
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート

あそぼう なんでもぜんぶオーケー
へんなおとなりさん
あってみよう
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート

まるで魔法 じゅうたんで
どんなドアも全開
ごきげんなきみなら
ごきげんなら
なんてすてきに

(試訳:細馬)

阿部青鞋の句/「ひとるたま」から(6)

悲しみは我にもありとむかでくる

阿部青鞋『ひとるたま』より。

 「我に『も』」と言う以上は、事前に悲しみにひたる人がいたり、悲しみに関する思考なり語らいがあったはずなのだ。その感情や思考や語らいの最中に、まるでお呼びでないはずのむかでが、「我にもあり」とやってくる。たくさんの足をぞろぞろ動かしながら。おそらく足の数だけ、足の動きだけ悲しみがあるのだろう。いや、もしかしたらむかでにはむかでなりに、もう少し繊細な悲しみがあるのかもしれないが、そんなに足をいっせいに動かされては、もう足なのだと思うしかない。たくさんの悲しみを動かし、たくさんの悲しみで歩いてくる。しかしこの悲しみたちはなんとなめらかにすばやくのだろう。わたしの悲しみはもうどこかへ行ってしまった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(5)

 螢火は螢の下を先づてらす  阿部青鞋『ひとるたま』より。

 先の評と異なるところから始めたい。というのも、この句を読み直して、わたしはまず「てらされた螢の下に入りたい」と思ったからだ。わたしはてらされていない。しかし極小の螢下空間はてらされている。それはちいさなちいさな虫の尻の下に過ぎないのだが、わたしはあえて、そこに潜りたい。忍び込みたい。そういう欲望を「先づ」は点火するのだ。なぜなら、読者である私は「先づ」に遅れるから。遠くで灯る火、自分が気づくよりも早くすでにそこで灯っている火を見るとき、わたしたちは吸い込まれるようにそこへたどりつきたいと思う。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニが坂を下っていくと、坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っているのを見つける。そのとき、ジョバンニはそこに「先づ」坂の下をてらしている街燈を見つけて、その街燈の下へどんどん下りていく。影ぼうしはどんどん濃くなる。ジョバンニのようにわたしも螢を見つける。わたしのためではないその光の下へわたしは下りていきたい。なんなら蛍雪の故事のごとく、その尻の下で本を読みたい。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(4)

螢火は螢の下を先づてらす

 阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。

 ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(3)

手の甲を見れば時間がかかるなり

 阿部青鞋『ひとるたま』より。暇つぶしならば、時間は「経つ」はずだ。けれど青鞋は、時間が「かかる」と書く。どうもこれは、単なる暇つぶしではない。むしろ何かに「取り組んでいる」のだ。しかし、たかが手の甲を見るくらいのことに人は「取り組む」だろうか。おそらく最初は、何の気なしに始まったのではないか。たとえばてのひらを見るように。しかし、いざ始めてみると、てのひらのようにはいかなかった。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手の甲について何か考えようとして手の甲を動かす。しかし変化といえば、手の甲に浮き出した骨が、指とともにその浮き方をわずかに変えるくらいで、なかなか手の甲は正体を現さない。気がつくと、本格的に「取り組んでいる」。手の甲をどうにかしてやりたい。指に隷属する動きではなく、手の甲自体に手の甲の意志を浮き立たせるような積極的な表現を持たせてやりたい。そんな親心をよそに、手の甲はただわたしの年齢並みの皺やらがさつきやらを纏っているばかりだ。たぶん、わたしの顔も、いま、手の甲のようになっている。

『カーネーション』再見 #53

 山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
 「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
 「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
 ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。

 実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。

阿部青鞋の句/『ひとるたま』から(2)

 要するに爪がいちばんよくのびる

 阿部青鞋『ひとるたま』より。「要するに」でまずぎょっとする。要するに、とは急ぎのことばであり、要されてしまった以上この句は最後まで一気に速く読まねばならない。速く読み終えてから、なんだったのだろうともう一度読み直す。爪がいちばんよくのびる。何も難しいことは書かれていない。いないのだが、「いちばん」というのが気になる。いちばん、という結論を出すための比較や思考が要するに要約されているからだ。何と比べられ、爪が残ったのか。爪がナンバーワンだとして、ナンバーワンにならなかったものはなにか。髪か、睫毛か、産毛か、鼻毛か、はたまた陰毛か。ああ毛しか思い浮かばない。わたしたちは毛しかのばすことができないのか。いや、人体から離れよう。植物ならいくらでものびるし、みるみる育つ。わたしは最近、スーパーで豆苗を買ったのだが、こいつはスポンジに植わった豆ごと売っており、ハサミでじょきじょきと苗の部分だけ切ったあと豆に水をやると二週間ほどでまた食えるほどの大きさになる。じつによくのびるではないか。勤務先では今日も草刈りが行われたが、その刈られた草の隙間からさっそくミントの小さな芽が新しい陽当たりを得て顔をのぞかせていた。かように、のびるものはいくらでも思いつく。思いついてから、じっと手を見る。手のひらではない。手の甲だ。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手のひらは皺を寄せたりのばしたり、実に表情が豊かなのに、なぜ手の甲は無愛想なのか。動かしても動かしても、骨がひくひくと移動するだけだ。ふと爪が目に入る。そうか。爪はもっと無愛想だ。動かしても動かしても形が変わらない。やはり爪だ。爪は甲より自由にならぬ。そして爪は毛よりのびる。要するに爪がいちばんよくのびる。

 かくしてこの文章はようやく要するだけの長さを得た。得たのだが、これでもまるでこの句に書かれなかったことを言い当てた気がしない。この句には、宇宙マイナス爪の虚が広がっている。